第17話 奇跡
人は奇跡を信じる。
信じたいと言った方が正しいかもしれない。
医師が諦めた病気が治る。
事故で助かる。
絶望的な状況がひっくり返る。
そういう話は昔から好まれる。
なぜなら。
人生の大半は奇跡が起きないからだ。
◇
森本明がリハビリをやめて三か月が過ぎた。
社会人になっていた。
都内の大手企業。
給与も悪くない。
福利厚生も整っている。
上司もまともだった。
同期との関係も良い。
世間的には成功者だった。
少なくとも。
そう見えた。
◇
朝七時。
満員電車。
出社。
会議。
資料作成。
帰宅。
食事。
就寝。
翌日。
また同じ。
その繰り返し。
不満はない。
だが。
情熱もなかった。
人生は穏やかだった。
穏やかすぎた。
◇
ある日の昼休み。
社員食堂でスマホを見る。
動画サイトが流れていた。
若いピアニスト。
二十歳くらい。
国際コンクール優勝。
観客総立ち。
賞賛。
喝采。
栄光。
明は画面を閉じた。
三秒も見られなかった。
胸が痛かった。
昔ほどではない。
だが。
完全には消えていない。
◇
その夜。
珍しく実家へ帰った。
母が喜ぶ。
父も嬉しそうだった。
夕食。
昔と変わらない食卓。
だが。
全員少し歳を取っていた。
「仕事どう?」
母が聞く。
「普通」
「大変?」
「普通」
「楽しい?」
明は少し考えた。
「普通」
父が笑った。
「お前、語彙が減ったな」
明も笑う。
本当にそうだった。
普通。
その言葉ばかり使う。
昔は違った。
未来の話をしていた。
夢の話をしていた。
今はしない。
◇
食後。
久しぶりにリビングへ行く。
そこには。
まだピアノがあった。
黒いまま。
静かなまま。
時間だけが経っている。
明は近づく。
蓋を開ける。
鍵盤に触れる。
冷たい。
そして。
何となく座った。
本当に何となくだった。
理由はない。
懐かしかっただけかもしれない。
◇
左手で一音鳴らす。
響く。
変わらない。
昔と同じ音だった。
右手を置く。
動かない。
当然だった。
何年も変わらない。
だから期待もしない。
その時だった。
人差し指が。
ほんの少しだけ動いた。
◇
明は固まった。
呼吸も止まる。
錯覚かと思った。
もう一度。
動かす。
わずかに。
本当にわずかに。
動いた。
ほんの数ミリ。
だが。
確かに。
「……は?」
声が漏れる。
信じられなかった。
十年以上。
何も変わらなかった。
昨日まで。
先週まで。
先月まで。
何も。
なのに。
今。
動いた。
◇
明は必死に動かそうとした。
指。
手。
関節。
震える。
動く。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
だが確実に。
涙が出そうになった。
嬉しいのか。
怖いのか。
分からない。
◇
その時。
母が来た。
「明?」
振り返る。
明の顔を見て止まる。
「どうしたの?」
声が震えている。
明は右手を見た。
そして。
「動いた」
それだけ言った。
「え?」
「指が」
母は理解できなかった。
だが。
次の瞬間。
理解した。
顔が崩れる。
「本当に?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
母は泣いた。
十年以上分の涙だった。
◇
翌日。
病院へ行った。
医師も驚いた。
「あり得ないとは言いません」
そう前置きして。
「極めて珍しいです」
と言った。
原因は分からない。
相変わらずだった。
ただ。
動いている。
それだけは事実だった。
◇
だが。
明は帰り道に考えていた。
不思議だった。
ずっと欲しかったものだ。
奇跡。
回復。
希望。
なのに。
想像していたほど嬉しくない。
◇
(何でだろう)
考える。
昔なら飛び上がっていた。
世界が変わったと思っただろう。
だが今は違う。
十年以上経っている。
人生も変わった。
仕事もある。
責任もある。
時間も戻らない。
失った青春も。
失った夢も。
戻らない。
◇
その夜。
裕英へ電話した。
『もしもし』
「動いた」
『何が?』
「指」
沈黙。
三秒。
五秒。
『え?』
「動いた」
『マジで?』
「うん」
『マジで?』
「うん」
裕英は叫んだ。
『すげえじゃん!』
子供みたいだった。
明は笑った。
久しぶりに心から。
◇
一方。
典子もその話を聞いた。
驚いた。
本当に。
そして思った。
人生は分からない。
努力が報われないこともある。
運が味方することもある。
だが。
十年以上経ってから返ってくることもある。
そんなことがあるのだ。
◇
夜。
明は一人でピアノの前に座っていた。
右手はまだほとんど動かない。
曲など弾けない。
昔には程遠い。
だが。
指先は確かに動く。
少しだけ。
わずかに。
それを見つめながら思う。
(これは奇跡なのか)
答えは出ない。
だが。
一つだけ分かった。
人生は思ったよりしぶとい。
終わったと思った場所から。
平然と続きを始める。
まるで。
誰かが盤上の駒をもう一度動かしたみたいに。
静かに。
何事もなかった顔で。
【第18話 神 へ続く】




