第2話 天才
森本明の家には、いつからかピアノの音があるのが当たり前になっていた。
朝、母が味噌汁を温めている時も。
父が新聞を広げている時も。
夕方、近所の犬が吠えている時も。
明はピアノの前に座っていた。
弾けと言われたからではない。
弾かないと落ち着かなかった。
音は明にとって、言葉よりも先にあるものだった。
嬉しい時は高い音が出た。
不安な時は低い音が沈んだ。
腹が立つ時は鍵盤が少し強く鳴った。
母はそれを聞いて、台所から声をかけた。
「明、今日は何かあった?」
「別に」
「別に、って音じゃないけど」
明は鍵盤に指を置いたまま、首を傾げる。
「音で分かるの?」
「分かるわよ。お母さんだから」
母は笑った。
明は少し考えてから、また弾き始めた。
(音って、隠せないんだ)
その時、明は初めてそう思った。
◇
最初に明の才能に気づいたのは、近所のピアノ教室の講師だった。
名前は高柳真知子。
五十代半ばの女性で、いつも薄い紫色のカーディガンを着ていた。
母が明を連れていったのは、ただの習い事のつもりだった。
子供が音楽に興味を持っている。
それなら一度、先生に見てもらおう。
その程度だった。
だが高柳は、明が最初の一曲を弾き終えた瞬間、椅子から立ち上がった。
「もう一回、弾いてくれる?」
「はい」
明は同じ曲を弾いた。
高柳は途中で止めた。
「今のところ、どうしてそう弾いたの?」
「どうして?」
「楽譜とは少し違うでしょう」
明は不思議そうに答えた。
「こっちの方が、ちゃんと終わる気がしたから」
高柳は黙った。
その沈黙が長かったので、母が不安そうに尋ねた。
「あの、何か問題がありましたか?」
「問題?」
高柳は母を見た。
そして、小さく笑った。
「逆です。問題があるとすれば、普通の教室では足りないかもしれないことです」
母は言葉を失った。
明だけが、よく分からない顔をしていた。
◇
それから生活が少しずつ変わった。
練習時間が増えた。
課題曲が増えた。
休日は遊園地ではなく、レッスンになった。
父は明のために中古のアップライトピアノを買った。
リビングの一角にそれが運び込まれた日、家の空気が変わった。
大きな黒い箱。
艶のある表面。
重そうな鍵盤。
明はしばらく黙って見つめていた。
「弾いてみるか?」
父が言った。
明は頷き、椅子に座った。
最初の一音が鳴った。
電子ピアノとは違った。
音が部屋の壁に当たって、戻ってくる。
自分の指で押したはずなのに、ピアノの内側で別の生き物が返事をしたようだった。
明は笑った。
「すごい」
父も母も、その笑顔を見て笑った。
この時、家族は幸福だった。
幸福というものは、多くの場合、あとになってからしか分からない。
その瞬間には、ただ日常の顔をして座っている。
たちの悪い泥棒みたいに。
◇
明は学校では目立たなかった。
勉強はできたが、飛び抜けていたわけではない。
運動はむしろ苦手だった。
走ると遅い。
球技ではボールが顔に当たる。
ドッジボールでは最後まで残ることもあったが、それは逃げるのが上手いからではなく、存在を忘れられるからだった。
「森本って、ピアノすごいんだろ?」
クラスメイトの一人が休み時間に聞いた。
「別に」
「テレビ出るの?」
「出ない」
「じゃあ、すごくないじゃん」
「そうかも」
明はあまり気にしなかった。
ピアノの凄さを誰かに説明することに興味がなかった。
音は弾けば分かる。
分からない人には、たぶん説明しても分からない。
そう思っていた。
子供にしては、ずいぶん冷たい考え方だった。
ただし本人に悪気はない。
天才の厄介なところは、自分の見えている景色が他人にも見えていると勘違いすることだ。
この手の勘違いは、世の中のあちこちで小さな悲劇を生む。
神様がいるなら、そのあたりの仕様をもう少し親切にしてほしい。
人生ゲームに説明書がないのは、なかなか意地が悪い。
◇
十歳の冬。
明は初めて全国コンクールに出た。
会場は大きなホールだった。
天井が高く、照明が白く、客席は暗かった。
舞台袖には、同じ年頃の子供たちが並んでいた。
皆、綺麗な服を着ていた。
