3話 兄
「君はもう少し、魔力に敏感になるといいよ」
笑顔のトーカが言う。
先ほどまで相手の命握っていたとは思えない、あっけらかんとした口調に、イコルネは困惑を隠せなかった。
「敵意への反応も悪くないから、魔力さえ察知できるようになれば、さっきの《捕縛》も避けられると思うよ。手っ取り早く手に入れるなら《探知》の魔法を覚えるか……魔眼持ちになるって手もあるね」
淡々と続ける彼の話を、イコルネは思わず遮る。
「な、なぁ! あんた、一体なんなの? 急に脅してきたかと思えば、妹だの仲良くだの。全然意味わかんないんだけど……」
「そう? 妹の友人関係を心配してる、ただの兄心なんだけどな。マリちゃんが初めて喧嘩で負けたって大はしゃぎしてたから、相手はどんな人かと思って、挨拶しにね。君はなかなか見込みがありそうだし、これからも妹の友人として仲良くしてくれたら嬉しいな」
当たり前のように言っているが、妹の友人を魔法で縛り、急所を押さえて脅す兄がどこにいるというのか。
そもそもマリアテールとは、一度手合わせをしただけだ。
ギリギリで勝って以来、妙に懐かれている気はするが、それほど仲良くなった覚えはない。
友達というならむしろ、毎日飽きもせず張り合っているタイラーの方が、よほど彼女の友らしく見える。
「……友達にするなら、俺なんかよりタイラーのがいいと思うけど」
「彼は駄目だよ」
明確な拒絶とともに、トーカの纏う空気が一変する。
こちらを見据える瞳が鋭さを帯び、笑みの消えた表情はゾッとするほど冷たい。
《捕縛》をかけられたわけでもないのに、イコルネはその場から動くことができなかった。
「あの子に傷をつけた奴を見過ごせるほど、僕は心が広くない。妹を害する可能性は、すべて排除するのが僕の信条なんだ」
「排除……?」
「そう。僕的には消しちゃうのが手っ取り早いんだけど……それだと色々面倒なことになるでしょ。残念なことに、マリちゃんは彼を気に入ってるみたいだし、自主的に学院からいなくなってもらうあたりが、今回の落とし所かな」
トーカの淀みない口調は先程と変わらない。
しかし、言葉の端々には取り繕う気すらない敵意が剥き出しで、その身から立ち上る魔力は、イコルネにも分かるほど膨れ上がっていた。
妹に怪我をさせた――たったそれだけの理由で、人ひとりの人生を平然と潰そうとしている。
それが冗談や脅しなどではないのだと、信じさせるだけの能力を、彼は間違いなく持っている。
柔和な外見の裏に潜む、狂気じみた本性。
兄妹愛なんて生易しいものではない、崇拝に似た歪んだ執着が、影を落とす紅茶色の瞳に浮かんでいた。
「そうだ! イコルネ君から、彼にここを辞めるよう言ってくれない? 僕が手を回すよりも、手っ取り早く済みそうだしさ」
妙案とでも言いたげに微笑んだ彼へ、イコルネは奥歯を噛む。
目の前の男は確かに恐ろしい。
だが、こんな理不尽極まりない話に、頷けるはずがなかった。
タイラーはただ、売られた喧嘩を買っただけだ。
そこに無関係の兄がしゃしゃり出てきて、一方的に制裁を加えようなんて、流石に黙っていられない。
イコルネは深く息を吐き、強ばる手足をほぐしながら腰の刀を抜く。
すらりと現れた黒い刀身は、沈みかけの夕日を映して、赤い光の筋がゆっくりと先へ流れた。
その切っ先をトーカの眼前でぴたりと止める。
わずかに目を細めた彼を睨みつけ、イコルネは声の震えを押し殺すように低く言った。
「あんたの身勝手に付き合わされるのは御免だ。シスコンだかなんだか知らないけど、そんなくだらないことに、俺もタイラーも巻き込むな」
「君はともかく、シルベリートは巻き込んでるんじゃないよ。妹に危害を加えた、張本人。遠ざけようとするのは当然でしょ」
「喧嘩を吹っ掛けてきたのは、あんたの妹の方だ。そもそも、本人たちは怪我を承知でやり合ってんのに、今更出てきた部外者にどうこう言われる筋合いはない。傷がつくのが嫌なら、檻にでも入れて監視しとけ」
夕闇へ染まる校舎裏に、張り詰めた静寂が落ちる。
互いに動きを止め、睨み合うこと数十秒。
その沈黙は、唐突に響いた甲高い声によって崩された。
「やっと見つけた! こんなとこで何やってるのよ兄さん!!」
声を張り上げ降ってきた――もとい飛び降りてきたのは、他でもないマリアテール・ロットだった。
