6話 馬車に揺られて
「お前の腹、うるさ過ぎるだろ」
隣で手綱を握るタイラーが腹を抱えて笑う。
ため息混じりにうなだれたイコルネの腹は、盛大な音を鳴らして空腹を訴えていた。
「昨日の夜から食ってないんだよ……」
「携帯食くらい持ち歩けっての。……ったく」
タイラーがおもむろに腰鞄をまさぐり、紐で括った平たい布包みを引っ張り出す。
慣れた手つきで開くと、中には十センチほどの硬い干し肉が入っていた。
それを一枚掴み、横目で眺めるイコルネの口へ、遠慮なしに突っ込む。
途端に口の中へ広がる塩辛さ。
鼻に抜ける香ばしい香りに、自然と涎が溢れた。
「腹の足しにはならねぇだろうけど、しゃぶっとけ」
そう言って布包みをしまった彼は、相変わらず世話焼きな友人だった。
合成魔獣の幼体を無事討伐し、偶然通りかかったタイラーとともに王都へ馬車を走らせはじめてから、既に四時間。
日もだいぶ傾き、山の峰は赤く染まり始めていた。
御者台の縁にだらしなく寄りかかったイコルネは、もう何もしたくないと言うように足を投げ出す。
「お前、だらしなさに磨きがかかったんじゃねぇの? 昔も大概だったけど、流石に軽食と水くらいは持ってただろ」
「……金欠」
「それにしたってなぁ……。飯サボるんなら、非常食くらい持ち歩けよ」
「……昨日、マリーにも同じこと言われた……」
「お前がズボラ過ぎるからだろ」
「……」
「まぁ、今回のに関しちゃ、わけわかんねえ依頼投げたランティスさんも悪りぃけど」
「そうそう、全部ランティスさんが悪い。俺のせいじゃない」
八つ当たりでしかないその言葉に、タイラーが呆れた笑いを返す。
彼は、不機嫌を隠そうともしないイコルネを気にもとめず、御者台の脇に置かれていた水の皮袋を投げてよこした。
タイラーの干し肉は、普通のものよりかなり硬い。
保存が効くよう、あえてしっかり乾燥させられているらしく、しばらく噛んでいても、なかなかほぐれていかなかった。
イコルネは少量の水を口に含み、さらに咀嚼を重ねる。
軽く燻されているようで、鼻に抜ける香りが良く、噛めば噛むほど肉の旨みと塩味が滲み出てきて、ずっと食べていられた。
「俺、この干し肉が一番好きかも……」
「周りには不評だけどな。硬いし塩辛いし、酒のあてにもならねぇって」
「そう? 長く食べてられるのがいいのに」
「そんなこと言うの、昔から万年金欠だったお前だけだぞ……」
呆れ顔のタイラーだが、どこか満更でもない様子なのは、この干し肉が彼の両親お手製の保存食だからだろう。
互いに家族の話など滅多にしないが、この干し肉をくれる時だけは、少し照れくさそうに「大切に食えよ!」と言っていたのを思い出した。
干し肉を食べ終え、満足気にため息をつくと、隣でタイラーが煙草に火をつける。
「いるか? この前イコも吸ってたろ」
「いや、自分のあるからいい。火だけちょうだい」
「……あ、わりぃ。今のでマッチ最後だわ」
「ついてる火でいいよ」
イコルネは自前の手巻き煙草をくわえ、タイラーの口元を指す。
こちらへ顔を寄せた彼と煙草の先を合わせると、ジジッとかすかな音を立て、二人の煙が夕焼け空に昇っていった。
* * *
――王立学院武学部の進級考査は、九割が実技試験で決まる。
騎士や冒険者を目指す者が多く通うこの学院では、有名な話だ。
十四歳のイコルネは三学年への進級考査を目前に、演習場の端で座り込んでいた。
座学の授業が多いこの時間、人気のない演習場には木々のざわめきだけが流れている。
普段なら心地よい暖かな木漏れ日も、楽しげな小鳥のさえずりも、今のイコルネには、ただただ鬱陶しく感じられた。
腹の音が盛大に響く。
水しか口にできない生活をして、丸三日。
とうに限界を超えた空腹は、イコルネの体力と気力を奪い、木陰にへたり込ませているのだった。
「やばい……まじで力入んない……」
ぼそりと呟いた声は、澄み渡る空に吸い込まれていく。
誰の耳にも届かないはずのそれを拾ったのは、気配を消して近づいてきた人影だった。
「ッ……! なんだ、人かよ」
立木の合間から姿を現したのは、小柄な男子生徒。
