第3話 運の子
森本明が病院の白い天井を見上げていた頃。
山畑裕英は自転車で坂道を爆走していた。
「うおおおおおお!」
本人は楽しい。
周囲は迷惑だった。
住宅街の下り坂を全力で走る。
ブレーキはほとんど使わない。
風が顔に当たる。
景色が流れる。
生きている感じがする。
それだけだった。
十二歳の男子なんて、大体そんなものである。
問題は。
その先の交差点だった。
大型トラックが曲がってくる。
速度は速い。
裕英は気づいていない。
近所のおばさんが悲鳴を上げた。
「危ない!」
誰が見ても間に合わなかった。
だが。
トラックの運転手が急ブレーキを踏んだ。
いや。
踏まざるを得なかった。
道路の真ん中を猫が横切ったのだ。
運転手は猫を避けた。
トラックが止まる。
裕英が通過する。
何事もなかった。
「おー、猫だ」
裕英は笑った。
おばさんはその場に座り込んだ。
「寿命が縮んだ……」
「大丈夫ですよー」
「あなたが言うことじゃない!」
その通りだった。
◇
裕英は昔からこうだった。
運動会。
リレーの選手には選ばれない。
勉強。
平均点より少し下。
絵。
下手。
歌。
音程が迷子になる。
特別な才能は何一つなかった。
本人も認めている。
「俺って普通だよな」
小学六年の時、友人にそう言った。
「普通以下じゃね?」
「それは言い過ぎだろ」
「でも勉強できないじゃん」
「うん」
「足遅いじゃん」
「うん」
「モテないじゃん」
「うん」
「ほら」
「確かに」
裕英は笑った。
落ち込まない。
深刻にならない。
良くも悪くも、自分を大きく見せない性格だった。
だからこそ周囲も好意的だった。
能力がある人間は嫉妬される。
能力がない人間は見下される。
その中間にいる人間は案外生きやすい。
裕英はそこにいた。
ただし。
ひとつだけ異常なものを除いて。
◇
中学一年。
学校行事で山登りがあった。
裕英は疲れていた。
「もう無理」
「まだ半分だぞ」
「死ぬ」
「大げさだな」
クラスメイトが笑う。
裕英は木陰に座った。
その時だった。
空が暗くなった。
遠くで雷が鳴る。
「やばくね?」
「雨だ」
教師たちが慌て始める。
数分後。
豪雨になった。
全員が避難を始めた。
山道は滑りやすくなる。
視界も悪い。
最悪の状況だった。
そして。
先頭集団が通った斜面で土砂崩れが起きた。
悲鳴。
怒号。
混乱。
幸い死者は出なかった。
だが十数名が負傷した。
その時。
裕英はどうしていたか。
木陰でサボっていた。
疲れたから。
ただそれだけの理由で。
結果として。
一番安全な場所にいた。
◇
「お前、運良すぎだろ」
後日、友人に言われた。
「そうか?」
「そうだよ」
「たまたまだろ」
「毎回たまたまなんだよ」
裕英は首を傾げた。
確かに言われてみればそうかもしれない。
だが。
運というものは持っている本人ほど気づかない。
空気みたいなものだからだ。
常にあるものは認識しにくい。
魚が水を意識しないように。
裕英も自分の幸運を理解していなかった。
◇
中学二年。
父親の会社が倒産した。
突然だった。
ある日帰宅すると、父親が居間で煙草を吸っていた。
珍しい光景だった。
母親の顔色も悪い。
「どうしたの?」
裕英が聞く。
父親は苦笑した。
「会社が潰れた」
「ふーん」
「ふーんじゃない」
母親が呆れる。
だが裕英には実感がなかった。
倒産という言葉が遠かった。
その後、生活は少し苦しくなった。
外食が減った。
旅行もなくなった。
新しいゲームも買えなくなった。
だが。
一か月後。
父親は再就職した。
しかも前職より給料が高かった。
「なんで?」
裕英が聞く。
父親は頭を掻いた。
「知り合いから連絡が来てな」
「偶然?」
「まあ偶然だな」
偶然だった。
十五年前、一度だけ仕事をした相手だった。
たまたま思い出した。
たまたま連絡した。
たまたま人を探していた。
その偶然が重なった。
裕英は笑った。
「ラッキーだな」
父親も笑った。
「そうだな」
誰も気づかない。
その偶然が異常な確率であることに。
◇
裕英は夜、布団の中で考えることがあった。
将来についてだ。
何になりたいのか。
何をしたいのか。
友人たちは夢を語り始めていた。
プロ野球選手。
医者。
教師。
警察官。
色々いる。
だが裕英にはなかった。
(俺、何になりたいんだろ)
分からない。
やりたいこともない。
得意なこともない。
好きなことはある。
漫画。
ゲーム。
釣り。
昼寝。
だが仕事になる気はしない。
それでも不思議と焦りはなかった。
何とかなる気がした。
根拠はない。
ただそんな気がする。
今思えば。
それは自信ではなかった。
経験だった。
人生で何度も助かってきた経験。
失敗しても何とかなるという実感。
運がいい人間は、世界に対する恐怖が少ない。
裕英はまだ知らない。
それが長所でもあり。
欠点でもあることを。
◇
その頃。
森本明は病院を回っていた。
原因不明。
異常なし。
経過観察。
どの医師も似たようなことを言う。
右手の指は動かない。
だが理由は分からない。
明は黙っていた。
両親も疲れていた。
家の中から音楽が消えていた。
◇
一方。
前田典子は人の心を観察していた。
まだ誰も知らない。
この三人がいつか交差することを。
才能。
幸運。
魅力。
三つの異なる人生。
三つの異なる武器。
そして三つの異なる運命。
だが。
その全てはまだ始まったばかりだった。
人生という長い道の上で。
彼らはまだ最初の数マスを進んだに過ぎない。
そして誰も知らない。
次のサイコロがどんな目を示すのかを。
【第4話 花 へ続く】




