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神のサイコロ Another  作者: Kiyo
第一幕

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2/18

第2話 天才

 森本明の家には、いつからかピアノの音があるのが当たり前になっていた。


 朝、母が味噌汁を温めている時も。


 父が新聞を広げている時も。


 夕方、近所の犬が吠えている時も。


 明はピアノの前に座っていた。


 弾けと言われたからではない。


 弾かないと落ち着かなかった。


 音は明にとって、言葉よりも先にあるものだった。


 嬉しい時は高い音が出た。


 不安な時は低い音が沈んだ。


 腹が立つ時は鍵盤が少し強く鳴った。


 母はそれを聞いて、台所から声をかけた。


「明、今日は何かあった?」


「別に」


「別に、って音じゃないけど」


 明は鍵盤に指を置いたまま、首を傾げる。


「音で分かるの?」


「分かるわよ。お母さんだから」


 母は笑った。


 明は少し考えてから、また弾き始めた。


(音って、隠せないんだ)


 その時、明は初めてそう思った。


     ◇


 最初に明の才能に気づいたのは、近所のピアノ教室の講師だった。


 名前は高柳真知子。


 五十代半ばの女性で、いつも薄い紫色のカーディガンを着ていた。


 母が明を連れていったのは、ただの習い事のつもりだった。


 子供が音楽に興味を持っている。


 それなら一度、先生に見てもらおう。


 その程度だった。


 だが高柳は、明が最初の一曲を弾き終えた瞬間、椅子から立ち上がった。


「もう一回、弾いてくれる?」


「はい」


 明は同じ曲を弾いた。


 高柳は途中で止めた。


「今のところ、どうしてそう弾いたの?」


「どうして?」


「楽譜とは少し違うでしょう」


 明は不思議そうに答えた。


「こっちの方が、ちゃんと終わる気がしたから」


 高柳は黙った。


 その沈黙が長かったので、母が不安そうに尋ねた。


「あの、何か問題がありましたか?」


「問題?」


 高柳は母を見た。


 そして、小さく笑った。


「逆です。問題があるとすれば、普通の教室では足りないかもしれないことです」


 母は言葉を失った。


 明だけが、よく分からない顔をしていた。


     ◇


 それから生活が少しずつ変わった。


 練習時間が増えた。


 課題曲が増えた。


 休日は遊園地ではなく、レッスンになった。


 父は明のために中古のアップライトピアノを買った。


 リビングの一角にそれが運び込まれた日、家の空気が変わった。


 大きな黒い箱。


 艶のある表面。


 重そうな鍵盤。


 明はしばらく黙って見つめていた。


「弾いてみるか?」


 父が言った。


 明は頷き、椅子に座った。


 最初の一音が鳴った。


 電子ピアノとは違った。


 音が部屋の壁に当たって、戻ってくる。


 自分の指で押したはずなのに、ピアノの内側で別の生き物が返事をしたようだった。


 明は笑った。


「すごい」


 父も母も、その笑顔を見て笑った。


 この時、家族は幸福だった。


 幸福というものは、多くの場合、あとになってからしか分からない。


 その瞬間には、ただ日常の顔をして座っている。


 たちの悪い泥棒みたいに。


     ◇


 明は学校では目立たなかった。


 勉強はできたが、飛び抜けていたわけではない。


 運動はむしろ苦手だった。


 走ると遅い。


 球技ではボールが顔に当たる。


 ドッジボールでは最後まで残ることもあったが、それは逃げるのが上手いからではなく、存在を忘れられるからだった。


「森本って、ピアノすごいんだろ?」


 クラスメイトの一人が休み時間に聞いた。


「別に」


「テレビ出るの?」


「出ない」


「じゃあ、すごくないじゃん」


「そうかも」


 明はあまり気にしなかった。


 ピアノの凄さを誰かに説明することに興味がなかった。


 音は弾けば分かる。


 分からない人には、たぶん説明しても分からない。


 そう思っていた。


 子供にしては、ずいぶん冷たい考え方だった。


 ただし本人に悪気はない。


 天才の厄介なところは、自分の見えている景色が他人にも見えていると勘違いすることだ。


 この手の勘違いは、世の中のあちこちで小さな悲劇を生む。


 神様がいるなら、そのあたりの仕様をもう少し親切にしてほしい。


 人生ゲームに説明書がないのは、なかなか意地が悪い。


     ◇


 十歳の冬。


 明は初めて全国コンクールに出た。


 会場は大きなホールだった。


 天井が高く、照明が白く、客席は暗かった。


 舞台袖には、同じ年頃の子供たちが並んでいた。


