第1話 人生
人生には、どうにも説明のつかないことがある。
努力した者が報われるとは限らない。
才能のある者が成功するとも限らない。
逆に、何も持たない人間が信じられないほど上手くいくこともある。
人はそれを運と呼ぶ。
偶然と呼ぶ者もいる。
だが本当に偶然なのだろうか。
例えば今この瞬間。
どこかで誰かが事故に遭い、どこかで誰かが恋をし、どこかで誰かが生まれている。
その全ては本当に無作為なのだろうか。
もしそうではないとしたら。
もし人生そのものに見えない法則が存在するとしたら。
人はそれを知ることなく死んでいくのだろう。
もっとも。
知ったところで何も変わらないのかもしれないが。
◇
森本明が生まれたのは一月の寒い夜だった。
産声は大きかった。
看護師は元気な子だと笑い、母親は泣いた。
父親は何度も写真を撮った。
どこの家庭にもある、ごく普通の光景だった。
違ったのは、その数年後だった。
「また弾いてるの?」
母親がリビングへ顔を出す。
小さな電子ピアノの前に座る五歳の明は返事をしなかった。
集中していた。
小さな指が鍵盤を走る。
母親は足を止めた。
何度見ても信じられない。
テレビから流れてきた曲を、一度聞いただけで弾いている。
楽譜はない。
教わってもいない。
それなのに音だけで再現してしまう。
「あなた!」
母親が叫ぶ。
父親が慌ててやってきた。
「どうした?」
「またよ!」
父親は演奏を聞いた。
数秒後、言葉を失った。
五歳児の演奏ではなかった。
もちろん技術は未熟だ。
だが耳がおかしい。
音を聞き分ける能力が異常だった。
父親はゆっくり息を吐いた。
「もしかして……」
「うん……」
二人は同じことを考えていた。
天才。
そんな言葉が頭をよぎった。
だが口にはしなかった。
口にした瞬間に逃げてしまう気がしたからだ。
◇
同じ頃。
山畑裕英は公園の滑り台から落ちていた。
「うわああああ!」
頭から落ちる。
周囲の親たちが悲鳴を上げる。
だが。
着地した場所に偶然砂場があった。
しかも前日に雨が降っていたため柔らかい。
裕英は無傷だった。
むしろ笑っていた。
「もう一回!」
母親が青ざめる。
「やめなさい!」
「えー」
裕英は不満そうだった。
この頃からだった。
何かがおかしい。
大怪我になりそうな場面で、必ず助かる。
車道へ飛び出しても寸前で車が止まる。
転んでも石がない。
迷子になっても偶然知り合いに会う。
頭が良いわけではない。
運動もできない。
顔も普通。
何か特別な能力があるわけでもない。
だが、運だけは異常だった。
もっとも本人は気付いていない。
子供だからだ。
世界とはそういうものだと思っていた。
◇
前田典子は、自分が可愛いことを理解していた。
五歳の時点で。
それは誰かに教わったわけではない。
反応で分かった。
「典子ちゃん、偉いね」
「典子ちゃんは可愛いね」
「典子ちゃんだけ特別ね」
周囲の大人は優しい。
何か失敗しても怒られない。
泣けば許される。
笑えば褒められる。
典子は観察した。
人間を。
なぜ同じ失敗をしているのに、自分だけ許されるのか。
なぜ自分が話すと皆が耳を傾けるのか。
そして理解する。
(みんな私が好きなんだ)
子供らしい結論だった。
だが半分は正しい。
もう半分は違う。
人は好意だけで動かない。
欲望でも動く。
期待でも動く。
憧れでも動く。
典子はまだ知らない。
だが本能的に理解していた。
言葉は力になる。
そして人は案外簡単に動く。
◇
それぞれの人生が始まる。
誰も知らない。
未来を。
明はピアノに向かっている。
裕英は虫を追いかけている。
典子は鏡の前で髪を触っている。
それだけだ。
ただの子供。
どこにでもいる。
ありふれた存在。
しかし人生は平等ではない。
同じ日に生まれても。
同じ国に生まれても。
同じ時代を生きても。
配られるものは違う。
才能。
幸運。
容姿。
環境。
家族。
健康。
人はそれを努力で埋められると信じている。
そう信じたい。
その方が世界は優しく見えるからだ。
だが現実は違う。
生まれた瞬間から差はある。
残酷なほどに。
誰もそれを認めたくないだけだ。
◇
七歳になった明は全国規模のピアノコンクールで優勝した。
九歳で海外演奏家の指導を受けた。
十歳で新聞に載った。
将来の巨匠。
天才少年。
神童。
様々な言葉が並んだ。
明自身はあまり興味がなかった。
ただ弾くのが好きだった。
音が好きだった。
それだけだった。
◇
十歳の裕英は交通事故に巻き込まれた。
信号無視の自転車。
猛スピード。
避けられない。
誰もがそう思った。
その瞬間。
自転車のチェーンが外れた。
転倒。
接触なし。
周囲は騒いだ。
裕英は首を傾げた。
「変なの」
それだけだった。
◇
十歳の典子は学級委員になった。
成績は普通。
運動も普通。
だが全員が投票した。
理由は誰にも説明できない。
典子が話すと皆が納得する。
典子が頼むと皆が動く。
教師ですらそうだった。
典子は少しだけ笑った。
(人って面白い)
その笑みはまだ無邪気だった。
だが後に多くの人間を動かす笑みになる。
◇
そして運命は静かに動き始める。
明が十二歳になる春。
世界は何事もなく続いているように見えた。
誰もがそう思っていた。
明自身も。
両親も。
教師も。
音楽関係者も。
未来は決まっている。
そう信じて疑わなかった。
だが人生は予定表ではない。
ある日突然。
何の前触れもなく。
全てが変わることがある。
それが運命なのか。
偶然なのか。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは。
その日を境に、森本明の人生は大きく形を変えることになるということだった。
まだ誰も知らない。
その理不尽さを。
その絶望を。
そして。
その先に待つ長い戦いを。
【第2話 天才 へ続く】




