EP 10
「咆哮と王冠」
最初の一撃は、音より速かった。
「——っ!」
ダダが横っ跳びに転がった半瞬後、彼が立っていた岩盤が、消えた。叩きつけられた女王の頭部が大地を割り、衝撃で地底湖が壁まで波を打つ。
(重い、速い、大きい——全部、今までで一番だ……!)
ダダは転がりながら息を吸い、喉を絞った。
「キィイイイイイイッッ——!!」
ワーム殺しの高周波。配下たちを悶絶させた必殺の一声は——
女王の巨体を、わずかに、震わせただけだった。
「ジャアアアアッッ!!」
(効いてない!? ……違う、あの王冠だ!)
頭部を覆う王冠状の外殻。あれが鎧であると同時に、感覚器官の覆いにもなっている。音は届いている。だが、致命にならない。
なら、と。ダダは大きく息を吸い込んだ。お腹の底から、あの熱を引き上げる。
「グオオオオオオオオオオオンンッッ!!!」
ドラゴンの咆哮が、大空洞を満たした。壁の繭という繭が震え、配下のワームたちが残らず床に伏せる。命あるものすべてが竦む、空の王の声——
女王は、止まらなかった。
「……っ!?」
巨体が真上から降ってくる。ダダは紙一重で跳び退き、岩柱の陰に転がり込んだ。背中を冷たい汗が伝う。
(怖がらない……。そうか——怖さの蓋も、外されてるんだ)
狂走香は、怒りの蓋を外す薬だと、あの男は言った。外れたのは怒りだけじゃない。恐怖も、痛みも、母としての本能さえも。あの巨体の中で今も生きているのは、純粋な、出口のない狂乱だけだ。
ダダの二枚の切り札——高周波と咆哮は、立て続けに破られた。
「ジャアアアアアアッッ!!」
岩柱ごと、薙ぎ払われた。砕けた岩の驟雨を掻い潜り、ダダは走る。考えろ。考えろ。武器は何だ。僕に残ってるものは、何だ。
視界の端で、黒い水面が揺れた。
地底湖。
(——音が効かないんじゃない。空気の音じゃ、足りないんだ)
ワームは振動の生き物だ。そして振動は、空気より、水の中をずっと強く、ずっと速く走る。女王の巨体は今、半ば、湖に浸かっている。
それに、もうひとつ。ダダは天井を見上げた。先刻の崩落で、大空洞の天井には巨大な亀裂が走り、家ほどもある岩塊が、岩柱一本に支えられて、辛うじてぶら下がっている。
罠の基本は、相手に罠を踏ませること。
レッドボアの時と、何も変わらない。大きさが、ちょっと違うだけだ。
「——おーい! こっちだよー!!」
少年は、わざと足音を立てて駆け出した。
「ジャアアアッ!!」
狂乱の巨体が、振動を追って突進する。一度——ダダは岩柱の手前で直角に跳び、女王の頭部が柱に激突した。亀裂が、軋む。二度——同じ手は、巨体の質量で柱を半ばへし折った。天井の岩塊が、ぎちぎちと不吉な音で鳴く。
(あと、一回……!)
三度目の誘いをかけた、その瞬間だった。
女王の尾が、死角から来た。
「がっ……!?」
視界が回転した。薙ぎ払われた小さな体が宙を舞い、黒い水面に、深々と叩き込まれる。
冷たい。暗い。肺の空気が、衝撃で半分こぼれた。沈んでいく。湖面の遥か上で、巨大な影が、止めを刺すべく鎌首をもたげるのが、歪んで見えた。
(……息が……でも——)
——ここは、水の中だ。
(届くなら。空気の音じゃ足りないなら。ここから、全部、込めて——!)
お腹の奥で、何かが、どくんと脈打った。今までで、一番強く。熱が、喉を駆け上がる。ダダは残った肺の空気を全部、その一声に変えた。
「グオオオオオオオオオオオオオオンンンンッッッ!!!!」
水が、爆ぜた。
咆哮は水を伝い、湖全体をひとつの巨大な太鼓に変えて、女王の巨体を直接殴りつけた。空気越しには届かなかった振動が、王冠の下の感覚器官に、骨に、神経に、真正面から雪崩れ込む。
「ジャ……ジャアアア……ッ!?」
二十メートルの巨体が、生まれて初めての感覚に、のけ反って痙攣した。
水面を割って、少年が飛び出す。濡れた寝癖を振り払い、岩を蹴り、最後の誘いを叫ぶ。
「こっちだ——!!」
痙攣する感覚の中で、女王は本能だけで振動を追った。突進。三度目。半ば折れた岩柱に、巨体が、真正面から——
激突した。
柱が、爆ぜ折れた。
天井の岩塊が——家よりも大きな岩の塊が、支えを失って、落ちる。
落下点には、振動を見失い、もがく王冠。
ズウウウウウンンン……ッッ!!!
大空洞そのものが跳ねるような轟音。土煙が壁まで走り、湖面が白く沸き立った。
煙の中、ダダは駆けた。岩塊の直撃を受けた王冠の外殻は、蜘蛛の巣状に砕け、その亀裂の奥に、守られていた急所が覗いている。
少年は、跳んだ。
「ごめんね。——いただきます」
引き絞った右肘が、亀裂の中心へ、流星のように落ちた。
長い、長い断末魔が、ゆっくりと細くなって、消えた。
巨体が湖のほとりに横たわり、もう、動かない。
「……はぁっ……はぁ……っ……」
ダダはその頭部の上に膝をつき、肩で息をしていた。全身が痛い。濡れた服が重い。それでも彼は、最後に見たものから、目を離せずにいた。
絶命の間際——巨大な複眼から、赤黒い濁りが、潮のように引いていったのだ。
澄んだ眼が、最後に見たのは、ダダではなかった。壁面にびっしりと並ぶ、半透明の繭たち。自分の、子供たち。
「…………」
ダダは、濡れた手のひらで、自分の顔をごしごしと拭った。拭っても拭っても、何かが目から溢れてくるのは、湖の水のせいだけでは、なかった。
「……大丈夫だよ。君の子供たちは——壊させない。あんな匂いで、誰にも。絶対に」
それは、繭たちの行く末を約束する言葉ではなかったかもしれない。それでも、母の眼が最後に案じたものへの、少年なりの、精一杯の手向けだった。
立ち上がろうとして、ふと、気づく。
砕けた王冠の亀裂の奥で、何かが、光っていた。
拳ふたつ分はある、深い藍色の結晶。女王の魔石だ。坑道の魔導灯を全部集めたより強い光が、結晶の奥で、とろとろと渦巻いている。
「…………」
ダダは、それをじっと見つめた。
ぐうううぅぅぅ〜〜〜……と。
戦いの間ずっと黙っていたお腹が、盛大に、鳴いた。
「……っ。……だめだよ、僕」
少年はぺちんと自分の頬を叩くと、魔石を丁寧に剥がし取り、討伐の証として懐の奥に、しっかりとしまい込んだ。……しまい込んでから、もう一度だけ、懐の上からそっと撫でた。
「……みんなが、待ってるんだから」
女王が最後の突進で穿った岩盤の亀裂から、ひとすじ、冷たい風が流れ込んでいた。風は、上へと続いている。
遠い頭上で、朝が、来ようとしていた。
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