7話 西の山
バルシダーの木が立ち並ぶ山肌は、魔窟から溢れ出す朱猿で真っ赤に染まり始めていた。
大小様々な猿たちは、燃えるような朱色の体毛に身を包み、木から木へ、枝から枝へと縦横無尽に跳び回っている。
甲高い鳴き声があちこちから上がり、枝葉が音を立てて散る光景は、夜の山とは思えない騒々しさだった。
そんな中、ハリエルは前だけを見て必死に走る。
追いかけているのは、迷いなく駆けるイコルネの背中。
そのすぐ後ろを、タイラーとトーカが剣を振るいながらついていく。
はるか頭上では、マリアテールがまるで遊ぶように朱猿の首を跳ね飛ばし、時折楽しげな笑い声まで聞こえてくる。
襲い来る敵を薙ぎ払い、息切れ一つせずに斜面を駆け上がっていく彼らは、流石Bランクの冒険者だ。
ハリエルも《加速》の魔法を使ってはいるが、それでも置いていかれないようにするのが精一杯で、敵を倒すどころか武器を抜く余裕すらなかった。
「……凄い」
思わずこぼれた感嘆の声が、耳障りな鳴き声に掻き消される。
ちらりと後ろを振り返れば、こちらを見下ろす朱猿たちが、警戒に歯を剥き出して激しく枝を揺らしていた。
「あ、あの……!」
上がった息を誤魔化すように声を張る。
「この辺の朱猿は、殲滅しなくてよろしいんですか? これだけ数が多いと、村が危険なんじゃ……」
その問いに答えてくれたのは、前を軽やかに走るトーカだった。
こちらを振り向いた彼の視線は、宿屋で見た時より幾分優しい。
「魔窟があるんだから、こんな所のをいくら倒したって意味がないよ。あの村に植えられてた魔物避けは朱猿が特に嫌う匂いだし、もう少しくらいは平気だと思う。……それにね」
トーカは頭上を見上げ、にっこりと笑う。
「メインディッシュが目の前にあるのに、前菜を行儀よく食べていられるほど、僕らはできた人間じゃないんだ」
そう言いながら、彼は手に持つ薄刃の曲剣で、飛びかかってきた朱猿を切り捨てた。
派手に散った血飛沫を、一切浴びていないのが不思議でならない。
続け様にもう二体斬ったトーカが、おもむろにポケットから小さな瓶を取り出す。
手のひらにすっぽりと収まる細長い小瓶の中には、どろりとした黒い液体が揺れに合わせて波打っていた。
「やっぱり、この薬品自体に誘引効果がある訳じゃなさそうだね。子供たちも、村を出てから一時間近くは森を歩き回ってたし、今も僕だけが狙われてる感じはない。……攫ったのは、たまたまかなぁ?」
ちゃぷちゃぷと小瓶を振ってみせるトーカに、ハリエルは目を瞬かせる。
ニックが攫われた原因の薬を、魔物のど真ん中で出したことにも驚きだが、それ以上に、子供たちの行動を正確に把握しているような口ぶりが不自然だ。
宿屋の両親が騒ぎ始めたのは、ナットが一人で村へ帰ってきてからだし、泣きじゃくる彼の口からは、いつ村を出て、いつ襲われたのかなど一言も出ていない。
「トーカさんは、なぜ、攫われた時間が分かるのですか……?」
「村に《探知》の魔法を張ってたからね。出入りした者を、しばらく追えるようにしておいたんだ」
「えっ……それじゃあ、ナットが帰ってくるより早く、攫われたことに気がついていたんですか?」
「そうだよ」
当たり前のように返ってきた言葉に、思わず怪訝な表情を浮かべる。
村を覆うほどの《探知》や《追跡》は凄いとしか言いようがないが、わざわざ子供の危険を見過ごす意味がわからない。
「なんで……すぐ、両親に知らせなかったんですか……?」
「猿の群れってさ、必ずボスがいるでしょ? 朱猿は序列意識が強いから、捕らえた獲物はまずボスのところへ献上しに行くんだよ。イコ君の魔眼があれば、子供の魔力を追えるし、頭を先に潰した方が群れの殲滅がスムーズかなって」
「わ、わざと攫わせたんですか!?」
「別に誘導したわけじゃないよ。……まぁ、ほんの少し好奇心をくすぐったのは否定しないけどね」
その言葉で思い出す。
昨夜、夕飯のサンドイッチを貰いに食堂へ行った時、忙しい両親の代わりに子供たちの遊び相手を勧めてきたのは、他でもないトーカだ。
そして、憧れのパーティについて語った自分の言葉に、ナットとニックは目を輝かせていた。
冒険者になりたいとまで言い出していた二人が、興奮に任せて行動を起こしてしまうことは、容易に想像ができる。
背中にぞくりとしたものを感じ、ハリエルは口を噤む。
それを一瞥したトーカは、小瓶を丁寧にしまい直しながら、なんでもないことのように言った。
「あんな端金で面倒な依頼を受けてあげるんだ。これくらいのリスクは背負ってもらわないと、割に合わないでしょ」
「救助の追加報酬までぶん取ろうとしてたけどな、お前」
隣を走るタイラーが呆れ顔でトーカを見る。
「あの両親がさっさと依頼として頼んでくれれば、もっと早く動けたんだけどね」
「自分から仕掛けといて、よく言う」
「まぁでも、魔窟になったのは流石に予想外だったよ。マリちゃんも喜んでるし、嬉しい誤算かな」
交わされる言葉が信じられず、ハリエルは言葉を失う。
つまり、この人たちは――『木を傷つけないで欲しい』という村長のお願いを聞く代わりに、子供を囮に使った――ということ。
その上、救助を臨時依頼として、両親から追加の報酬まで得ようとしていた。
宿屋の食堂で誰一人慌てていなかったのも、最初から分かっていたからに違いない。
昨晩、苦笑しつつ子供たちの魔力を見てやっていたイコルネまでもが、この計画に加担していたとは思いたくないが、少なくとも罪悪感を欠片も感じていなさそうなトーカは、必要なら子供すらも平然と利用する人間なのだ。
策略や情報戦で右に出る者はいないと噂される凄い人ではあるが、いざそれを目の当たりにすると、尊敬や憧れなんて感情は微塵も湧いてこなかった。
「ハリエル君さ。自分の言ったことはちゃんと守れるよね?」
「……え?」
突然話を振られ、思わず足がもつれそうになる。
なんとか体勢を立て直すと、こちらを見るトーカと目が合った。
「子供の救助。君が無報酬でやるって言ったんでしょ。僕らは魔窟潰しをやるからさ、君は君の仕事をしてね」
「もちろんです!」
言葉の意味を理解するより早く返事をしていた。
彼らが子供を助けないと言うなら、自分が全力で助けよう。
泣きじゃくっていたナット、不安に押しつぶされそうだった両親。
そして、今も恐怖に震えているであろうニック。
彼らを、再び会わせてあげるため。
あの家族に、笑顔を取り戻してあげるために――。
ハリエルが拳を握り込んだ時、イコルネの声が響く。
「あった! 入口だ!」
咄嗟に顔を上げれば、木々の間には、ぽっかりと口を開けた黒い穴。
まるで血が溢れるかのように、朱猿が湧き出すその穴へ、五人は躊躇いなく飛び込んでいった。




