9話 大猿
跳び回る巨体を追い、木々の間を走る。
鮮やかに染まる右目は朱色を捉え、揺らぎ、流れ、瞬く魔力の先へ、イコルネは乙女ノ炎舞を叩き込み続けていた。
四本腕の朱猿は、速さもさることながら異様なほどタフだった。
マリアテールと二人がかりで刻みつけた傷は既に百を超え、普通の魔物なら、とっくに動けなくなっている。
だが、大猿の隆起した筋肉は、切り刻んだ傍から傷口を塞ぎ、致命傷はおろか出血すらほとんどしていない。
消耗はしているのか、多少動きは鈍り始めているが、急所への攻撃はことごとくかわす上、拳を振り回して反撃する余裕もまだある。
魔窟の魔力を無尽蔵に使える核の魔物を相手に、このまま長期戦となるのは不利でしかなかった。
「……ッ、うわぁぁぁああ!!」
突然響いた叫び声に、思わず振り返る。
視界に映るのは、トーカの《障壁》から飛び出す飴色の光。
転がるように森の奥へ走っていく小さな影は、先程ハリエルに押し付けたはずのニックだった。
直後、頭上の大猿がその背を追い始める。
イコルネたちには目もくれず、風を巻き上げながら一直線に駆け降りていく。
業火のごとき強大な魔力は、凄まじい勢いでニックへと迫り――
その光景に、イコルネの脳裏で故郷の出来事が重なった。
怯えて逃げ惑う、魔力の灯火。
それを理不尽に踏みつぶし、喰い散らかす真っ赤な魔力。
忘れたくても忘れられない、後悔と懺悔にまみれた嫌な記憶だ。
イコルネの体は、考えるよりも早く動いていた。
《加速》をかけた足で木の幹を踏み切り、朱猿との距離を一気に詰める。
ニックへと伸びる朱い腕の間に体をねじ込ませ、左手で思い切り小さな背を突き飛ばす。
そのまま眼前の大きな肩へ右手の乙女ノ炎舞を振り下ろせば、噴き出す血飛沫とともにメキッと嫌な音が耳に届いた。
音の出処は、刀を喰い込ませた肩ではなく、自身の左腕。
ニックを逃すために伸ばしたそれが、朱猿の右脇腹から生える腕に握り潰されていた。
刀が滑り落ち、あらぬ方向を向いた手にはまるで力が入らない。
なおもニックへ向かおうとする朱猿を、イコルネは右腕と足だけでなんとか押し留める。
「イ、イコルネさん、腕が……!」
ニックに駆け寄ったハリエルが、青ざめた顔でこちらを見る。
「じっとしとけっつったろッ!!」
怒鳴り声を上げながら右腕へさらに力を込める。
肩の骨で止まっていた乙女ノ炎舞にこれでもかと魔力を流せば、熱を帯びた刃が肉を焼き焦がし、丸太のように太い腕を骨ごと断ち切った。
「ギャァァァァア゛ア゛ッ!!」
耳をつんざく絶叫が空気を震わせる。
噴き上がる血に半身を濡らした朱猿は、まとう魔力をすべて敵意へと変え、イコルネを掴む手を振り抜く。
肩に感じた強烈な衝撃。
それを自覚する間もなく、背中から木に叩きつけられる。
肺の空気が一気に押し出され、軋む骨を伝って重い振動が全身へ広がっていく。
明滅する視界は徐々に狭まり、イコルネは朦朧とする意識を必死に繋ぎとめた。
「ギャギャギャギャッ!!」
けたたましい声に顔を上げる。
こちらを睨む瞳と目が合った瞬間、地を蹴った巨体が勢いよく飛んできた。
イコルネへ覆い被さるように着地した朱猿は、大人の頭ほどもある拳を振り上げる。
反射的に乙女ノ炎舞を握り、斬りつけようと力を込めるが、割れた幹に刀身を挟まれ、片手だけでは引き抜けない。
身を屈めて避けようにも、強打した背中は思うように動かず、痺れる足では逃げることもできない。
攻撃も退路も断たれ、直撃を覚悟したその時――
「イコから離れろーッ!!」
マリアテールが、サバイバルナイフを振りかざしながら飛び降りてきた。
幹を蹴って飛び退く朱猿へ、間髪入れずに追撃を重ねる。
これまでより数段速い彼女は、イコルネの右目に映らないどころか、一切反撃の隙を与えない。
血飛沫とともに朱い毛が舞い、巨体には見る間に無数の傷が刻まれていく。
