5話 作戦開始
耳の奥に耳鳴りが響き、頭痛に顔が歪む。
酷い目眩に襲われながら、イコルネはトーカと視線を合わせ続けていた。
既にどれくらいそうしているのかも分からなくなった頃、トーカがイコルネの口へ差し込んでいた指を抜いた。
左手は頬に添えたまま、立てた右の人差し指をゆっくりと動かし始める。
迷いなく宙を滑る指先は、淡く光を放つ浅葱色の糸を紡ぎ、するすると複雑な模様を描いていく。
やがて、細い糸がレースのように絡み合ったかと思えば、二人の目の前には直径十センチほどの小さな魔法陣が出来上がっていた。
トーカはその魔法陣へ優しく息を吹きかける。
すると陣はふわりと解け、そっと摘み上げた糸の先端が、銀の縫い針へと姿を変える。
「動かないでね」
小さく呟いたトーカが、なんの躊躇いもなくイコルネの右目に針を突き刺す。
眼球から脳へ貫くような痛みが走り、ビクリと跳ねた体が反射的に仰け反った。
しかし痛みを感じたのは一瞬で、目の奥にじわりと熱が広がる。
視界を染めた浅葱色の糸は、みるみる瞳の中へと吸い込まれ――最後の一端が沈みきった時、右目の熱は嘘のように消えていた。
しばらくこちらを覗き込んだ後、トーカがふっと表情を和らげる。
頬に添えた指で右の瞼に触れた彼は、優しく撫で下ろしながらイコルネの目を閉じさせた。
「多分成功かな。お疲れさま」
そう言って手を離し、ベンチの隣へ腰を下ろす。
イコルネはどこか満足気な彼を片目で追いつつ、ようやく自由の戻った体をぐったりと背もたれへ預けた。
「しんど……」
「魔力を貰いすぎちゃったかな? ごめんね」
「やっぱあれ、持ってかれてたのか……」
ため息とともにこぼせば、脳を揺さぶられるような気持ち悪さが込み上げてくる。
貧血に似た目眩や耳鳴り、軽い頭痛――それらは、何度か味わったことのある『魔力枯渇』の症状だ。
おそらく口へ入れた指から吸い取ったのだろうが、人から魔力を奪う魔法なんて、見たことも聞いたこともない。
「魔眼の魔法陣は、どうしてもイコ君の魔力で書かないといけなかったからさ。できるだけ負担を減らそうと思って急いだんだけど、ちょっと制御が甘かったかな。粘膜経由は吸収の効率が良い分、量の調節が課題だなぁ」
平謝りをしつつ一人で反省会を始めたトーカは、口調こそいつもと変わらないが、額には薄く汗が浮いていた。
しばらく何気ない雑談を交わしていると、おもむろにトーカが立ち上がる。
「そろそろ馴染んだんじゃないかな」
「……もう、開けていいのか?」
「うん」
イコルネは右瞼をゆっくりと開け、おそるおそる辺りを見回す。
だが、多少眩しさは感じるものの、右目に映る景色は、いつもと何ら変わらない。
「魔力を流してみて。感覚的には、右目だけで僕を注視するみたいな感じかな」
イコルネの前に立ったトーカが、自分の胸元を指さす。
その指へ目を凝らしながら慎重に魔力を流せば、じわりと熱を持った右目の視界が、徐々に暗くなっていく。
やがて、光と入れ替わるように闇の中へ浮かび上がったのは、淡い金と絡みつく赤。
燃えるように揺らめく色が、トーカの体を包み込んでいた。
「どう?」
「見え、てる……」
「どんな風に?」
「金と赤の……炎、みたいな……」
「二色か……まぁ無事に見えてるなら良かった。慣れるまでは視界が不安定だろうから、気をつけてね」
「……あぁ」
左目にはトーカが映り、右目には炎が映る。
全く違う二つの視界は、意識しなければ抜け落ちるように片方が見えなくなってしまう。
「確かに……慣れるのに苦労しそうだな……」
「片目ずつ見ようとしないで、景色を全体で捉えるのがコツかな。卒業まではまだ少しあるし、ゆっくり慣らしていけばいいよ」
そう言って微笑んだトーカが「あ……」と呟き、動きを止める。
「これだけは言っておかないと」
「……?」
