プロローグ 選ばれなかった人生
もし、あの日、雨が降っていなかったら。
もし、あのとき、一本早い電車に乗っていたら。
もし、あの人に出会わなかったら。
人は時々、そんなことを考える。
人生には無数の分かれ道がある。
右へ進むか。
左へ進むか。
立ち止まるか。
それとも、引き返すか。
選んだ道の先には、必ず何かが待っている。
幸福かもしれない。
不幸かもしれない。
だが、それが何だったのかは、進んでみなければ分からない。
そして厄介なことに。
進んでしまえば、選ばなかった道の先を確かめることはできない。
だから人は後悔する。
あちらを選んでいれば。
あのとき断っていれば。
もう少し勇気があれば。
けれど、本当にそうだろうか。
選ばなかった道の先に、今より幸福な人生があったと、誰が証明できるのだろう。
◇
柳瀬瞳が生まれた日は、ひどい雨だった。
梅雨の終わり。
朝から降り続いていた雨は、昼過ぎには道路を川のように変えていた。
病院へ向かう車の中で、父親は何度も時計を見た。
「間に合うかな」
助手席で母親が笑った。
「あなたが焦っても仕方ないでしょ」
「そうだけどさ」
「大丈夫よ。きっと元気な子が生まれるから」
父親はハンドルを握り直した。
渋滞していた。
前の車は動かない。
雨は強くなる。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
結局、病院へ到着したのは予定より一時間も遅かった。
それでも、瞳は無事に生まれた。
小さな身体。
赤い顔。
よく響く泣き声。
父親は生まれたばかりの娘を見つめた。
「よかった……」
母親は疲れた顔で笑った。
「ね。大丈夫だったでしょ」
父親は何度もうなずいた。
帰り際、看護師が窓の外を見た。
「雨、やみましたね」
雲の切れ間から日が差していた。
母親は瞳の頬に触れた。
「この子、晴れ女かもしれないね」
もちろん、そんなことは分からない。
雨がやんだのは、ただの気象現象だった。
それでも両親は、その偶然を喜んだ。
瞳の人生で最初に与えられた意味は、幸福だった。
◇
山口詩織が生まれた日も、雨だった。
同じ年。
同じ季節。
同じように強い雨が降っていた。
ただし、こちらは夜だった。
病院の廊下で、父親が携帯電話を握りしめていた。
『まだ生まれないの?』
電話の向こうで祖母が尋ねた。
「もう少しかかるみたい」
『大丈夫なのかい? こんな天気だし』
「先生がついてるから」
『そうだけど、心配でねえ』
父親も心配だった。
何か問題が起きたらどうしよう。
母親の身体は大丈夫だろうか。
赤ん坊は無事だろうか。
考え始めると止まらなかった。
やがて、分娩室から泣き声が聞こえた。
女の子だった。
健康だった。
母親も無事だった。
父親は深く息を吐いた。
「よかった……」
ところが、安心したのも束の間だった。
「こんなに小さくて大丈夫なんですか?」
看護師に尋ねた。
「正常な範囲ですよ」
「でも、手が細くて」
「赤ちゃんですからね」
「ちゃんと息してます?」
看護師は穏やかに笑った。
「していますよ」
父親はうなずいた。
それでも、もう一度娘の顔を確かめた。
詩織が生まれた日。
家族は幸福だった。
同時に、その幸福を失うことを恐れていた。
◇
伊東和幸が生まれた日は、晴れていた。
暑い日だった。
父親は仕事中で、出産には間に合わなかった。
病院へ到着したときには、すべて終わっていた。
「生まれた?」
息を切らして尋ねる。
母親は呆れた顔をした。
「生まれたわよ」
「男の子?」
「そう」
「よっしゃ!」
父親は両手を上げた。
看護師が少し驚いた。
母親は笑った。
「声、大きい」
「だって嬉しいだろ」
父親は息子を抱き上げた。
「おお、軽いな」
「落とさないでよ」
「分かってるって」
その瞬間、和幸が泣き始めた。
「うわっ、なんだ?」
「抱き方が悪いんじゃない?」
「そうなのか?」
慌てて看護師に助けを求めた。
腕の位置を直してもらうと、和幸は泣きやんだ。
「なんだ、よかった」
父親は笑った。
嬉しくなり、慌てて、安心する。
その日の父親は忙しかった。
感情という意味で。
和幸の人生は、そんな家庭から始まった。
◇
三人は、特別な才能を持って生まれたわけではなかった。
未来を予知する能力もない。
天才的な頭脳もない。
人を魅了する特別な容姿もない。
どこにでもいる、ごく普通の子供だった。
もちろん、性別も家庭も生まれた場所も違う。
まったく同じ条件の人間など存在しない。
それでも三人には、共通していることがあった。
