EP 9
「女王の産声」
「逃げ道は、僕が来た道です。途中のワームは片付けてあるから、今なら通れます」
ダダは地図代わりに、床に石で線を引いた。鉱夫たちが、固唾を呑んで覗き込む。
「足の悪い人は、交代で背負ってください。それと——靴に布を巻いて。音を立てないで。ワームは音に集まるから、ここからは逆です。静かな人から、生き残れる」
「お、おう……」
てきぱきと指示を出す十歳児に、大の男たちが頷く。奇妙な光景だったが、もう誰も、この少年を子供だとは思っていなかった。
「よし、じゃあ出発——」
「待て」ツーリが、ダダの肩を掴んだ。「お前の言い方だと、お前は一緒に来ないように聞こえるぞ」
「はい。僕は下に行きます」
ダダは、こともなげに言った。
「下の大きいのが上がってきたら、みんなの足じゃ逃げ切れません。だから、上がってくる前に、僕が下で止めます。挟まれたら終わりなので、二手に分かれるのが一番いいんです」
理屈は、完璧だった。完璧だからこそ、ツーリは肩を掴んだ手に力を込めた。
「……駄目だ。お前、自分が何を言ってるかわかってんのか。あの地響きの主だぞ。子供を一人で死地に置いて、自分たちだけ逃げる親が、大人が、どこの世界にいる」
「ツーリさん」
ダダは、肩の手にそっと自分の手を重ねた。そして、手首の赤いリボンを掲げてみせる。
「僕の依頼は、『ツーリさんをリーフに会わせること』です。だから、ツーリさんが上に帰ってくれないと、僕の仕事が終わらないんです。……それに」
少年は、にこっと笑った。
「僕、逃げ足だけは、本当に速いので」
「…………っ」
ツーリは喉の奥で唸り、ぐしゃぐしゃとダダの寝癖頭を掻き回した。
「……全員で帰るって、俺は言ったんだ。あの言葉にはな、坊主、お前も入ってんだぞ。死ぬんじゃねえ。死んだら、リーフとうちの飯を食う権利を没収するからな」
「! ごはん! 行ってきます!」
「現金な奴だな……!」
七つの足音が布越しに遠ざかるのを聞き届けて、ダダは一人、坑道を下った。
下るほどに、空気が変わっていく。土と鉱石の匂いが薄れ、生臭さと、あの甘い匂いが濃くなる。やがて、掘りたての荒々しい岩肌の新坑に入り——その突き当たりで、壁が、なくなった。
「……うわぁ……」
そこは、坑道ではなかった。
天然の大空洞だった。天井は闇に溶けて見えず、足元には地底湖が黒々と広がっている。壁面には、人の背丈ほどもある半透明の繭が、何十、何百とびっしり貼り付いて、内側でぬるりとした影が脈打っていた。
——巣だ。鉱夫たちは、ワームの産卵巣を、掘り当ててしまったのだ。
そして、空洞の中央。
地底湖から半身をもたげた、山のような影があった。
全長は二十メートルを超えるだろう。灰白色の巨体は鉱石の粒を浴びて鈍く輝き、頭部には王冠のような外殻が隆起している。今は、眠っている。巨大な寝息のたびに、湖面に波紋が広がった。
女王。この巣の、すべての母。
(……大きい……。でも、寝てる。寝てるなら、戦わなくて済むかも——)
そう思った、矢先だった。
「——驚いたな。本当に、ここまで来るとは」
声は、空洞の中ほど、岩棚の上から降ってきた。
頑丈なブーツ。旅装の上に灰色の外套。顔の下半分を布で覆った長身の男が、片手に提げた銀の香炉から、とろりとした甘い煙を、眠る女王へと扇ぎ送っていた。
「オーク三号を潰したのは、お前か。小僧。……噂のEランクってのは、お前のことらしいな」
「……あなたが」
ダダの声から、温度が消えた。
「あなたが、オークを壊した人ですね。ワームたちを呼んで、暴れさせて……みんなを、坑道に閉じ込めた人」
「壊した、ねえ」男は布の下で、くつくつと笑った。「ひどい言い草だ。俺はただ、眠ってる力を起こしてやってるだけさ。この『狂走香』はな、魔物の頭ん中の、怒りの蓋を外してやる薬なんだよ。あとは魔物が、魔物らしく暴れるだけ。なあ、それの何が悪い?」
「悪いです」
ダダは、即答した。
「あのオークは、死ぬ時、苦しそうでした。あなたが蓋を外した怒りは、あのオークのものじゃなかった。……命を道具にする人を、僕は、許しません」
「……はっ。説教か、ガキが」
男は香炉を岩棚に置くと、指笛を、短く三度、吹いた。
空洞の壁という壁から、ずるり、ずるり、と巨体が這い出してくる。赤黒く濁った眼のワームが、五、六、七——十を超えて、ダダを取り囲んだ。
「俺はな、仕事の邪魔と、顔を見られるのが、何より嫌いなんだ。——食わせろ」
「ジャアアアアアッッ!!」
壊されたワームたちが、一斉に襲いかかった。
ダダは跳んだ。一匹目の牙を掻い潜り、二匹目の巨体を足場に跳ね、高周波を浴びせて三匹を悶絶させ、岩を掴んで四匹目の頭部を砕く。それでも、数が多い。捌いても捌いても、濁った眼が、闇の中から湧いてくる。
(きりがない……! あの香炉を、止めないと……!)
岩棚の男へ向かおうとした、その刹那。
男の手が、香炉の蓋を、全開にした。
「そら——起きろ、女王陛下」
とろりとした甘い煙が、ひときわ濃く、眠る巨体の鼻先へと流れ込み——
世界が、裏返った。
「ジャアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
それは、産声だった。狂気に堕ちる瞬間の、産声だった。
二十メートルの巨体が地底湖から躍り上がり、衝撃波が湖水を壁まで吹き飛ばす。天井から岩塊が雨のように降り、ダダが入ってきた新坑の入り口が、轟音とともに崩れて塞がった。
退路が、消えた。
降りしきる岩礫の中、ダダは顔を上げた。闇の天井に届くほどもたげられた巨体の先で、王冠の外殻の下、赤黒く濁りきった巨大な複眼が——小さな小さな獲物を、見下ろしていた。
「あはははっ! 精々楽しませろよ、Eランク!」
男の笑い声が、崩落の続く闇のどこかへ、遠ざかっていく。
ダダは、息をひとつ、吐いた。
手首の赤いリボンを、ぎゅっと握り込む。お腹の奥で——あの「何か」が、応えるように、どくん、と脈打った。
「……ごめんね、女王さま。眠ってただけなのにね」
少年は、低く身構えた。
「——すぐ、楽にしてあげる」
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