↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神のサイコロ Another  作者: Kiyo
第二幕 人間賛歌

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/22

プロローグ 選ばれなかった人生

 もし、あの日、雨が降っていなかったら。


 もし、あのとき、一本早い電車に乗っていたら。


 もし、あの人に出会わなかったら。


 人は時々、そんなことを考える。


 人生には無数の分かれ道がある。


 右へ進むか。


 左へ進むか。


 立ち止まるか。


 それとも、引き返すか。


 選んだ道の先には、必ず何かが待っている。


 幸福かもしれない。


 不幸かもしれない。


 だが、それが何だったのかは、進んでみなければ分からない。


 そして厄介なことに。


 進んでしまえば、選ばなかった道の先を確かめることはできない。


 だから人は後悔する。


 あちらを選んでいれば。


 あのとき断っていれば。


 もう少し勇気があれば。


 けれど、本当にそうだろうか。


 選ばなかった道の先に、今より幸福な人生があったと、誰が証明できるのだろう。


     ◇


 柳瀬瞳が生まれた日は、ひどい雨だった。


 梅雨の終わり。


 朝から降り続いていた雨は、昼過ぎには道路を川のように変えていた。


 病院へ向かう車の中で、父親は何度も時計を見た。


「間に合うかな」


 助手席で母親が笑った。


「あなたが焦っても仕方ないでしょ」


「そうだけどさ」


「大丈夫よ。きっと元気な子が生まれるから」


 父親はハンドルを握り直した。


 渋滞していた。


 前の車は動かない。


 雨は強くなる。


 遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。


 結局、病院へ到着したのは予定より一時間も遅かった。


 それでも、瞳は無事に生まれた。


 小さな身体。


 赤い顔。


 よく響く泣き声。


 父親は生まれたばかりの娘を見つめた。


「よかった……」


 母親は疲れた顔で笑った。


「ね。大丈夫だったでしょ」


 父親は何度もうなずいた。


 帰り際、看護師が窓の外を見た。


「雨、やみましたね」


 雲の切れ間から日が差していた。


 母親は瞳の頬に触れた。


「この子、晴れ女かもしれないね」


 もちろん、そんなことは分からない。


 雨がやんだのは、ただの気象現象だった。


 それでも両親は、その偶然を喜んだ。


 瞳の人生で最初に与えられた意味は、幸福だった。


     ◇


 山口詩織が生まれた日も、雨だった。


 同じ年。


 同じ季節。


 同じように強い雨が降っていた。


 ただし、こちらは夜だった。


 病院の廊下で、父親が携帯電話を握りしめていた。


『まだ生まれないの?』


 電話の向こうで祖母が尋ねた。


「もう少しかかるみたい」


『大丈夫なのかい? こんな天気だし』


「先生がついてるから」


『そうだけど、心配でねえ』


 父親も心配だった。


 何か問題が起きたらどうしよう。


 母親の身体は大丈夫だろうか。


 赤ん坊は無事だろうか。


 考え始めると止まらなかった。


 やがて、分娩室から泣き声が聞こえた。


 女の子だった。


 健康だった。


 母親も無事だった。


 父親は深く息を吐いた。


「よかった……」


 ところが、安心したのも束の間だった。


「こんなに小さくて大丈夫なんですか?」


 看護師に尋ねた。


「正常な範囲ですよ」


「でも、手が細くて」


「赤ちゃんですからね」


「ちゃんと息してます?」


 看護師は穏やかに笑った。


「していますよ」


 父親はうなずいた。


 それでも、もう一度娘の顔を確かめた。


 詩織が生まれた日。


 家族は幸福だった。


 同時に、その幸福を失うことを恐れていた。


     ◇


 伊東和幸が生まれた日は、晴れていた。


 暑い日だった。


 父親は仕事中で、出産には間に合わなかった。


 病院へ到着したときには、すべて終わっていた。


「生まれた?」


 息を切らして尋ねる。


 母親は呆れた顔をした。


「生まれたわよ」


「男の子?」


「そう」


「よっしゃ!」


 父親は両手を上げた。


 看護師が少し驚いた。


 母親は笑った。


「声、大きい」


「だって嬉しいだろ」


 父親は息子を抱き上げた。


「おお、軽いな」


「落とさないでよ」


「分かってるって」


 その瞬間、和幸が泣き始めた。


「うわっ、なんだ?」


「抱き方が悪いんじゃない?」


「そうなのか?」


 慌てて看護師に助けを求めた。


 腕の位置を直してもらうと、和幸は泣きやんだ。


「なんだ、よかった」


 父親は笑った。


 嬉しくなり、慌てて、安心する。


 その日の父親は忙しかった。


 感情という意味で。


 和幸の人生は、そんな家庭から始まった。


     ◇


 三人は、特別な才能を持って生まれたわけではなかった。


 未来を予知する能力もない。


 天才的な頭脳もない。


 人を魅了する特別な容姿もない。


 どこにでもいる、ごく普通の子供だった。


 もちろん、性別も家庭も生まれた場所も違う。


 まったく同じ条件の人間など存在しない。


