第1話 雨の日の選択
天気予報は外れることがある。
降水確率十パーセントでも雨は降るし、九十パーセントでも降らないことがある。
残りの十パーセントをどう考えるか。
そこには性格が出る。
柳瀬瞳は、晴れる可能性を考える。
山口詩織は、雨が降る可能性を考える。
伊東和幸は、空を見てから考える。
そして三人とも、天気を変えることはできない。
◇
小学五年生の六月。
瞳は遠足の前日、リビングで荷物を詰めていた。
母親がテレビの天気予報を見ている。
「明日、雨みたいよ」
「そうなの?」
「午後から大雨だって」
「午前中は大丈夫なんでしょ?」
「そうみたいだけど」
「じゃあ楽しめるね」
瞳は笑った。
リュックにお菓子を入れる。
水筒。
タオル。
帽子。
雨具は入れなかった。
「カッパは?」
「いらないよ」
「でも降るって言ってるわよ」
「荷物が重くなるし」
「瞳」
「大丈夫だって」
母親はため息をついた。
結局、雨具をリュックの底へ押し込んだ。
瞳は少し不満だった。
せっかく軽くしたのに。
◇
翌日。
遠足は予定どおり行われた。
目的地は郊外の自然公園。
午前中は曇りだった。
気温もちょうどいい。
「ほら、雨降らないじゃん」
瞳は友達に言った。
「午後からだって」
「午後には帰るし」
昼食を終えた頃だった。
風が変わった。
木々が大きく揺れる。
空が暗くなる。
教師が空を見上げた。
「予定を早めて戻ります!」
児童たちが集まり始める。
そのとき、瞳は気づいた。
少し離れた遊歩道に、低学年らしい男の子が立っていた。
泣いている。
「先生、あの子」
「え?」
「あそこ」
教師が振り返る。
男の子は一人だった。
別の学校の児童らしい。
瞳は駆け出した。
「ちょっと、瞳!」
教師の声が追いかけてくる。
男の子は瞳を見ると、さらに泣いた。
「お母さんがいない」
「大丈夫。先生呼んでくるから」
「怖い」
「じゃあ一緒に行こう」
瞳は男の子の手を握った。
その瞬間。
雨が落ちてきた。
最初は数滴。
次に、滝のような雨。
「うわ、すごい!」
瞳は思わず笑った。
だが男の子は笑わなかった。
足元の土が流れ始めていた。
◇
同じ日の午後。
詩織は別の小学校で、校外学習の準備をしていた。
行き先は市内の歴史資料館だった。
朝から天気予報を確認していた。
大雨。
雷。
突風。
注意報まで出ている。
(絶対に危ない)
詩織は母親に言った。
「今日、休みたい」
「どうして?」
「雨が降るから」
「先生が判断するでしょう」
「でも途中で降ったら?」
「バスで行くんだから」
「道路が冠水するかもしれない」
母親は困った顔をした。
「そんなこと言ってたら、どこにも行けないわよ」
詩織は黙った。
それでも不安は消えなかった。
学校へ着くと、担任が予定変更を告げた。
「午後の見学は中止します。午前中だけ行って帰ります」
教室に不満の声が上がった。
「えー!」
「つまんない!」
詩織だけが安心した。
(よかった)
しかし、午前中の見学が終わった頃、雨は予報より早く降り始めた。
バスの窓を激しく叩く。
道路には水がたまり始めていた。
運転手が無線で何かを話している。
教師の表情が変わった。
「道路が通行止めになったそうです」
児童たちが騒ぎ始めた。
詩織の心臓が跳ねた。
(だから嫌だったのに)
バスは近くの公共施設へ避難した。
誰もけがをしなかった。
だが、帰宅できたのは夕方だった。
詩織は家に帰るなり泣いた。
「怖かった……」
母親が抱きしめた。
「無事でよかったね」
詩織はうなずいた。
そして心の中で思った。
(最初から行かなければよかった)
◇
和幸は、その日、友達と釣りに行く約束をしていた。
学校が休みだった。
朝の空は明るかった。
「今日、雨らしいぞ」
父親が言った。
「えー、マジ?」
「午後から大雨だって」
「最悪じゃん」
和幸は窓の外を見た。
雲はある。
でも青空も見える。
「今は晴れてるけど」
「午後からだって」
「じゃあ午前中だけ行く」
父親は少し考えた。
「川には近づくなよ」
「分かってる」
和幸は自転車に乗った。
友達二人と合流する。
目的地は町外れの池だった。
釣り糸を垂らす。
十分。
二十分。
三十分。
何も釣れない。
「つまんねえ」
和幸はぼやいた。
友達が笑った。
「まだ始めたばっかだろ」
そのとき、浮きが沈んだ。
「来た!」
和幸は竿を引いた。
魚が跳ねる。
「でかい!」
友達が叫ぶ。
和幸は夢中でリールを巻いた。
釣れた。
今までで一番大きな魚だった。
「やったあ!」
和幸は飛び跳ねた。
写真を撮る。
友達に自慢する。
もう一匹釣りたくなった。
空が暗くなり始めていた。
「そろそろ帰ろうぜ」
友達が言った。
「あと一匹!」
「雨降るぞ」
「すぐだって!」
和幸は竿を投げた。
十分後。
雷が鳴った。
「うわっ!」
和幸は竿を置いた。
雨が降り始める。
あっという間に土砂降りになった。
三人は慌てて自転車に乗った。
帰り道。
和幸の自転車が滑った。
転倒した。
「痛ってえ!」
膝を強く打った。
自転車の前輪も曲がっていた。
「最悪だ……」