歳は自分とそう変わらなさそうだが、ツンツンと立つ黒髪に学生服をだらしなく着込み、強気な濃灰色の瞳は落胆するように細められた。
「……人で、悪かったな」
「あぁいや、悪い。この辺りで飛鼠を見たって聞いたから、探してたんだ」
「……生憎、ここでは見てない」
イコルネが力なく返せば、彼の視線に心配の色が浮かぶ。
「お前、大丈夫か?」
「……」
「顔色ひでぇし、体調悪くて動けねぇなら救護室連れてってやろうか?」
イコルネは足早で近づいてくる彼から目を逸らす。
動けないのは事実だが、その理由が空腹のせいだと説明するのは、あまりにも情けない。
「なぁ、ほんとに大丈夫か?」
返事がないことに余計心配になったのか、彼は少し焦ったようにイコルネの脇へしゃがみこむ。
「……別に、……てる、だけ」
「ん?」
「……腹が……るだけ」
「腹?」
「腹減って、死にそうなんだよっ」
本気で身を案じられる罪悪感に耐えきれず、イコルネは顔を背けたまま白状する。
それを聞くなり男子生徒は吹き出すと、ゲラゲラ笑いながら隣へ座った。
「はははっ! なんだそれ、心配して損したわ!」
「こっちにとっては死活問題……」
「校内で腹減って動けなくなるやつとか……くくっ、初めて見たわ」
「もう三日食ってないんだから、仕方ないだろ……」
「み、えっ!? 三日!?」
「そう……」
「いや、学食行けよ!」
「金欠で、食費がない……」
「ここの学食なら銅貨一枚でも充分食えんだろ」
「それがないから餓死しそうになってんだよ……」
「はぁ? どんな金の使い方したらそんなことになんだよ」
心底呆れた様子の彼へ、イコルネは脇に置いていた二振りの刀を持ち上げてみせる。
黒い鞘に収まったそれは、全く同じ創りの双刀だ。
ずしりとした重みがあり、学生が剣術訓練に使用する模擬刀とは明らかに違う――正真正銘の真剣だ。
「こいつを買ったら、手持ちが尽きた……」
「自前の武器か」
「そう……進級考査は、どうしてもこれが使いたくて……」
「どんなに良い武器持ってても、使い手が死にかけてたら意味ねぇだろ」
そういった彼はポケットをゴソゴソ探ると、折りたたまれた平たい布包みを引っ張り出す。
中から取り出されたのは、濃い茶褐色をした拳大ほどの板。
それを一枚掴むと、彼はこちらに差し出した。
「干し肉。腹の足しにはならねぇかもしんねぇけど、やるよ」
手を伸ばして受け取ると、干し肉はかなり硬い。
まるで木の板のようなそれは、ほのかに燻されたような香りがする。
普段なら初対面の相手から渡された食べ物には多少なりとも警戒心を持つし、不用意に口をつけたりしない。
だが、今の極限状態では思考が鈍りきっていて、イコルネはただ目の前の食べ物を口に入れることしか考えられなかった。
硬い干し肉が舌に触れた瞬間、塩辛さと芳醇な肉の味が口いっぱいに広がる。
乾いていた口内に唾液が溢れ、噛み締めるほどに味が染み出してくる。
夢中で咀嚼していると、隣で同じように干し肉をくわえた男子生徒が、こちらを見て笑った。
「この肉をそんな美味そうに食うヤツ、初めてだわ」
「……?」
「硬いし塩辛いし食いにくいって、人にやっても喜ばれねぇんだよ」
「……普通に美味いけど」
「今のお前なら、何食っても美味いって言うだろ」
「まぁ、否定はしない」
素直過ぎるイコルネの答えに、彼は愉快そうに笑いを重ねる。
「お前、面白いな。気に入った」
「そりゃどーも、俺もこの干し肉は気に入った。……あんた、いつも保存食なんか持ち歩いてんの?」
「いや、今日はたまたまな。親がよく送り付けてくんだよ。丁度今朝届いたから、なんとなく持ってきたけど……飢え死にしそうな奴を助けられたなら、持ってて正解だったわ」
くくっ、と笑った彼は、干し肉の包みを雑にポケットへと押し込む。
イコルネは木の幹から体を起こすと、彼へまっすぐ視線を向けた。
「イコルネ」
「……ん?」
「飢え死にしそうだった奴の名前。これも何かの縁だから、覚えといて」
「あぁ、俺はタイラーだ。よろしくなイコ」
「ふっ、いきなりあだ名かよ」
「こっちのが呼びやすいだろ」
「馴れ馴れしい奴……」と悪態をつきつつも、親しみの込められたその呼び方は、悪い気がしなかった。




