4話 魔眼
大きな欠伸をして目を瞬かせる。
水平線に登る朝日が目に染み、イコルネは涙の浮いた目を擦った。
王都南の港から、東へ一キロほどの位置にとまった船の上。
イコルネは甲板の手すりに寄りかかるようにして海を眺める。
視界の端に映る断崖絶壁の海岸は、陽の光に照らされて金色に輝いていた。
しかし、その美しい光景に影を落とすように、大きく突出した塊がある。
まるで歪な出来物のように岸壁へへばりついているそれは、高さ百メートルの崖を半分ほども埋める、巨大な鏡鎧蜂の巣だった。
まだ距離があるので正確には分からないが、巣の中に蠢く銀白の魔力は、事前情報の通り千を超えているだろう。
イコルネが海風を避けながら煙草に火をつけた時、後ろから足音が聞こえてくる。
のんびりと振り返れば、風にローブをなびかせるトーカと、彼の後ろへ隠れるように歩くマールがいた。
彼女は癖の目立つ肩丈の栗毛を弄り、挙動不審気味に視線を彷徨わせている。
「索敵は順調?」
明るく声をかけてきたトーカへ、イコルネはため息混じりに答える。
「順調も何も……こんだけ開けた海の上なら、俺じゃなくても見張れる」
「確かに、それはそうだね」
「……なんか用?」
チラチラとこちらの様子を伺っていたマールへ視線を向ける。
あまり顔と名前が一致しない自分が、かろうじて彼女のことを覚えているのは、周りに浮かぶ小さな魔力の光が印象的だったからだ。
召喚士らしいので、おそらく使役している魔物なのだろうが、まるで綿毛のようにふわふわと飛んでいるそれは、時たま頬ずりをするように彼女へ近づき、空気の流れに乗って宙を舞っていた。
「この子が、同じ索敵に配備された者同士、仲良くしたいんだって」
「……そう」
「よ、よろしくお願いします!」
声を裏返らせた彼女は、イコルネの赤紫に染まった右目を見るなり動きを止める。
「あ、あの……失礼でなければ……魔眼について、お聞きしてもよろしいですか……?」
おそるおそる尋ねてくるマールへ、イコルネは煙草を咥えたまま「なに……」と返す。
「じ、実は……私の知り合いにも後天性の魔眼持ちの方がいまして。……その方は、五十代半ばでようやく魔眼になれたらしいのですが……その…………三年と経たずに、片目の視力がなくなってしまったんです……。残った方も、もうほとんど見えないらしくて……イコルネさんは、学生の頃から魔眼を使っていると伺ったので……視力を保つ秘訣など、あるのか、と思いまして……」
マールの声は段々と尻すぼみになっていく。
終いには俯いてしまった彼女を前に、イコルネはため息をついて右目の色を戻した。
「ないよ」
「……え?」
「そんな秘訣とかは、ない」
「え、でも……」
「なに期待してんのか知らないけど、そもそも魔眼は目の負担がデカいんだよ……。普通に考えて、視覚に無理やり別の情報をねじ込んでるんだから、失明するのは当たり前だろ」
キッパリと言い放つイコルネに、マールは困惑の表情を浮かべる。
「い、いや、でも……イコルネさんは、今も見えてますよね……? 動きを見てても、片目の方特有の偏りがありませんし……先日も、Bランクの魔窟潰しをしたと聞きました。なにか、視力の衰えを防ぐ方法があるとしか……!」
「だからないって……」
面倒くさげにこぼしたイコルネは、ちらりとトーカを見てから、マールへと視線を戻す。
「俺も……もう右目は見えてない」
「え?!」
「初めの頃は、負担を減らす工夫とか色々してたけど、結局は人間の目に耐えられるような負荷じゃないから。あんたの知り合いと同じで、三年くらいで見えなくなったよ。……まぁ俺のは、魔眼としてだけならまだ使えるし、魔力が見えてれば大抵のことはなんとかなるから」
そう言うと、イコルネは右耳にかかる髪を掻き上げる。
耳たぶにはめられたピアスに触れると、赤紫色の石を爪の先で軽く弾いた。
キンッと鳴った高い音とともに、濃い赤土色だった右目は鮮やかな赤紫へと変わる。
「目の色は魔道具で隠してるけど、常に魔眼を使った状態で生活してる。流す魔力が多いと結局色が変わるから、あんまり意味はないけどな」
もう一度ピアスを弾けば、瞳の色はじわりと元に戻る。
『幻彩』は簡単に使えて便利な反面、魔力への耐性が低くて、効果が薄れやすいのが欠点だ。
だが、昔から魔眼を使う時にだけ右目の色が変わっていたイコルネとしては、日常生活で無駄に目立ちさえしなければそれで良かった。
「そう、だったんですね……失礼なこと聞いて、すみませんでした……」
マールは狼狽えた様子で深々と頭を下げる。
