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神のサイコロ Another  作者: Kiyo
第一幕 運否天賦

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17/21

第17話 奇跡

 人は奇跡を信じる。


 信じたいと言った方が正しいかもしれない。


 医師が諦めた病気が治る。


 事故で助かる。


 絶望的な状況がひっくり返る。


 そういう話は昔から好まれる。


 なぜなら。


 人生の大半は奇跡が起きないからだ。


     ◇


 森本明がリハビリをやめて三か月が過ぎた。


 社会人になっていた。


 都内の大手企業。


 給与も悪くない。


 福利厚生も整っている。


 上司もまともだった。


 同期との関係も良い。


 世間的には成功者だった。


 少なくとも。


 そう見えた。


     ◇


 朝七時。


 満員電車。


 出社。


 会議。


 資料作成。


 帰宅。


 食事。


 就寝。


 翌日。


 また同じ。


 その繰り返し。


 不満はない。


 だが。


 情熱もなかった。


 人生は穏やかだった。


 穏やかすぎた。


     ◇


 ある日の昼休み。


 社員食堂でスマホを見る。


 動画サイトが流れていた。


 若いピアニスト。


 二十歳くらい。


 国際コンクール優勝。


 観客総立ち。


 賞賛。


 喝采。


 栄光。


 明は画面を閉じた。


 三秒も見られなかった。


 胸が痛かった。


 昔ほどではない。


 だが。


 完全には消えていない。


     ◇


 その夜。


 珍しく実家へ帰った。


 母が喜ぶ。


 父も嬉しそうだった。


 夕食。


 昔と変わらない食卓。


 だが。


 全員少し歳を取っていた。


「仕事どう?」


 母が聞く。


「普通」


「大変?」


「普通」


「楽しい?」


 明は少し考えた。


「普通」


 父が笑った。


「お前、語彙が減ったな」


 明も笑う。


 本当にそうだった。


 普通。


 その言葉ばかり使う。


 昔は違った。


 未来の話をしていた。


 夢の話をしていた。


 今はしない。


     ◇


 食後。


 久しぶりにリビングへ行く。


 そこには。


 まだピアノがあった。


 黒いまま。


 静かなまま。


 時間だけが経っている。


 明は近づく。


 蓋を開ける。


 鍵盤に触れる。


 冷たい。


 そして。


 何となく座った。


 本当に何となくだった。


 理由はない。


 懐かしかっただけかもしれない。


     ◇


 左手で一音鳴らす。


 響く。


 変わらない。


 昔と同じ音だった。


 右手を置く。


 動かない。


 当然だった。


 何年も変わらない。


 だから期待もしない。


 その時だった。


 人差し指が。


 ほんの少しだけ動いた。


     ◇


 明は固まった。


 呼吸も止まる。


 錯覚かと思った。


 もう一度。


 動かす。


 わずかに。


 本当にわずかに。


 動いた。


 ほんの数ミリ。


 だが。


 確かに。


「……は?」


 声が漏れる。


 信じられなかった。


 十年以上。


 何も変わらなかった。


 昨日まで。


 先週まで。


 先月まで。


 何も。


 なのに。


 今。


 動いた。


     ◇


 明は必死に動かそうとした。


 指。


 手。


 関節。


 震える。


 動く。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 だが確実に。


 涙が出そうになった。


 嬉しいのか。


 怖いのか。


 分からない。


     ◇


 その時。


 母が来た。


「明?」


 振り返る。


 明の顔を見て止まる。


「どうしたの?」


 声が震えている。


 明は右手を見た。


 そして。


「動いた」


 それだけ言った。


「え?」


「指が」


 母は理解できなかった。


 だが。


 次の瞬間。


 理解した。


 顔が崩れる。


「本当に?」


「うん」


「本当に?」


「うん」


 母は泣いた。


 十年以上分の涙だった。


     ◇


 翌日。


 病院へ行った。


 医師も驚いた。


「あり得ないとは言いません」


 そう前置きして。


「極めて珍しいです」


 と言った。


 原因は分からない。


 相変わらずだった。


 ただ。


 動いている。


 それだけは事実だった。


     ◇


 だが。


 明は帰り道に考えていた。


 不思議だった。


 ずっと欲しかったものだ。


 奇跡。


 回復。


 希望。


 なのに。


 想像していたほど嬉しくない。


     ◇


(何でだろう)


 考える。


 昔なら飛び上がっていた。


 世界が変わったと思っただろう。


 だが今は違う。


 十年以上経っている。


 人生も変わった。


 仕事もある。


 責任もある。


 時間も戻らない。


 失った青春も。


 失った夢も。


 戻らない。


     ◇


 その夜。


 裕英へ電話した。


『もしもし』


「動いた」


『何が?』


「指」


 沈黙。


 三秒。


 五秒。


『え?』


「動いた」


『マジで?』


「うん」


『マジで?』


「うん」


 裕英は叫んだ。


『すげえじゃん!』


 子供みたいだった。


 明は笑った。


 久しぶりに心から。


     ◇


 一方。


 典子もその話を聞いた。


 驚いた。


 本当に。


 そして思った。


 人生は分からない。


 努力が報われないこともある。


 運が味方することもある。


 だが。


 十年以上経ってから返ってくることもある。


 そんなことがあるのだ。


     ◇


 夜。


 明は一人でピアノの前に座っていた。


 右手はまだほとんど動かない。


 曲など弾けない。


 昔には程遠い。


 だが。


 指先は確かに動く。


 少しだけ。


 わずかに。


 それを見つめながら思う。


(これは奇跡なのか)


 答えは出ない。


 だが。


 一つだけ分かった。


 人生は思ったよりしぶとい。


 終わったと思った場所から。


 平然と続きを始める。


 まるで。


 誰かが盤上の駒をもう一度動かしたみたいに。


 静かに。


 何事もなかった顔で。


【第18話 神 へ続く】

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