だが、増える傷口はどれも浅く、ものの数秒で塞がってしまう。
それでも攻撃を続けるマリアテールを、忙しなく首を振って追いかけていた朱猿だったが、不意に動きを止めると、頭上を仰いだ。
深く身を屈め、周囲の木々へ巡らせた視線は、明らかに跳び上がる場所を探している。
「十秒だけ足止めして」
イコルネはぼそりと呟く。
すぐ傍で聞こえた軽い着地音に続き「わかった」とマリアテールの声が返ってくる。
その直後、踏み切ろうとした朱猿の足首から、盛大に血が噴き出した。
ぐらりと傾いた巨体が、その場で片膝をつく。
イコルネは目を離さぬまま、強ばる手足を無理やり曲げ、軋む関節へ魔力を流して強制的に身体を動かす。
幹へ預けていた背を離し、乙女ノ炎舞を力任せに引き抜くと、足へ《加速》をかけながら地面を蹴った。
視線の先に捉える朱猿は、既に足首の血が止まっている。
やはり木の上へ逃げるつもりなのか、魔力が足へと集められ、今にも跳び上がりそうな体勢だ。
その足へ、マリアテールが斬りつける。
溜まった魔力とともに再び血が噴き出し、両膝をついた大猿の懐へ、イコルネは躊躇いなく飛び込んでいく。
振り下ろされた腕のすれすれを抜け、視界を埋めた朱色の中、ひと抱えもある太い首へ乙女ノ炎舞を叩き込む。
皮膚が灼け、ブチブチと筋繊維を断ち切る感触。
食い込む刃が骨に達した瞬間、全体重を右腕に乗せ、身を捻る勢いのまま、力の限り振り抜いた。
……ゴトンッ
朱い首が落ちる。
鮮血を溢れさせた巨体はぐらりと傾き、崩れ落ちるようにイコルネの上へと倒れ込んだ。
* * *
「タイラー早く!」
「イコッ!」
右腕を強く引かれ、朱猿の下から引っ張り出される。
体を押し潰していた重みがようやく消え、イコルネは起き上がるなり激しく咳き込んだ。
「イコ……! ねぇ、イコの腕が……!」
悲痛に顔を歪めたマリアテールが、すぐ傍へしゃがみこむ。
彼女に呼ばれて来たであろうタイラーも、中身のないイコルネの左袖に、愕然と目を見開いていた。
「兄さん! 兄さん、早く! イコを治して!」
「ごめんマリちゃん。腕を生やすのは流石に無理だよ」
今にも泣き出しそうな彼女の声に、そばに立つトーカが眉を下げる。
「こ、これはくっつけられませんか!?」
顔面蒼白のハリエルが、転がるように駆け寄ってくる。
腕の中に抱えているのは、おかしな位置で折れ曲がり、赤黒く変色したイコルネの左腕だった。
「残念だけど、僕は《治癒》の魔法自体、使えないんだよ」
「そんな……」
「くそッ! そもそもお前と一緒にいたのに、なんでイコがこんなことになってんだよ!」
マリアテールに向かって声を荒らげるタイラーは、白くなるほど拳を握りしめている。
俯いて唇を噛んだマリアテールに代わり、ハリエルが地面に頭を擦り付けながら叫んだ。
「僕のせいです!! 僕が、ニックをちゃんと捕まえておかなかったから! 飛び出したニックを庇って、イコルネさんは腕を犠牲に……! 本当にすみません!!」
「お前ッ! だから俺は、こんなお荷物連れていきたくねぇっつったんだ! こいつさえいなけりゃ……!」
「ストップ」
ハリエルへ掴みかかろうとしたタイラーの腕を、イコルネが掴んで止める。
なんとか整えた息を小さく吐き、タイラーの目を真っ直ぐ見つめた。
「ハリエルに子供を任せたのは俺だし、助けに入ったのも俺の判断。こいつを責めることじゃない」
「だけどッ……!」
タイラーがイコルネの左肩へ視線を落とし、言葉を飲み込むように奥歯を噛む。
怒ってくれる彼の気持ちはありがたいが、自分が勝手にやったことでハリエルが殴られるのは、流石に可哀想だ。
重い沈黙に耐えきれなくなったイコルネは、気まずそうな笑みを浮かべて言った。
「それに、この腕は、その……元から偽物だから」
「……は?」




