8話 バルシダーの魔窟
地響きを上げながら、ふた抱えもある大木が倒れていく。
メキメキと軋んだ幹は太い枝に引っかかり、イコルネの目の前で斜めになって止まった。
その上を、大剣を手にしたタイラーが駆け上がっていく。
「っしゃあ! ここなら切り倒しても文句ねぇだろ!」
「ちょっと来ないでよ!」
「うっせぇ! お前にばっか獲物とられてたまるかッ!!」
楽しげな声とともに、次々と朱猿が落ちてくる。
力技で作った足場を走るタイラーと、そのさらに上を飛び回るマリアテール。
二人は群がる敵を片っ端から蹴散らし、ここぞとばかりに暴れ回っていた。
イコルネたちが飛び込んだ魔窟は、バルシダーの大木が立ち並ぶ薄暗い森だった。
シダナ村の人工林とは比べ物にならないほど巨大な木々は、太い幹が幾重にも重なり、数十メートル先さえ通すことができない。
不思議と視界は利くが、遥か高くで広がる枝葉が空を覆い尽くし、闇に沈んだ枝の隙間には、無数の朱猿がひしめいていた。
不意に鈍い金属音が響き、イコルネの前に一匹の朱猿が枝ごと転がり落ちてくる。
大人の男ほどもある猿は、地面にぶつかる寸前でなんとか幹にしがみつくと、そのまま大きく跳び上がってこちらへ襲いかかってきた。
反射的に身を逸らし、すれ違いざまに斬り伏せる。
真っ二つになった胴体が、綺麗な断面を晒して転がり、相変わらずなんの抵抗も感じない乙女ノ炎舞の切れ味に、イコルネは思わず口角を上げた。
咥えていた煙草を吐き捨て、刀の柄を握り直す。
顔を上げるなり飛び降りてきた数匹の猿を一太刀で仕留めると、身を返しざま、背後にいたもう一匹の首も跳ねる。
深追いはせず、地上へ降りてきたものだけを適確に倒すこと十匹。
続々と集まる群れに取り囲まれたイコルネは、両手の中でわずかな熱を持ち始めた乙女ノ炎舞へ、思い切り魔力を込める。
途端に刀身から熱が溢れ出し、振り抜く勢いに乗せて斬撃が飛ぶ。
朱い毛皮を焼き切った軌跡は、猿を薙ぎ払ってなお伸び続け、辺り一帯の木肌へ深々と焦げ跡を刻みつけた。
チリチリと舞う火の粉の中、「イコ!」と呼ぶ声とともにマリアテールが降りてくる。
軽い足音を鳴らして着地した彼女は、おもむろに上を指さす。
「ここ、あんまり広くないかも。木のてっぺんまで行ってみたんだけど、一キロくらい先でなくなってた」
「え……マリー、これ登ったの?」
見上げる木の高さは優に四十メートルを超えている。
それを身一つで、しかも魔物を倒しながら登って降りてくる彼女は、やはり身体能力が桁違いに高い。
若干引いているイコルネをよそに、マリアテールは魔窟の入口へ視線を向ける。
「魔窟自体が狭いせいで、外にいっぱい出てきてたんだと思うわ」
「なるほどな」
「この中もどんどん猿で溢れてきてるし、あんまり時間をかけると村がやばいかも……」
「まぁ、狭いなら探しやすくていいよ」
イコルネは軽く伸びをして両目を閉じる。
そのままゆっくり右の瞼だけを開けば、濃く鮮やかに染まった瞳は、朱色に輝く魔窟内部を鮮明に映し出した。
「探る」
それだけ言うと、マリアテールの気配が消える。
風のごとく駆けた淡い金が、猿たちを容赦なく切り裂き、周囲に再び集まりかけていた群れを、あっという間に蹴散らした。
イコルネは露払いを彼女へ任せ、右目に意識を集中させていく。
おびただしい数の魔力と、朱一色で形作られた木々。
わずかな眩しさを感じつつ、さらに目を凝らせば、幹で遮られていた視界が透けるように開けていき、直径一キロにも満たない魔窟が徐々に全貌を現した。
その中で一番強い光――『核』の魔物を探して視線を巡らせる。
やがて目を留めたのは、五十メートルほど先の梢。
鮮烈な朱を放つ魔力の塊が、見覚えのある飴色を抱え込んでいた。
「いた! 子供も一緒だ!」
声を張り上げて走り出す。
すかさずマリアテールが頭上を飛び越え、枝を伝って駆けていく。
彼女に続いて大木の間を抜けた途端、イコルネの両目に飛び込んできたのは、炎に身を包むかのような大猿の姿だった。
