4話 悪夢
頬にあたる冷たい石の感触と手首を締め付ける重い手枷。
近くから聞こえるすすり泣く声に目を開けても、そこには暗闇が広がっているだけだった。
――あぁ、またこの夢か。
トーカは身動きの取れない身体を横たえたまま、意識的に呼吸をする。
闇に呑まれないように。
隣で泣く妹へ、自分の恐怖が伝わらないように。
「マリー、大丈夫。大丈夫だよ」
呼びかける自分の声は高く幼い。
怖いと訴える妹へ、優しい口調で大丈夫だと繰り返す。
泣き止むまで、眠るまで、安心させるように声をかけ続ける。
そんなことしかできない自分に、どうしようもないやるせなさを感じながら、ひたすら大丈夫だと繰り返した。
ガチャンッ
唐突に錠前の外れる音が響く。
不快な音を立てながら開いた扉の奥には、ぼんやりと光を放つランプが一つ。
それを持ってゆっくりと近づいてくる体の大きな男は、温度のない瞳でこちらを見下ろしていた。
「……来い」
低く野太い声が耳に届いた途端、身体がこわばり震え出す。
そのまま近づいてきた男は、トーカの胸ぐらを掴んで無理やり立たせると、ずるずると引きずるように扉へ向かう。
「兄さんッ!! いや、連れていかないで!! お願い! 兄さん!!!」
妹の悲痛な叫びが耳に刺さり、今から自分がされることへの恐怖を倍増させていく。
しかしトーカは、身体の震えを堪えるように拳を握り、泣きじゃくる妹へ微笑んだ。
「大丈夫……大丈夫だよマリー。君は、僕が絶対に守るから」
「いやッ!! 置いてかないで! 兄さん!!!」
声とともに妹の姿は掻き消え、再び暗くなった視界には椅子が一つ現れる。
拘束具のついたその椅子へ、男はトーカを乱暴に座らせた。
――また始まる。
手足と腰、首を固定され、項垂れた視界の端に白衣の男が映り込む。
血のように赤い髪の隙間から、ギラついた目でこちらを見る男は、椅子の横まで来ると、覗き込むように気味の悪い笑みを浮かべた。
「さぁトーカ、今日も始めようか」
耳元で囁かれたのは、男にしては高く、粘ついたいやらしい声。
まるで刷り込まれたかのように腹の底から恐怖が沸き上がり、勝手に鳴り出す奥歯を必死に食いしばって、叫ぶ。
「約束は守れ! 僕は何度だってお前の相手をしてやる。だから、マリーには絶対手を出すな! 指一本でも触れたら、その指噛みちぎってやる!!」
「おぉ怖い。分かっているよトーカ。君ほどの素材はなかなかいないんだ、それくらいのお願いなら聞いてあげるとも。大丈夫、あの子には何もしないよ」
男は耳障りな引き笑いを繰り返しながらトーカの頬に触れた。
ゆっくりと頬から顎へ指をつたわせ、そのまま持ち上げるように上を向かせる。
自然と開いたトーカの口へ、節くれだった細い指を滑り込ませると、そのまま心底楽しいというように笑う。
「一緒に新たな世界を見ような、トーカ」
男は反対の手に、赤黒い液体の入ったガラス容器を持つと、そのままトーカの口へと流し込んだ。
途端に感じる、強烈な苦味と口内を焼かれる痛み。
吐き出そうと暴れるが、鼻と口を塞がれ、強制的に嚥下させられる。
喉を焼きながら降りていく熱は徐々に広がり、血まで沸騰しそうな痛みが全身を襲った。
声にならない絶叫とともに見開いた瞳には、花火のような閃光が瞬いては消える。
その光の中に妹の姿を見た気がして、トーカは動かないはずの腕を伸ばした。
――大丈夫。大丈夫だよマリー。僕が絶対守るから。
痛みに思考を奪われないよう、今まで何度も口にした言葉を必死に繰り返す。
怯えて泣くあの子が、落ち着くように。
暗闇にうずくまるあの子が、安心して眠れるように。
トーカはひたすら、大丈夫と繰り返し続けた。
いつまでそうしていたのか。
気づけば全身の痛みは消え、視界も暗闇へと戻っていた。
ゆっくり瞼を開けると、暗い自室の天井が映る。
見慣れたその景色に、すべて夢だったことを実感し、トーカは深く息を吐いた。
窓の外は薄暗く、夜明けまではまだ少し時間がある。
疲弊した頭は酷く重いが、目を閉じれば、またあの夢に引きずり込まれてしまいそうな気がして、もう一度眠る気にはなれなかった。
トーカは身体を引きずるように起き上がると、汗でベッタリとまとわりつくシャツを脱ぎ捨てて浴室へ向かう。
簡易的なシャワーがついただけのそこは、ひんやりとした早朝の空気で満たされていた。
明かりも付けずに蛇口を捻る。
頭から被った冷水は、身体をつたって不快な汗を洗い落としていくが、夢の名残までは流してくれない。
二十年近く経ってなお、鮮明に見続ける悪夢――それは、消したくても消せない過去の記憶だった。
昨日、初めて他人へ語った自分の身の上。
表情も声色も、すべて計算して騎士団との交渉材料にしたつもりだが、こうして夢に見るあたり、思っていたより平気ではなかったらしい。
流れ続ける水を止め、顔を上げる。
目線の高さに吊るされた鏡には、酷くやつれた自分の顔が映っていた。
「……ひどい顔」
トーカはそうこぼして苦笑すると、軽く頭を振り、冷えきった身体を拭いて浴室を出る。
ダイニングの窓からは白んだ空が見え、一日の始まりを告げようとしていた。
おもむろに窓を開け放つと、冷たく澄んだ風が勢いよく吹き込む。
部屋の中を駆け巡る風は、羽織ったシャツをはためかせ、テーブルに置かれていた紙束を舞い上げた。
暗い木目の床に散らばった紙には、交渉のために調べ上げた、騎士団や研究所の情報がびっしりまとめられている。
トーカは足元の一枚を拾い上げ、綴られた文字に顔を歪めた。
――合成魔獣。
叶うことなら、もう二度と関わりたくなかった。
だが、妹に害をなす可能性があるのなら、欠片も残さず消し去る。
それ以外に選択肢はない。
誰よりも幸せにならなくてはいけないあの子が、これ以上泣かなくて済むように。
ずっと笑っていられるように。
それさえ叶うのなら、自分は悪役にも道化にもなれる。
たとえ代償を払うことになっても、ともに歩むことができなくなっても――この身があの子の道となれるなら、本望だ。
トーカは部屋に散乱する紙を見つめ、わざと声を出して笑った。
最愛の妹を守るために、自分を鼓舞するように笑った。




