第16話 崩壊
崩壊という言葉は便利だ。
建物にも使える。
組織にも使える。
国家にも使える。
人間にも使える。
だが実際の崩壊は、映画のように派手ではない。
音もなく始まる。
静かに。
少しずつ。
気づいた時には手遅れになっている。
森本明の崩壊もそうだった。
◇
大学四年。
就職活動が始まっていた。
周囲は忙しい。
説明会。
エントリーシート。
面接。
将来。
未来。
皆がそれぞれの道を探している。
明も同じだった。
少なくとも表面上は。
◇
大手金融機関。
総合商社。
メーカー。
コンサル。
様々な企業を受けた。
結果は悪くない。
成績は優秀。
受け答えも問題ない。
真面目。
誠実。
評価も高い。
誰もが言った。
「森本なら大丈夫」
その言葉を聞くたびに。
少しだけ苦しくなった。
◇
ある日の面接。
人事担当者が聞いた。
「学生時代に最も打ち込んだことは何ですか?」
よくある質問だった。
だが。
明は少し黙った。
本当の答えは一つしかない。
リハビリ。
十年以上続けている。
成果はない。
それでも続けている。
だが。
そんな話はできない。
「勉強です」
そう答えた。
嘘だった。
いや。
半分は本当だ。
半分は嘘。
面接官は満足そうに頷く。
だが。
明だけが分かっていた。
自分が何かを誤魔化していることを。
◇
帰宅後。
アパート。
静かな部屋。
机の引き出しを開ける。
古い楽譜が入っている。
大学に入る時も捨てられなかった。
社会人になろうとしている今も。
捨てられない。
ページをめくる。
音が頭の中に浮かぶ。
今でも。
鮮明に。
驚くほど鮮明に。
指は動かないのに。
音だけは消えない。
◇
(もういいだろ)
ふと思った。
初めてだった。
こんなことを考えたのは。
(もう十分やっただろ)
十年以上。
毎日。
欠かさず続けた。
朝も。
昼も。
夜も。
成果はない。
奇跡もない。
変化もない。
何もない。
それでも続けた。
だが。
何のために。
その問いが浮かぶ。
消えない。
◇
翌朝。
リハビリの時間だった。
いつものように椅子へ座る。
右手を見る。
動かそうとする。
そして。
止まった。
初めてだった。
動かさなかったのは。
十年以上続けた習慣が。
その日だけ途切れた。
理由はない。
ただ。
疲れていた。
◇
その夜。
裕英から電話があった。
『生きてる?』
「一応」
『何だその返事』
「普通ですよ」
『普通じゃないな』
裕英は笑った。
昔からそうだ。
妙な勘がいい。
頭が良いわけではない。
人を見るのが上手いわけでもない。
だが。
なぜか気づく。
人の変化に。
『飯行く?』
「今度で」
『じゃあ今から』
「強引ですね」
『知ってる』
明は少し笑った。
そして。
「行きます」
そう答えた。
◇
居酒屋だった。
学生時代によく行った店。
変わっていない。
店員も。
メニューも。
雰囲気も。
「久しぶりだな」
裕英が言う。
「そうですね」
「元気ないな」
「そうですか」
「うん」
即答だった。
明は苦笑する。
隠せていないらしい。
◇
「なあ」
裕英が言う。
「森本」
「はい」
「まだやってる?」
何のことか分かった。
説明はいらない。
「やってます」
嘘だった。
昨日だけ。
やらなかった。
「そっか」
裕英はビールを飲む。
「偉いな」
「偉くないですよ」
「俺なら無理」
それも本音だろう。
裕英は十年続けられる人間ではない。
明も昔はそう思っていた。
だが。
続けてしまった。
やめられなかった。
◇
「でもさ」
裕英が言う。
「もう十分じゃない?」
その言葉に。
明は黙った。
怒りはなかった。
むしろ。
少し安心した。
誰かが言ってくれたからだ。
自分では言えなかった言葉を。
「分からないんです」
明は呟く。
「何が?」
「やめたら」
言葉が詰まる。
「やめたら」
もう一度。
「本当に終わる気がして」
裕英は黙った。
笑わない。
茶化さない。
ただ聞いている。
「でも」
明は続けた。
「たぶん」
「うん」
「もう終わってるんですよね」
初めて口にした。
本当に初めて。
十年以上認めなかった言葉。
その瞬間だった。
何かが崩れた。
◇
泣かなかった。
叫ばなかった。
取り乱しもしない。
ただ静かだった。
だからこそ。
本当の崩壊だった。
人は泣いているうちは壊れない。
怒っているうちも。
抗っているうちも。
本当に危険なのは。
何も感じなくなる時だ。
◇
帰り道。
夜風が冷たかった。
裕英と別れる。
一人になる。
空を見上げる。
星は見えない。
都会だから。
あるいは。
最初からそこになかったのかもしれない。
そんなことを考える。
◇
その夜。
明は十年ぶりにリハビリを休んだ。
意図的に。
初めて。
右手は相変わらず動かない。
何も変わらない。
だが。
心のどこかで理解していた。
これは終わりではない。
ただ。
一つの夢の葬式なのだと。
そして。
葬式が終わった後も。
人は生きていかなければならない。
残酷なくらい普通に。
【第17話 奇跡 へ続く】