体長二メートルを超す身体に凄まじく濃い魔力をたぎらせ、長く伸びた体毛が風もないのに上へなびいている。
はち切れんばかりに隆起する肩からは屈強な腕が四本も生え、最早、朱猿かどうかさえ分からない様相だ。
こちらに気づいた大猿が身動ぎすると、胸の前で組んだ腕の隙間に小さな黒髪の頭が覗く。
ぐったりと意識を失っているニックは、今にも朱色に呑み込まれてしまいそうだが、頼りなく揺れる飴色の光は、まだ懸命に瞬いていた。
そこへ、向かいの枝に登ったマリアテールが、なんの躊躇いもなくナイフを投げる。
大猿は瞬時に飛び退くが、刃が幹へ刺さるより早く、ニックを抱えた腕から血が噴き出した。
見れば、いつの間に移動したのか、マリアテールがその腕に取り付き、サバイバルナイフを突き立てている。
彼女は素早く刃を引き抜くと、ずるりと落ち始めたニックの服を掴み、後ろへ跳ぶ勢いのままくるりと体を一回転させた。
「邪魔ッ!」
声と同時にニックがイコルネの元へと飛んでくる。
地面に落ちる寸前で受け止めれば、まだしっかりと温かい体には、目立った怪我はなさそうだった。
イコルネは後ろへ向かって声を張る。
「ハリエルッ!」
「は、はい!」
上擦った返事をしながら走ってきたハリエルへ、半ば投げるようにニックを渡す。
慌てて抱き抱えた彼はバランスを崩し、その場に倒れ込んで尻もちをついた。
「《障壁》張れ、トーカ!」
すぐさま手を打ち鳴らす音が響く。
音とともに駆け抜けた金の光は、ハリエルの足元へみるみる集まると、二人を覆う半球状の《障壁》へと姿を変えた。
「そこでじっとしとけ」
それだけ言い捨て、踵を返す。
乙女ノ炎舞を強く握り込んだイコルネは、頭上の戦闘を見据え、マリアテールと大猿の元へと駆け出した。
* * *
ハリエルは眼前の光景を呆然と見つめる。
目にも止まらぬ速さで跳ね回る朱猿と、それを上回る速度で追うマリアテール。
傾いた幹の上を駆けるイコルネは、まるで敵の動きが分かっているかのように、猿が降り立つ先へ斬撃を飛ばす。
間一髪逃れても、マリアテールがすかさずナイフを振り下ろし、転がるように避けた背中へイコルネが追撃する。
一見完璧な連携だが、時折聞こえる金属音は二人の刃が交わる音。
縦横無尽に繰り広げられる高速戦闘の中で、味方の攻撃を弾きながら敵を追い詰めていくなど、どう考えても常軌を逸していた。
しかし、そんな彼らでも仕留めきれないあの魔物は、おそらくAランクの討伐難易度だろう。
元々Bランクの朱猿が魔窟化したので、当然といえば当然だが、確実に傷を負っているはずの猿の動きは、一向に鈍る気配がなかった。
息を飲むような激しい戦闘を前に、つい力が入っていたのか、抱き抱えていたニックが身動ぎする。
焦って開いた腕の中で呻く彼は、苦しげに眉を寄せると、瞼を震わせながらゆっくりと目を開けた。
「ニック! 気がついた?」
「……ッ、うわぁぁぁああ!!」
突然叫んだニックが恐怖に顔を歪めて暴れ出す。
なんとか落ち着かせようとするも、強引に腕を振りほどき、自分たちを覆う金の光の外へと飛び出した。
「待ってニック! ここから出たらダメだ!!」
咄嗟に手を伸ばすが、わずかに届かない。
トーカの張ってくれた《障壁》は、この魔窟内で唯一安全な場所だ。
そこから出てしまえば、小さな子供などあっという間に命を落としてしまう。
ハリエルが勢いよく立ち上がった時、真横を巨体が通り過ぎる。
朱く尾を引いた残像は――四本腕の朱猿。
イコルネたちと戦っていたはずの大猿が、目を血走らせてニックを狙っていた。
ハリエルは弾かれたように地を蹴り、その背を追う。
だが、足をもつれさせるニックは瞬く間に追いつかれ、丸太のような腕が頭を掴み取ろうとした刹那、小さな体が不自然に横へ飛んだ。
激しい衝突音が響き、血飛沫が舞う。
地面を転がったニックへ駆け寄り、すぐさま顔を上げたハリエルの目に映ったのは――
朱い巨体を正面から押し留める、イコルネの姿。
突き飛ばすように伸ばされた左腕は、猿の拳に握り潰され、あらぬ方向へと折れ曲がっていた。




