第19話 終点
人生で最も公平なものは何か。
それは死だと言われる。
金持ちも。
貧乏人も。
天才も。
凡人も。
善人も。
悪人も。
最後には死ぬ。
だから公平だと。
だが本当にそうだろうか。
死そのものは平等かもしれない。
しかし。
死へ至る道は驚くほど不平等だ。
◇
森本明は六十七歳になっていた。
退職していた。
会社員人生は無事終わった。
大きな成功もない。
大きな失敗もない。
穏やかな人生だった。
世間はそう評価するだろう。
本人も否定しない。
だが。
心の奥にはずっと一つだけ残っていた。
ピアノだった。
◇
指は少しずつ回復した。
本当に少しずつ。
若い頃ほどではない。
だが簡単な曲なら弾ける。
両手で。
ゆっくりと。
昔の自分から見れば笑われるだろう。
それでも。
明は嬉しかった。
不思議なくらい。
若い頃より。
今の方が。
◇
ある日の夕方。
明は一人でピアノを弾いていた。
実家から引き取った古いピアノ。
父は亡くなった。
母も亡くなった。
友人も少しずつ減った。
人生とはそういうものだ。
人が消えていく。
静かに。
順番に。
◇
曲が終わる。
音が消える。
明は鍵盤を見つめた。
そして思った。
(結局)
長い人生だった。
本当に。
(俺は負けたのかな)
昔なら即答した。
負けたと。
夢を失ったと。
才能を奪われたと。
だが今は違う。
負けたとも思えない。
勝ったとも思えない。
ただ。
生きた。
それだけだった。
◇
一方。
山畑裕英は六十八歳になっていた。
相変わらずだった。
驚くほど。
大病なし。
事故なし。
資産も順調。
家族も健在。
運は最後まで彼を守った。
誰もが羨む人生だった。
本人も認める。
「運が良かった」
それは事実だ。
否定しようがない。
◇
だが。
その裕英ですら。
ある日病院で告げられた。
「余命一年です」
医師は静かだった。
淡々としていた。
悪性腫瘍。
進行が早い。
手遅れ。
治療は難しい。
説明は短かった。
◇
裕英は笑った。
最初は。
本当に。
笑った。
「ついにか」
そんな言葉まで出た。
医師が困惑するほどに。
◇
病院を出る。
空を見上げる。
青かった。
昨日と同じだった。
なのに。
世界は変わっていた。
(終わるのか)
初めて思った。
人生は続くものだと思っていた。
どこかで。
無意識に。
だが違った。
終わる。
本当に。
誰でも。
◇
一方。
前田典子は六十七歳。
現役弁護士だった。
まだ第一線。
テレビにも出る。
有名人だった。
だが。
ある日。
倒れた。
法廷で。
突然。
脳出血だった。
◇
人は運命を予告されない。
裕英のように例外もある。
だが多くは突然だ。
典子もそうだった。
昨日まで普通だった。
今日も普通の予定だった。
それだけだった。
◇
三人は久しぶりに集まった。
病院だった。
皮肉な再会だった。
若い頃なら笑っただろう。
今は少し違う。
「終わるな」
裕英が言う。
「そうですね」
明が答える。
典子はベッドで笑った。
「縁起でもない」
「事実だろ」
「そうだけど」
沈黙。
だが嫌な沈黙ではなかった。
長年の友人だけが共有できる静けさだった。
◇
「なあ」
裕英が言う。
「覚えてる?」
「何を」
明が聞く。
「人生は運か才能か選択か」
若い頃の話だった。
喫茶店で。
三人で。
何度も議論した。
「ああ」
明が笑う。
「懐かしいですね」
「結局」
裕英は窓の外を見る。
「何だったんだろうな」
答えはない。
誰も答えない。
答えられない。
人生が終わる寸前になっても。
分からないものは分からない。
◇
数か月後。
最初に逝ったのは典子だった。
静かな最期だった。
家族に囲まれて。
穏やかに。
まるで眠るように。
◇
次は裕英だった。
最後まで笑っていた。
「運良かったよ」
それが最期の言葉だった。
本当に。
最後まで彼らしかった。
◇
そして。
明だけが残った。
友人たちを見送る。
一人で。
静かに。
長い人生だった。
本当に長かった。
◇
その夜。
明はピアノを弾いた。
昔の曲。
若い頃に弾いた曲。
途中で指が止まる。
技術が足りない。
年齢もある。
だが。
構わなかった。
最後まで弾く。
ゆっくり。
丁寧に。
そして。
最後の音が消えた。
静寂。
誰もいない部屋。
明は目を閉じた。
不思議と。
満足していた。
◇
翌朝。
森本明は眠ったまま目を覚まさなかった。
苦しまず。
穏やかに。
静かに。
人生という旅を終えた。
六十八歳だった。
◇
三人とも死んだ。
ゲームは終わった。
盤上の駒はゴールへ辿り着いた。
そう。
誰もが思った。
だが。
それは違った。
本当の物語は。
ここから始まる。
【最終話 盤上の神々 へ続く】