これから何者になるのか、まだ誰にも分からないということだ。
医者になるかもしれない。
会社員になるかもしれない。
芸能人になるかもしれない。
あるいは、誰にも知られないまま一生を終えるかもしれない。
可能性は無数にあった。
ただし、そのすべてを生きることはできない。
◇
五歳になった瞳は、近所の公園で転んだ。
膝を擦りむいた。
血が出た。
「痛い!」
当然、泣いた。
母親が駆け寄った。
「大丈夫?」
「痛いよお」
「ほら、帰って消毒しよう」
瞳は涙を拭った。
そのとき、足元に小さな花を見つけた。
「あ、これ」
「どうしたの?」
「四つ葉!」
クローバーだった。
確かに葉が四枚ある。
瞳は笑った。
「転んでよかった!」
母親は首を傾げた。
「どうして?」
「転ばなかったら見つけられなかったもん」
膝はまだ痛かった。
傷が消えたわけでもない。
それでも瞳は、帰り道で何度も四つ葉を眺めた。
その日の記憶は、転んだ痛みよりも、四つ葉を見つけた喜びとして残った。
◇
同じ頃。
詩織も公園で転んだ。
膝を擦りむいた。
血が出た。
「痛い……」
母親が駆け寄る。
「大丈夫?」
詩織は首を振った。
「もう帰る」
「まだ遊べるよ?」
「また転ぶかもしれない」
母親は無理に引き止めなかった。
詩織は帰宅すると、傷口を何度も確認した。
(もっと深い傷だったらどうしよう)
翌日。
友達に公園へ誘われた。
「行かない」
「なんで?」
「危ないから」
友達は少し残念そうだった。
詩織も、本当は遊びたかった。
けれど、転ぶのは怖かった。
その日、公園では遊具の一部が壊れ、子供が一人けがをした。
詩織はその話を聞いて思った。
(行かなくてよかった)
恐怖が、偶然にも彼女を守った。
◇
和幸も五歳のとき、公園で転んだ。
膝を擦りむいた。
「痛え!」
大声で泣いた。
母親が迎えに来た。
「帰る?」
「帰る!」
翌日。
友達が遊びに誘いに来た。
「公園行こうぜ」
「昨日転んだから嫌だ」
「今日はサッカーするんだぞ」
「サッカー?」
「うん」
和幸は少し考えた。
「じゃあ行く!」
その日は転ばなかった。
代わりに、試合で三点取った。
和幸は飛び跳ねて喜んだ。
「俺、天才かも!」
翌週の試合では一度も点を取れなかった。
「俺、サッカー向いてない……」
母親は笑った。
「忙しい子ねえ」
和幸は本気で落ち込んでいた。
そして翌日には、またサッカーボールを蹴っていた。
◇
三人の膝には、似たような傷ができた。
同じように痛かった。
同じように血が流れた。
けれど、その後の行動は違った。
瞳は、転んだことで見つけたものを喜んだ。
詩織は、転んだ経験から危険を避けた。
和幸は、痛ければ泣き、楽しいことがあれば喜んだ。
誰が正しかったのだろう。
瞳は、いつか危険を見逃すかもしれない。
詩織は、いつか大切な機会を逃すかもしれない。
和幸は、いつか感情に任せて判断を誤るかもしれない。
逆に、その性格だからこそ救われる日もあるだろう。
未来はまだ何も決まっていなかった。
少なくとも、三人にはそう見えていた。
◇
人生をすごろくに例える人がいる。
サイコロを振る。
出た目だけ進む。
止まったマスには、幸福や不幸が待っている。
けれど、実際の人生は少し違う。
三つ進めと言われても、二つしか進まない人がいる。
右へ進むはずなのに、左へ曲がる人がいる。
振り出しへ戻ることを、自分から選ぶ人さえいる。
その選択が正しかったのかどうか。
答えが出るのは、ずっと後になってからだ。
いや。
最後まで答えが出ないことだってある。
もし、この世界のどこかに、サイコロを振る存在がいるとしたら。
その存在は、人間が思いどおりに動かないことを、どう思うのだろう。
腹を立てるだろうか。
面白がるだろうか。
それとも、何も感じないだろうか。
そもそも、そんな存在がいるのかどうかも分からない。
分かっているのは、一つだけだった。
三人はこれから、自分の人生を生きる。
幸福に笑い。
不幸に泣き。
何度も選び。
何度も間違える。
そして、いつか人生の終わりに立ったとき。
自分が歩んだ道を、どう振り返るのだろう。
あのとき、違う道を選んでいれば。
そんな問いを抱くのだろうか。
それとも。
これでよかったと、笑えるのだろうか。
柳瀬瞳。
山口詩織。
伊東和幸。
三つの人生は、まだ始まったばかりだった。
誰も、自分が選ばなかった人生を知らない。
そして誰も知らなかった。
選ばれなかったはずの可能性が、別の場所では人生として続いているかもしれないことを。
【第1話 雨の日の選択 へ続く】




