第4話 花
前田典子は、自分が人と少し違うことを知っていた。
それは美人だからではない。
まだ中学一年生だった。
将来、誰もが振り返るような女性になるなど、自分でも知らない。
だが。
人が自分の言葉を聞く。
人が自分の機嫌を気にする。
人が自分を中心に動く。
そのことだけは、ずっと前から知っていた。
◇
典子の家は普通だった。
父は会社員。
母はパート勤務。
兄が一人。
裕福でも貧乏でもない。
特別な家庭ではなかった。
夕食はテレビを見ながら食べる。
休日はショッピングモールへ行く。
よくある家族。
ただ一つ違ったのは。
典子がいると、なぜか物事が典子中心に回ることだった。
「今度の日曜、どこ行く?」
父が聞く。
兄が答える前に母が言う。
「典子はどうしたい?」
典子は箸を止めた。
「別にどこでもいいよ」
「そんなことないでしょ」
「本当に」
「でも典子が楽しめないと意味ないじゃない」
兄が苦笑する。
「俺の意見は?」
「聞いてるじゃない」
「聞いてるだけだろ」
父も笑った。
典子も笑った。
だが内心では考えていた。
(なんでだろう)
なぜ自分が優先されるのか。
昔からそうだった。
幼稚園でも。
小学校でも。
家でも。
習い事でも。
理由は分からない。
ただそうなる。
◇
典子が初めてその力を意識したのは、小学校五年生の時だった。
クラスに孤立している女子がいた。
理由は単純だった。
少し空気が読めない。
少し話が長い。
少し変わっている。
それだけ。
だが子供の世界では十分な理由になる。
ある日。
昼休み。
その女子が一人で弁当を食べていた。
周囲は見て見ぬふりをしている。
典子は近くへ行った。
「隣、いい?」
女子は驚いた顔をした。
「え?」
「だめ?」
「だ、だめじゃない」
典子は座った。
ただそれだけだった。
翌日。
別の女子が来た。
さらに翌日。
また一人増えた。
一週間後には元通りになっていた。
典子は不思議だった。
(私、何かしたっけ)
何もしていない。
ただ座っただけだ。
だが周囲は違う認識だった。
前田典子が認めた。
その事実だけで十分だった。
◇
中学に入ると、その傾向はさらに強くなった。
学級委員。
応援団。
文化祭実行委員。
何かを決める時、自然と名前が挙がる。
本人は立候補していない。
推薦される。
「前田さんなら」
「前田さんがいい」
「前田さんに任せよう」
典子は断ることもあった。
それでも最終的に引き受けることになる。
なぜなら。
断ると皆が困るからだ。
少なくともそう見えた。
◇
ある日の放課後。
クラスで揉め事が起きた。
文化祭の出し物だった。
「お化け屋敷がいい」
「喫茶店だろ」
「演劇に決まってる」
議論は平行線だった。
担任も困っている。
時間だけが過ぎる。
その時。
「じゃあさ」
典子が口を開いた。
全員が静かになった。
「全部やればいいんじゃない?」
「え?」
「お化け屋敷の中に喫茶店作って、最後に演劇やるの」
沈黙。
誰かが言った。
「意味分かんない」
「うん」
典子は頷く。
「でも面白そうじゃない?」
数秒後。
「確かに」
「それ面白いかも」
「やってみる?」
話がまとまった。
担任が安堵する。
典子自身が一番驚いていた。
(本当にまとまった)
冷静に考えれば無茶苦茶だった。
だが人は論理だけで動かない。
面白そう。
楽しそう。
やってみたい。
その感情の方が強い。
典子は少しだけ理解した。
人間は正しさで動く生き物ではない。
◇
そして。
もう一つ理解していた。
言葉は武器になる。
殴るより強い。
怒鳴るより強い。
人を動かせる。
しかも相手は感謝までしてくれる。
便利だった。
とても。
◇
中学二年の秋。
典子は告白された。
初めてではない。
三人目だった。
「好きです」
相手はサッカー部だった。
背が高い。
爽やか。
女子人気もある。
だが典子は困った顔をした。
「ごめんなさい」
「理由、聞いてもいい?」
典子は少し考えた。
本当のことを言うべきか。
迷った。
「まだ誰かを好きになったことないから」
それは本当だった。
男子に興味がないわけではない。
だが恋愛感情が分からない。
皆が騒ぐほど特別なものに思えなかった。
相手は苦笑した。
「そっか」
「ごめんね」
「いや、いいよ」
その場は終わった。
だが帰り道。
典子は考えていた。
(なんで好きになるんだろ)
理解できなかった。
人を動かす方法は分かる。
感情も分かる。
だが自分自身が誰かに動かされる感覚だけは分からない。
それは後に彼女の人生に大きな影を落とすことになる。
◇
その頃。
森本明はリハビリを始めていた。
指は動かない。
医師も原因を特定できない。
それでも諦めなかった。
毎日。
毎日。
指を動かそうとする。
音を取り戻そうとする。
◇
一方。
山畑裕英は川で釣りをしていた。
何も考えていない。
将来も。
進路も。
運命も。
ただ魚を待っていた。
すると。
誰も釣れない中で一人だけ大物が釣れた。
「なんでだよ」
友人が言う。
裕英は笑った。
「知らん」
本当に知らない。
◇
三人はまだ出会わない。
それぞれ別の場所で生きている。
才能を失った少年。
運に愛された少年。
人を操る少女。
共通点はない。
少なくとも今は。
だが人生は奇妙だ。
交わらないはずの線を。
平然と交差させる。
しかも本人たちが忘れた頃に。
◇
夜。
典子は鏡の前に立っていた。
洗面所の白い光。
静かな家。
鏡の中の自分を見つめる。
綺麗だと思う。
客観的に。
自惚れではなく事実として。
だが。
満たされてはいなかった。
(私は何になりたいんだろう)
裕英と同じことを考えていた。
明とも同じだった。
人は結局、自分の未来を知らない。
知っていると思い込んでいるだけだ。
そして未来は、たいてい予想を裏切る。
良くも。
悪くも。
残酷なほどに。
静かに。
【第5話 最初の目 へ続く】