「別に気にしてない。わざわざ言うほどのことでもないから黙ってるだけだし」
淡々としたイコルネの返事でさらに萎縮した彼女は、すっかり肩を落として項垂れてしまった。
そんな彼女から視線を外し、ふと隣のトーカを見ると、静かにこちらを見つめる彼には、特段驚いた様子がない。
「……僕は、黙ってる方がいい?」
「あー……まぁ、どうせもう勘づかれてるだろうけど……」
頭に浮かんだのは、お節介な友人二人の顔。
素直に打ち開ければ、なんで早く言わないんだと説教が飛んでくるに違いない。
自分のことをあまり話さないイコルネを、彼らは自分以上に気にかけてくれる――だからこそ余計に、無駄な心配をかけたくなかった。
「聞かれたら、俺から話す」
「そっか。まぁイコ君の所作は自然だし、僕らくらいじゃないと、違和感にも気づかないと思うよ」
「……だといいな」
誤魔化すようにヘラヘラと笑えば、トーカはいつもより優しげな笑みを浮かべる。
口下手な自分にとって、必要以上に踏み込まずにいてくれる彼は、数少ない話しやすい友人だった。
* * *
イコルネが魔眼持ちになったのは、王立学院卒業間近のことだ。
年間を通して過ごしやすい気候が続くタルスト王国にも、ひと月ほどは雪が降る。
入学式と卒業式が行われるその時期は、年中ワイシャツ一枚で走り回っている学生たちも、制服のジャケットとセーターを着込み、足早に寮へと帰るのだった。
イコルネは白い息を吐き、中庭のベンチに腰を下ろす。
卒業式を二週間後に控え、ほとんどの学生が長期休暇に入った学院は、すっかり静まり返っていた。
薄く雪の積もる中庭は特に人気がなく、木々のざわめきさえ聞こえない。
まるで雪に音を食われたかのような静寂の中で、イコルネはベンチの背にもたれかかりながら空を仰いだ。
「イコ君が先にいるなんて珍しいね」
突然かけられた声に体を起こす。
視線を巡らせれば、中庭を横切る渡り廊下から、トーカが足音もなくやってくる。
目の前に来ても、かすかにしか気配を感じないあたり、さすがは学年首席だ。
「呼び出したのはそっちだろ」
「そうだったね。……それで、覚悟は決まってる?」
いつもの笑みで尋ねてくる彼に、イコルネは視線を合わせて頷く。
「あぁ、やってくれ」
トーカはゆっくり頷き返すと、ちらりと辺りを見回してから話し出す。
「じゃあ早速始めるけど、先にいくつか注意点だけ伝えておくよ。……今から君に施す魔法は、正確には『魔眼』とは似て非なるものだ。眼の持ち主に《魔力視認》の恩恵を与える魔眼と違って、この魔法は強制的に魔力を視せることになる。目への負担もそれなりにかかるから、制御はできるだけ早く覚えるようにして」
「わかった」
「それと、魔法陣は魔力を込めている間だけ発動するようにしてある。普通の視界とはかなり違うはずだから、武器を使う時は気をつけて」
「その辺は慣れだろ」
「まぁ、それはそうだね。……あ、それから、イコ君の目を僕がいじること、マリちゃんには内緒にしてほしいな。口うるさく言われるのは、君も嫌でしょ」
冗談めかした声色に苦笑しながら了承すると、トーカはベンチの前に片膝をついた。
イコルネはもたれていた背を起こし、少し緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
同じ高さになった視線をぴたりと合わせると、赤みの強い紅茶色の瞳が優しく微笑む。
「緊張しなくていいよ。深呼吸して……僕の目だけを見て、僕の声だけを聞いていて」
ゆっくりと紡がれる言葉が頭に響く。
反響するかのようなその声は、徐々に言葉として認識できなくなっていく。
音が遠のき、視界が狭まる。
昔かけられたことのある《捕縛》とは明らかに違う、抵抗しようという考えすら浮かばなくさせる、強い魔法だ。
トーカは左手でイコルネの頬に触れる。
そのまま親指を滑らせて唇へ当てると、そっと口の中へ押し込んだ。
冷たい指の感触が歯にあたり、そして舌先に触れた瞬間――視界がぐらりと揺れた。
まるで頭の中を直接揺さぶられるような感覚。
目眩と耳鳴りに平衡感覚を奪われ、姿勢を保っていられずに背もたれへ崩れ落ちる。
それでも、トーカの瞳から視線が離せない。
全身の感覚を奪われ、指一本動かせない。
他人に命を握られているこんな状況は、本来なら全力で抗うべきだ。
だが、トーカへすべてを委ねるこの行為に、イコルネは不思議と恐怖を感じなかった。
これが信頼からくるものなのか、魔法に操作されたものなのかは分からない。
仮にそうだとしても、今の自分にはただ彼の瞳を見つめ、魔法が終わるのを待つことしかできなかった。