 皆、綺麗な服を着ていた。


 母親たちは小声で話し、父親たちはプログラムを確認している。


 明は手のひらを見ていた。


 緊張はなかった。


 不思議なくらい、なかった。


 高柳が隣に来て、腰を屈めた。


「明くん、楽しんで」


「はい」


「勝とうとしなくていいからね」


「でも、勝った方がいいんですよね」


 高柳は少し困った顔をした。


「それは、まあ、そうだけど」


「じゃあ勝ちます」


 明は普通に言った。


 気負いではなかった。


 ただ事実を確認しただけの声だった。


     ◇


 演奏は静かに始まった。


 最初の音が鳴った瞬間、客席の空気が少し変わった。


 明にはそれが分かった。


 人の呼吸が揃う。


 咳払いが消える。


 誰かの椅子が軋む音さえ遠ざかる。


 音は舞台から客席へ向かっていくのではなかった。


 ホール全体に最初から眠っていたものを、明の指が起こしているようだった。


 彼は弾きながら考えていた。


(この音は、ここにあったんだ)


 自分が作っているのではない。


 見つけている。


 そう感じた。


 最後の音が消える。


 一拍、沈黙。


 それから拍手が来た。


 大きな拍手だった。


 明は椅子から立ち、礼をした。


 客席の前列で母が泣いていた。


 父は泣いていなかったが、口元が変な形になっていた。


 高柳は舞台袖でハンカチを握っていた。


 明だけが、少し不思議だった。


(みんな、どうしてそんな顔をしているんだろう)


 彼にとって演奏は、呼吸に近かった。


 呼吸をして褒められても困る。


 そんな感じだった。


     ◇


 結果は優勝だった。


 翌日、地方紙に小さな記事が載った。


 森本明、十歳。


 将来有望な若き才能。


 神童。


 父は記事を何枚もコピーした。


 母は祖父母に電話した。


 高柳は静かに言った。


「ここからが大変よ」


 明は首を傾げた。


「どうしてですか?」


「才能がある子は、期待されるから」


「期待されると、大変なんですか?」


「ええ。期待はね、ときどき応援の顔をした荷物になるの」


 明にはよく分からなかった。


 荷物なら置けばいい。


 そう思った。


 だが期待という荷物は、置いたつもりでも背中に張り付いてくる。


 ぬれた紙みたいに。


     ◇


 それから明の世界は広がった。


 有名な先生に会った。


 プロの演奏を聴いた。


 大人たちが彼の未来について話すようになった。


「海外も視野に入れた方がいい」


「早いうちに本格的な指導を」


「この子は伸びる」


「いや、伸ばさなければいけない」


 明はその言葉を、少し離れた場所から聞いていた。


 自分の話なのに、自分のことではないようだった。


 大人たちは未来を語るのが好きだ。


 まだ何も起きていない場所に、勝手に家を建てる。


 しかも間取りまで決める。


 本人が住みたいかどうかは、だいたい後回しだ。


     ◇


 十二歳の春。


 明は新しい曲に取り組んでいた。


 難しい曲だった。


 指が複雑に動き、左右の手が別々の生き物のように走る。


 だが明は楽しかった。


 難しいほど、音の奥に行ける気がした。


 その日の朝も、彼はピアノの前に座った。


 母は台所にいた。


 父は出勤前で、ネクタイを結んでいた。


 窓の外では、桜が少しだけ散っていた。


 何も特別な朝ではなかった。


 明は右手を鍵盤に置いた。


 そして、最初の音を弾こうとした。


 指が動かなかった。


 明は一度、手を見た。


 もう一度、鍵盤を押そうとする。


 動かない。


 痛みはない。


 しびれもない。


 ただ右手の関節が、見えない糸で縛られたように固まっていた。


「明?」


 母が気づいた。


「どうしたの?」


 明は答えなかった。


 右手を持ち上げようとした。


 手首は動く。


 腕も動く。


 だが指だけが動かない。


 まるで自分のものではないようだった。


「明?」


 母の声が少し震えた。


 父がリビングに来た。


「どうした」


 明は鍵盤の上の右手を見つめたまま言った。


「指が」


「指?」


「動かない」


 その言葉は、部屋の中に落ちた。


 とても小さな音だった。


 だがその瞬間、家にあった未来の設計図が、音もなく破れた。


 明はまだ知らない。


 それがただの不調ではないことを。


 休めば治るものではないことを。


 そして、自分の人生がここから長い沈黙に入ることを。


 窓の外で桜が散っていた。


 まるで誰かが、盤上の駒を一マス進めたみたいに。


【第3話 運の子 へ続く】

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