「君のその目、魔力を流してる間だけ、本物の魔眼みたいに色が変わっちゃうんだ。こっそり使いたい時は気をつけて」
「……今も、変わってるのか?」
「うん。色味は……薄い赤紫かな。ふふっ、オッドアイみたいでお洒落だね」
からかうように笑ったトーカの顔は、これまでにないほど達成感に満ちていた。
* * *
「総員! 戦闘準備!」
けたたましい声とともに、船の上が騒がしくなる。
帆をたたみ、錨が下ろされた五隻の船は、鏡鎧蜂の巣から数百メートルの位置に停船して、作戦開始の合図を待っていた。
無数に蠢く白銀の光を見つめながら、イコルネは吸い尽くした煙草を海へ投げ捨てる。
こちらに気づいているであろう鏡鎧蜂たちは、警戒を露わにしているものの、巣から出て来る様子はなかった。
「魔法士団! 遠距離魔法、展開!」
指揮官の男が声を張り上げた途端、船上にいくつもの魔力が立ち上り始める。
手の中に燃える球を出現させる者、杖の先に氷の杭を作る者、空中に大きな魔法陣を描く者。
そして、魔道砲に魔力を込める者。
様々な魔法が組み上がる中、イコルネは船の後方へ視線を向ける。
船尾の一段高くなったところに立つのは、緊張感の欠片もないトーカ。
片手をポケットへ入れたまま、ニコニコと物珍しげに周りの魔法を観察していた。
「…………、放てぇッ!!」
声が轟き、五隻の船から同時に魔法が撃ち出される。
だが、真っ先に巣を切り裂いたのは、赤と金が混じる風の刃だった。
その後を追うように、次々と魔法が着弾する。
《火球》が爆ぜ、《氷杭》が刺さり、魔道砲が直撃する。
飛び散る破片がボロボロと海へ落ちていくが、大きな裂け目を作った初撃以外は、表面を削るばかりで大した傷にもなっていない。
攻撃を受け、たちまち殺気立った鏡鎧蜂たちが、巣から溢れ出す。
飛び立った群れは瞬く間に空を覆い尽くし、船や崖上の人間へ狙いを定めると、一斉に襲いかかった。
イコルネは乙女ノ炎舞を手に甲板を駆ける。
人を避けながら器用に振り抜けば、自分の半身ほどもある巨大な蜂が真っ二つになって海へ落ちた。
縦横無尽に飛び回る鏡鎧蜂は、その名の通り、銀と黒の縞模様が鏡のように景色を映す魔物だった。
空と海の色を湛えた堅牢な甲殻が青く光り、透き通る四枚の翅が騒がしく羽音を響かせる。
腹の下には鋭い毒針が伸び、痛覚を何倍も過敏にさせる神経毒は、針先が掠めただけで激痛を引き起こす。
冒険者からすれば、毒持ちの魔物など珍しくもないが、無数の蜂に群がられている船の上は、痛みにのたうち回る騎士や逃げ惑う魔法士たちで騒然としていた。
「こいつら、自分の身も守れねぇのかよッ!」
怒鳴るように吐き捨て、眼前の鏡鎧蜂を斬り伏せる。
怪我を負った者や船内に逃げ込む者はまだしも、立ち尽くしたまま必死で魔法を打ち続ける魔法士など、敵のいい的だ。
そんな奴らを守りつつ、狭い船上で戦わなくてはいけない状況は、とてつもなくやりづらい。
「俺は! 索敵要員のはずなんだけどッ!」
「こんな混戦になっちゃったら、仕方ないよ」
トーカが苦笑を漏らし、鏡鎧蜂を槍で弾き飛ばす。
衝撃で割れた槍身をその場に投げ捨てると、畳み掛けるように《風刃》を叩き込んだ。
「その辺の武器じゃ、まともな攻撃にもならないな」
呆れ声で呟き、彼は足元に落ちていた長剣を拾い上げる。
魔法を織り交ぜて蜂を落とし、戦闘の合間に巣へも攻撃を放つ彼は、騎士団所属の魔法士などよりよほど強かった。
「チッ……キリがない! 騎士団様の作戦はどうなってんだよ!」
「巣も魔物も想定よりずっと硬いから、初撃で削りきれなかった時点で、もう作戦どころじゃないんじゃない?」
「代案くらい考えとけよ……!」
「ほんとにね。毒の回復は治癒士でも時間がかかるし、このまま消耗戦になるのはちょっとまずいかな」
「マジで使えなさすぎんだろッ」
苛立たしげに視線を向けた崖には、まだしっかりと張り付いた巣が、八割以上も形を残していた。