イコルネは視界に飛び込んできたものから、慌てて視線を逸らす。
窓のない三階建て校舎の一体どこから降りてきたのか。
他にも気になることは多々あるが、ひとまず、盛大にめくれたスカートを早く整えて欲しい。
華麗な身のこなしでトーカの隣へ着地した彼女は、二人の姿を交互に見ると、イコルネの刀など気にもとめずにトーカへ詰め寄る。
「また私の友達にちょっかいかけてるんでしょ! いつもいつも、兄さんは心配しすぎなのよ! 私、イコもタイラーも良い人だって説明したわよね!? 首の怪我だってただのかすり傷なのに、わざわざ私が喋った人全員の洗い出しまでしたらしいじゃない! そんなことされなくても、友達くらい自分で作れるわ! 心配してくれるのは嬉しいけど、これ以上やったら、兄さんとはもう口聞かないからねッ!!」
ふんっ、とトーカから顔を背けたマリアテールは、その勢いのままこちらへ近づいてくる。
戸惑うイコルネを真っ直ぐ見つめ、目の前で立ち止まると、彼女は素早く手を合わせて頭を下げた。
「イコ、ごめんね! 兄さんが気に障ること言ったんでしょ? 性格も意地も悪いけど、私のことが好き過ぎるただの過保護な人なの! 許してあげて!」
「えぇ……」
イコルネは困惑が口から漏れる。
先程の殺伐とした空気はどこへやら、完全にマリアテールのペースになっている。
ちらりと視線を上げると、既に魔力を散らしたトーカは、困ったように笑いながら妹への愛情を滲ませる、ただの兄の顔に変わっていた。
そんな彼に刃物を向けている自分が馬鹿らしくなり、イコルネはため息混じりに刀を収める。
途端にマリアテールがパッと顔を上げ、再びトーカへ向き直ったかと思えば、鋭い声を上げた。
「ほら、兄さんも謝って!」
「僕はマリちゃんの心配をしてただけなんだけど……まぁでも、イコルネ君に不快な思いをさせちゃったのは事実だし、ごめんね」
悪びれる様子もなく謝る兄に、マリアテールは呆れ顔で首を振る。
「まったく……。こんな所でイコに刀を抜かせるなんて、兄さん一体なにしたのよ……?」
「ちょっとした挨拶だよ」
「ほんとにー?」
「あとは……マリちゃんの首の怪我についても」
「だーかーらー! タイラーとのことは気にしないでってあれほど言ったじゃない! 私もタイラーに怪我させてるんだから、お互い様なの! もう解決してるの! 兄さんがあれこれ首を突っ込むとややこしくなるんだから、大人しくしてて!!」
「分かったよ……。もう何もしないから、そんなに怒らないで、ね?」
彼女の剣幕に押されるように降参したトーカに、イコルネは思わず吹き出す。
ついさっきまで敵意をぶつけ合っていたというのに、彼女にかかれば「ややこしいから大人しくして」の一言で片付いてしまうのだ。
周りがどんな思惑で動いていようと、彼女からすれば――みんな仲良くすればいい、程度のことなのかもしれない。
声を上げて笑うイコルネに、マリアテールが目を瞬かせる。
「イコのそんな顔、初めて見た……! いつもそれくらい笑っていればいいのに!」
「ふっ、くくっ……マリーはすごいよな」
「…………私、なにか馬鹿にされてる?」
「してないよ。ただ、勝てないなって思っただけ」
「私を負かしたのはイコの方でしょ?」
「そういうことじゃないんだけど……」
イコルネはそう言いながら、妹を微笑ましげに眺めるトーカへ視線を移す。
彼が危険な存在で、信用出できない男なのは変わらない。
だが、その行動原理がすべてマリアテールのためだということは、二人のやり取りを見ていて分かった。
そして、妹に言われれば、研ぎ澄ました刃を収められる人間だということも。
強くなりたいイコルネにとって、自分より遥かに優秀な彼との縁は、魔法や戦闘技術を近くで学び取れる絶好のチャンスだ。
――打算も下心もかなりある。
しかし結局のところ、なにをやらせても規格外なこの兄妹のことを、自分は気に入ってしまった。
彼らとなら、なにか面白いことができるのではないかという期待――それが、警戒する本能を上回った。
それだけのこと。
こちらの視線に気づいたトーカへ、イコルネは真っ直ぐに言う。
「トーカ。俺でいいならマリーの友人に加えて。……それから、トーカとも良い友人になれたらって思うよ」