和幸は泣きそうになった。
さっきまで人生最高の日だったのに。
今は人生最悪の日だった。
◇
瞳は男の子と一緒に、遊歩道を戻ろうとしていた。
しかし、雨で視界が悪くなっていた。
教師の姿が見えない。
「こっちだよね?」
男の子は答えなかった。
泣いていた。
瞳は少し焦った。
それでも笑顔を作った。
「大丈夫。絶対戻れるから」
道が二つに分かれていた。
右は舗装された道。
左は林の中へ続く細い道。
瞳は右へ進もうとした。
だが、男の子が首を振った。
「こっちから来た」
左を指していた。
「本当?」
「うん」
瞳は迷った。
舗装された道のほうが安全そうだった。
けれど男の子は、左が正しいと言う。
「じゃあ、そっちに行こう!」
瞳は左へ進んだ。
五分後。
道はぬかるみに変わった。
雨水が足首まで流れていた。
男の子が転んだ。
「痛い!」
瞳は手を引いた。
「頑張って!」
そのとき、背後で大きな音がした。
土砂が崩れた。
さっきまで歩いていた道が、茶色い水に飲み込まれた。
瞳は動けなくなった。
初めて、笑顔が消えた。
(怖い)
心臓が激しく鳴った。
男の子が泣き叫ぶ。
「帰りたい!」
瞳も帰りたかった。
母親に会いたかった。
それでも、男の子の手を離さなかった。
「大丈夫……」
声が震えた。
「絶対、大丈夫だから」
それは確信ではなかった。
そう信じたかっただけだった。
◇
詩織は帰宅後、ニュースを見ていた。
市内で土砂崩れが起きたという。
行方不明者がいるらしい。
詩織は青ざめた。
(やっぱり外は危険なんだ)
母親がテレビを消した。
「もう見なくていいよ」
「でも……」
「今日は疲れたでしょう」
詩織は黙ってうなずいた。
その夜、翌日の天気予報を何度も確認した。
晴れだった。
それでも安心できなかった。
予報は外れることがある。
今日、それを知ってしまったからだ。
◇
和幸は父親に迎えに来てもらった。
車の中で、ずっと文句を言っていた。
「せっかく大物釣ったのに」
「だから早く帰れって言っただろ」
「分かってるよ」
「自転車も修理だな」
「最悪……」
父親は苦笑した。
「魚はどうした?」
「逃がした」
「なんだ、もったいない」
「でも写真撮った!」
和幸は急に元気になった。
携帯電話の画面を見せる。
「ほら、でかいだろ!」
「おお、本当だ」
「すごいだろ!」
父親は笑った。
「さっきまで落ち込んでたくせに」
「だって魚はすごかったもん」
和幸は写真を眺めた。
膝は痛い。
自転車も壊れた。
それでも魚は大きかった。
嬉しいことと、嫌なこと。
どちらも本当だった。
◇
翌朝。
瞳は病院のベッドで目を覚ました。
左腕に包帯が巻かれていた。
救助されたのは、日が暮れる少し前だった。
教師と消防隊が二人を発見した。
男の子も無事だった。
母親がベッドの横に座っていた。
「瞳!」
「お母さん……」
母親は泣いていた。
「本当に心配したんだから」
「ごめんなさい」
瞳も泣いた。
怖かった。
本当に怖かった。
もう二度と、あんな思いはしたくなかった。
それでも、しばらくしてから尋ねた。
「あの子は?」
「無事よ」
「よかった……」
瞳は目を閉じた。
そして小さく笑った。
「助けられてよかった」
母親は娘の手を握った。
「でもね、瞳」
「うん」
「人を助けるときは、自分も安全じゃないと駄目なの」
瞳は黙った。
「あなたがいなくなったら、お母さん、どうしたらいいの」
瞳は初めて考えた。
自分が正しいと思ってしたことが、誰かを悲しませることもある。
男の子を助けたいという気持ちは、嘘ではなかった。
けれど、その気持ちだけで正しい道を選べるわけではなかった。
◇
数日後。
瞳のもとに一通の手紙が届いた。
助けた男の子からだった。
まだ上手ではない字で、ありがとうと書かれていた。
その下には、二人が手をつないでいる絵が描かれていた。
瞳は何度も読み返した。
母親が尋ねた。
「嬉しい?」
「うん!」
「また同じことがあったらどうする?」
瞳は少し考えた。
「今度は先生を呼ぶ」
母親は笑った。
「そうしてね」
瞳もうなずいた。
あの日の出来事は、瞳にとって幸運だったのだろうか。
それとも不幸だったのだろうか。
男の子は助かった。
瞳はけがをした。
母親は泣いた。
そして、感謝の手紙が届いた。
どれも同じ一日の出来事だった。
◇
詩織は雨の日を避けるようになった。
和幸はしばらく釣りに行かなかった。
瞳は雨具を必ず持つようになった。
三人の人生は、少しだけ変わった。
だが、その変化が未来のどこにつながるのかは、まだ分からない。
ある日、瞳が選んだ道が誰かを救うかもしれない。
ある日、詩織が避けた道に幸福が待っているかもしれない。
ある日、和幸が喜びに任せて進んだ先に、取り返しのつかない出来事が待っているかもしれない。
それでも三人は、また選ぶ。
そのときの自分が、正しいと思う道を。
空には雲が流れていた。
雨が降るかどうかは、誰にも分からない。
ただ、雨が降ったあとにどうするか。
その選択だけは、人間の手の中にあった。
【第2話 幸運の種 へ続く】




