EP 8
「地の底の合図」
深部へ続くブーツの足跡を、ダダは数秒だけ見つめた。
あの甘い匂いの主。魔物を壊して回る「誰か」。今なら、追える。
「……でも、順番が違う」
少年は首を振ると、足跡に背を向けた。
カン、カン……と岩の彼方で鳴り続ける合図。あの音の主たちは、水も光もない地の底で、三日間、生きるために岩を叩き続けている。謎の正体より、命が先だ。迷う余地なんて、最初からなかった。
ダダは耳を澄まし、音の反響から岩盤の厚みと通路の繋がりを読み取ると、迷路のような坑道を駆け下り始めた。
途中、二度、ワームと行き合った。一度目は高周波と岩で仕留めた。二度目は——仕留めなかった。横穴の奥で眠っているだけの個体だったからだ。足音を殺し、風下を選んで、静かに通り過ぎる。
(戦わなくていい相手とは、戦わない。そのほうが速いし……それに)
眠るワームの寝息は、穏やかだった。壊されていない、ただの魔物の寝息。
(……壊されてるのと、壊されてないのが、いる。全部が変になってるわけじゃ、ないんだ)
頭の隅にそれを刻んで、ダダはさらに下層へと潜った。
合図の音は、少しずつ、確かに近づいていた。
——そして、もうひとつ。別の音も。
ずる……ずるり……ずるり……。
岩を擦る、湿った摩擦音。一つじゃない。三つ、四つ……それ以上。音の出どころは、合図の鳴る方向と、完全に重なっていた。
(……そうか。そういうこと、か……!)
ダダの背筋が冷えた。
ワームは、音と振動を頼りに獲物を探す魔物だ。地の底で規則正しく鳴り続ける岩叩きの音は、生存者たちの居場所を知らせる希望の合図であると同時に——ワームを呼び寄せる、晩餐の鐘でもあったのだ。
救助隊が半数しか帰れなかった理由も、これだ。生存者に近づこうとすれば、必ず、群れのど真ん中に踏み込むことになる。
「……急がなきゃ……!」
ダダは速度を上げた。
最下層に近い貯蔵庫跡。崩した岩で入り口を塞いだ暗がりの中に、七つの命があった。
「……水、最後の一杯だ。回せ。若いもんからだぞ」
がっしりした体格の男が、革袋を隣へ渡した。すすと土に汚れた顔。三日分の疲労を刻んだ目元。それでも、その声だけは、岩のように揺らがなかった。
「ツーリさん……もう、いいですよ……」足を布で固く縛った若い鉱夫が、掠れた声で言った。「俺なんかを助けに戻ったせいで、ツーリさんまで……」
「馬鹿言うんじゃねえ」ツーリは笑った。「お前を置いて帰ってみろ。うちの娘に、一生口きいてもらえなくなる。あの子はな、そういう子に育てちまったんだ。——おら、手ぇ止めるな。叩け」
カン、カン……と、若い鉱夫がつるはしの頭で岩を打つ。もう何百回目かもわからない合図。返事など、一度もなかった合図。
ずる……ずるり……。
岩壁の向こうで、湿った音が、また増えた。バリケードの隙間から覗けば、坑道の闇に、ぬらぬらと光る巨体がいくつも蠢いているのが見える。岩壁はもう、何ヶ所も削られて薄くなっていた。
「……ツーリさん。次に来たら、もう……」
「叩け」ツーリは、それでも言った。「音を止めた瞬間、俺たちは『いなくなる』んだ。誰にも見つけてもらえなくなる。望みがある限り、叩け」
カン、カン——
その音に。
「キィイイイイイイイイッッ——!!」
岩壁の向こうから、坑道全体を貫くような高周波が、突き抜けた。
「な、なんだ……!?」
バリケードの外で、ワームたちが一斉にのたうち始める。ジャアアッ、という威嚇音、岩に巨体がぶつかる轟音、何かが砕ける鈍い音——嵐のような音の渦が、たっぷり数十秒続いて。
ふつり、と。
静寂が、落ちた。
七人の鉱夫が、息を呑んでバリケードを見つめる。やがて、岩の向こうから——こん、こん、と。遠慮がちなノックの音がした。
「すみませーん。生きてる人、いますかー?」
「「「…………」」」
それは、あまりにも場違いに呑気な、子供の声だった。
「お、おい……幻聴か……? 俺はもう駄目かもしれん……」
「い、いや、俺にも聞こえた……」
ツーリがバリケードに飛びつき、隙間から外を覗いた。砕け散ったワームの骸の山。その真ん中に、盛大な寝癖の小さな少年が、ぽつんと立って手を振っていた。
「ぼ、坊主……お前、一体……いや、それより、他の救助隊は!? 大人たちはどこだ!?」
「僕だけです! 今からそこ開けるので、下がっててくださいね!」
「僕だけ、って——お、おい!?」
ごり、ごり、と。バリケードの岩が、外側から信じられない速さでどかされていく。一抱えもある岩が、まるで漬物石みたいに次々と退けられ、ものの数分で、人ひとり通れる隙間が開いた。
闇に慣れた七対の目が、隙間から差し込む松明の光と、小さな救助者を見た。
「初めまして! 冒険者クラン『クレッセントワルツ』のダダです! 助けに来ました!」
誰も、声が出なかった。三日ぶりの外気と、三日ぶりの希望が、喉を詰まらせていた。
ツーリは、ふらりと一歩、少年に近づいた。何かを言おうとして——その目が、少年の手首で、止まった。
二重に巻かれて、固く結ばれた、すこし古びた、赤いリボン。
「……それ、は……」
ツーリの声が、震えた。
忘れるはずがない。安物の、どこにでもある赤いリボン。けれど世界にひとつしかないそれを、妻が娘の髪に初めて結んでやった日のことを、彼は昨日のことのように覚えている。
「リーフから預かってきました」ダダは手首を掲げて、にこっと笑った。「『パパに見せて。私が来たって、わかるから』って。——リーフは今、坑道の入り口で待ってます。あなたが帰るのを」
「……あの馬鹿……アルトゥンから、ここまで……っ」
岩のように揺らがなかった男の顔が、ぐしゃりと歪んだ。ツーリは両手で顔を覆い、肩を震わせて、三日間こらえ続けたものを、全部こぼした。
「……っ、帰る……帰るぞ、お前ら……! 全員でだ……!」
「「「おおっ……!」」」
涙声の喚声が、貯蔵庫に満ちた。
——その喚声を、掻き消すように。
ゴ……ゴゴ……ゴゴゴゴ……
地の底が、唸った。
足元の岩盤が細かく震え、天井から砂礫がぱらぱらと落ちる。鉱夫たちの顔が、一瞬で凍りついた。今までの、ワームが這う振動とは違う。もっと深く、もっと重く——もっと、大きい。
ダダが、床に手のひらをつけた。瞳が、すっと細くなる。
「……下から、来る」
「し、下って……最深部は、この前掘り抜いたばかりの新坑しかねえぞ……!」
「うん。……すごく、大きいのが。それと——」
ダダは顔を上げた。坑道の奥から流れてくる風に、あの甘い匂いが、今までで一番、濃く混じっていた。
「——呼んでる誰かも、一緒に」
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