母親たちは小声で話し、父親たちはプログラムを確認している。
明は手のひらを見ていた。
緊張はなかった。
不思議なくらい、なかった。
高柳が隣に来て、腰を屈めた。
「明くん、楽しんで」
「はい」
「勝とうとしなくていいからね」
「でも、勝った方がいいんですよね」
高柳は少し困った顔をした。
「それは、まあ、そうだけど」
「じゃあ勝ちます」
明は普通に言った。
気負いではなかった。
ただ事実を確認しただけの声だった。
◇
演奏は静かに始まった。
最初の音が鳴った瞬間、客席の空気が少し変わった。
明にはそれが分かった。
人の呼吸が揃う。
咳払いが消える。
誰かの椅子が軋む音さえ遠ざかる。
音は舞台から客席へ向かっていくのではなかった。
ホール全体に最初から眠っていたものを、明の指が起こしているようだった。
彼は弾きながら考えていた。
(この音は、ここにあったんだ)
自分が作っているのではない。
見つけている。
そう感じた。
最後の音が消える。
一拍、沈黙。
それから拍手が来た。
大きな拍手だった。
明は椅子から立ち、礼をした。
客席の前列で母が泣いていた。
父は泣いていなかったが、口元が変な形になっていた。
高柳は舞台袖でハンカチを握っていた。
明だけが、少し不思議だった。
(みんな、どうしてそんな顔をしているんだろう)
彼にとって演奏は、呼吸に近かった。
呼吸をして褒められても困る。
そんな感じだった。
◇
結果は優勝だった。
翌日、地方紙に小さな記事が載った。
森本明、十歳。
将来有望な若き才能。
神童。
父は記事を何枚もコピーした。
母は祖父母に電話した。
高柳は静かに言った。
「ここからが大変よ」
明は首を傾げた。
「どうしてですか?」
「才能がある子は、期待されるから」
「期待されると、大変なんですか?」
「ええ。期待はね、ときどき応援の顔をした荷物になるの」
明にはよく分からなかった。
荷物なら置けばいい。
そう思った。
だが期待という荷物は、置いたつもりでも背中に張り付いてくる。
ぬれた紙みたいに。
◇
それから明の世界は広がった。
有名な先生に会った。
プロの演奏を聴いた。
大人たちが彼の未来について話すようになった。
「海外も視野に入れた方がいい」
「早いうちに本格的な指導を」
「この子は伸びる」
「いや、伸ばさなければいけない」
明はその言葉を、少し離れた場所から聞いていた。
自分の話なのに、自分のことではないようだった。
大人たちは未来を語るのが好きだ。
まだ何も起きていない場所に、勝手に家を建てる。
しかも間取りまで決める。
本人が住みたいかどうかは、だいたい後回しだ。
◇
十二歳の春。
明は新しい曲に取り組んでいた。
難しい曲だった。
指が複雑に動き、左右の手が別々の生き物のように走る。
だが明は楽しかった。
難しいほど、音の奥に行ける気がした。
その日の朝も、彼はピアノの前に座った。
母は台所にいた。
父は出勤前で、ネクタイを結んでいた。
窓の外では、桜が少しだけ散っていた。
何も特別な朝ではなかった。
明は右手を鍵盤に置いた。
そして、最初の音を弾こうとした。
指が動かなかった。
明は一度、手を見た。
もう一度、鍵盤を押そうとする。
動かない。
痛みはない。
しびれもない。
ただ右手の関節が、見えない糸で縛られたように固まっていた。
「明?」
母が気づいた。
「どうしたの?」
明は答えなかった。
右手を持ち上げようとした。
手首は動く。
腕も動く。
だが指だけが動かない。
まるで自分のものではないようだった。
「明?」
母の声が少し震えた。
父がリビングに来た。
「どうした」
明は鍵盤の上の右手を見つめたまま言った。
「指が」
「指?」
「動かない」
その言葉は、部屋の中に落ちた。
とても小さな音だった。
だがその瞬間、家にあった未来の設計図が、音もなく破れた。
明はまだ知らない。
それがただの不調ではないことを。
休めば治るものではないことを。
そして、自分の人生がここから長い沈黙に入ることを。
窓の外で桜が散っていた。
まるで誰かが、盤上の駒を一マス進めたみたいに。
【第3話 運の子 へ続く】