 それでも三人には、共通していることがあった。


 これから何者になるのか、まだ誰にも分からないということだ。


 医者になるかもしれない。


 会社員になるかもしれない。


 芸能人になるかもしれない。


 あるいは、誰にも知られないまま一生を終えるかもしれない。


 可能性は無数にあった。


 ただし、そのすべてを生きることはできない。


     ◇


 五歳になった瞳は、近所の公園で転んだ。


 膝を擦りむいた。


 血が出た。


「痛い!」


 当然、泣いた。


 母親が駆け寄った。


「大丈夫?」


「痛いよお」


「ほら、帰って消毒しよう」


 瞳は涙を拭った。


 そのとき、足元に小さな花を見つけた。


「あ、これ」


「どうしたの?」


「四つ葉!」


 クローバーだった。


 確かに葉が四枚ある。


 瞳は笑った。


「転んでよかった!」


 母親は首を傾げた。


「どうして?」


「転ばなかったら見つけられなかったもん」


 膝はまだ痛かった。


 傷が消えたわけでもない。


 それでも瞳は、帰り道で何度も四つ葉を眺めた。


 その日の記憶は、転んだ痛みよりも、四つ葉を見つけた喜びとして残った。


     ◇


 同じ頃。


 詩織も公園で転んだ。


 膝を擦りむいた。


 血が出た。


「痛い……」


 母親が駆け寄る。


「大丈夫?」


 詩織は首を振った。


「もう帰る」


「まだ遊べるよ?」


「また転ぶかもしれない」


 母親は無理に引き止めなかった。


 詩織は帰宅すると、傷口を何度も確認した。


(もっと深い傷だったらどうしよう)


 翌日。


 友達に公園へ誘われた。


「行かない」


「なんで?」


「危ないから」


 友達は少し残念そうだった。


 詩織も、本当は遊びたかった。


 けれど、転ぶのは怖かった。


 その日、公園では遊具の一部が壊れ、子供が一人けがをした。


 詩織はその話を聞いて思った。


(行かなくてよかった)


 恐怖が、偶然にも彼女を守った。


     ◇


 和幸も五歳のとき、公園で転んだ。


 膝を擦りむいた。


「痛え!」


 大声で泣いた。


 母親が迎えに来た。


「帰る?」


「帰る!」


 翌日。


 友達が遊びに誘いに来た。


「公園行こうぜ」


「昨日転んだから嫌だ」


「今日はサッカーするんだぞ」


「サッカー?」


「うん」


 和幸は少し考えた。


「じゃあ行く!」


 その日は転ばなかった。


 代わりに、試合で三点取った。


 和幸は飛び跳ねて喜んだ。


「俺、天才かも!」


 翌週の試合では一度も点を取れなかった。


「俺、サッカー向いてない……」


 母親は笑った。


「忙しい子ねえ」


 和幸は本気で落ち込んでいた。


 そして翌日には、またサッカーボールを蹴っていた。


     ◇


 三人の膝には、似たような傷ができた。


 同じように痛かった。


 同じように血が流れた。


 けれど、その後の行動は違った。


 瞳は、転んだことで見つけたものを喜んだ。


 詩織は、転んだ経験から危険を避けた。


 和幸は、痛ければ泣き、楽しいことがあれば喜んだ。


 誰が正しかったのだろう。


 瞳は、いつか危険を見逃すかもしれない。


 詩織は、いつか大切な機会を逃すかもしれない。


 和幸は、いつか感情に任せて判断を誤るかもしれない。


 逆に、その性格だからこそ救われる日もあるだろう。


 未来はまだ何も決まっていなかった。


 少なくとも、三人にはそう見えていた。


     ◇


 人生をすごろくに例える人がいる。


 サイコロを振る。


 出た目だけ進む。


 止まったマスには、幸福や不幸が待っている。


 けれど、実際の人生は少し違う。


 三つ進めと言われても、二つしか進まない人がいる。


 右へ進むはずなのに、左へ曲がる人がいる。


 振り出しへ戻ることを、自分から選ぶ人さえいる。


 その選択が正しかったのかどうか。


 答えが出るのは、ずっと後になってからだ。


 いや。


 最後まで答えが出ないことだってある。


 もし、この世界のどこかに、サイコロを振る存在がいるとしたら。


 その存在は、人間が思いどおりに動かないことを、どう思うのだろう。


 腹を立てるだろうか。


 面白がるだろうか。


 それとも、何も感じないだろうか。


 そもそも、そんな存在がいるのかどうかも分からない。


 分かっているのは、一つだけだった。


 三人はこれから、自分の人生を生きる。


 幸福に笑い。


 不幸に泣き。


 何度も選び。


 何度も間違える。


 そして、いつか人生の終わりに立ったとき。


 自分が歩んだ道を、どう振り返るのだろう。


 あのとき、違う道を選んでいれば。


 そんな問いを抱くのだろうか。


 それとも。


 これでよかったと、笑えるのだろうか。


 柳瀬瞳。


 山口詩織。


 伊東和幸。


 三つの人生は、まだ始まったばかりだった。


 誰も、自分が選ばなかった人生を知らない。


 そして誰も知らなかった。


 選ばれなかったはずの可能性が、別の場所では人生として続いているかもしれないことを。


【第1話 雨の日の選択 へ続く】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。