EP 6
「疾風、山を越える」
朝の光が森に差し込む頃、リーフは焚き火の残り香の中で目を覚ました。
「……あれ、ダダさん……?」
少年はもう起きていて、川辺で顔を洗っていた。昨夜あれだけの死闘を演じたとは思えない、いつも通りの寝癖と、いつも通りの笑顔。
「おはよう、リーフ。よく眠れた?」
「は、はい。……って、ダダさん、腕! 昨日あんなに腫れてたのに……!」
慌てて駆け寄り、両腕を取って確かめる。オークの一撃をガードした両腕は、昨夜は赤黒く腫れ上がっていたはずだ。それが今は、薄い痣を残すだけになっている。
「うん、寝たら治るよ?」
「治りませんよ普通……!」
「そうなの?」
きょとんとする少年に、リーフは何かを言いかけて、やめた。この人の「普通」を測るのは、もう諦めたほうがいい気がする。
焚き火の跡から少し離れた木の根元に、こんもりと盛られた土があった。夜明け前に、ダダがオークを埋めたのだ。土の上には、小さな白い花がひとつ、供えられていた。リーフは何も言わず、ただその土に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「——よし。じゃあ、出発しよう」
ダダは荷物を背負い直すと、地図を広げた。ダイヤが持たせてくれたものだ。
「この調子で歩くと、デュフランは明日の夕方。でも……あんまり、ゆっくりしたくないんだ」
「……昨日の、『誰か』が、いるかもしれないから?」
「うん。それに、リーフのパパも心配だしね。だから——」
ダダはくるりとリーフに背を向けると、その場にしゃがみ込んだ。
「僕がリーフをおんぶして走る。それで、今日の昼にはデュフランに着く」
「……は、はい? え? 昼?」
リーフは地図を見た。山がひとつ、丸ごと描いてある。
「あの、ダダさん。山、ありますよ。大人の足で丸一日の」
「うん、だから走るんだよ。僕、逃げ足だけは本当に自信があるんだ。小さい頃から、怒った魔物に追いかけられて、毎日逃げ回ってたから」
「その毎日もどうかと思います……」
それでも、背中を向けてしゃがんだまま動かない少年に、リーフはおずおずと身を預けた。細い肩。小さな背中。本当に大丈夫なんだろうか——
「しっかり掴まっててね。舌、噛まないように」
「は、はい——」
「よし、いっくよーーっ!」
世界が、爆発した。
「——っっきゃあああああああああ!?!?」
景色が溶けた。木々が緑の線になって後ろへ吹っ飛んでいく。風が悲鳴を上げて頬を叩き、リーフは反射的に目をつぶってダダの首にしがみついた。
(は、はやい、はやいはやいはやい!! 馬より! 馬よりはやいぃぃ!!)
足元は山道だ。木の根が絡まり、岩が転がり、沢が横切る悪路。なのに、揺れない。ダダの足は岩を踏み、根を蹴り、倒木を飛び越え、まるで地面のほうが彼に道を譲っているかのように、ひたすら滑らかに山を駆け上がっていく。
どれほど走った頃だろう。
「リーフ、目、開けてごらん」
恐る恐る、まぶたを開く。
「……わ、ぁ……」
尾根だった。眼下に、朝霧の海が広がっていた。雲を突き抜けた峰々が、金色の朝日を浴びて連なっている。風が霧を割り、その切れ間から、遥か下界の森と街道が覗いた。
「すごい……鳥さんって、いつもこんな景色を見てるんですね……」
「ね。僕、この景色が好きなんだ。……あ、ほら、あれ」
ダダが顎で示した先——尾根の向こう、山裾の谷あいに、城壁に囲まれた街が小さく見えた。鉱山の街らしく、岩肌に張り付くように建物が連なり、いくつもの煙突が煙を上げて——
——いや。
「……ダダさん。煙、出てなくないですか……?」
リーフの声が、不安に揺れた。鉱山街の煙突は、精錬の火で年中煙を吐いているものだと、父から聞いていた。それが今、街の煙突は、どれもぴたりと沈黙している。
「……うん。それに——風向きが変わったら、わかると思うけど」
ダダの声から、笑みが消えていた。
「街のほうから、嫌な匂いがする」
デュフランの城門は、固く閉ざされていた。
「すみませーん! 開けてくださーい!」
壁上の見張り台から、槍を持った衛兵が身を乗り出した。子供二人の姿を認めて、ぽかんと口を開ける。
「……お前ら、どこから来た? 行商の馬車なんか、今日は通ってないぞ」
「アルトゥンからです! 走ってきました!」
「アルトゥンから……は? 走って? 子供二人で、あの山をか?」
「はい!」
「………………」
衛兵は槍を取り落としそうになりながら、隣の同僚と顔を見合わせた。嘘だと笑い飛ばすには、二人の靴は山の土に汚れすぎていたし、何より、こんな時に冗談を言いに来る馬鹿はいない。
「……まあいい、入れ。だが言っとくぞ、坊主たち。今、この街はそれどころじゃねえ」
軋む音を立てて、門が薄く開いた。滑り込むように中へ入った二人を迎えたのは、山あいの街の、異様な静けさだった。
市場に人気がない。店は半分が閉まっている。道行く人々は皆、不安げな顔で同じ方向——街の奥、鉱山の入り口のほうを気にしていた。
リーフが、衛兵の袖にすがりついた。
「あの! パパは……ツーリは、この街にいますか!? 鉱山で働いてるんです!」
「ツーリ……って、お前、もしかしてツーリさんとこの娘っ子か!?」
衛兵の顔色が、変わった。気まずげに視線が泳ぎ、それからゆっくりと、鉱山のほうへ向けられる。
「……三日前だ。坑道の奥から、魔物が湧いた。デカいワームの群れだ。逃げ遅れた鉱夫が、奥に取り残された。……ツーリさんはな、一度は外に出たんだ。出たんだが——」
衛兵は、絞り出すように続けた。
「『中に、まだ若いのが残ってる』っつって……手練れの鉱夫を三人連れて、自分から戻っていった。それっきり、二日——誰も、出てこねえ」
「……っ!」
リーフの顔から、血の気が引いた。次の瞬間、彼女は弾かれたように駆け出していた。街の奥へ。坑道へ。
「リーフ!」
ダダが追おうとした、その時。山から吹き下ろした風が、坑道の方角から、ひとすじの匂いを運んできた。
土と、鉱石と、魔物の体液。そして、その奥に——
甘くて、焦げたような、あの匂い。
「——やっぱり、いるんだ」
ダダの瞳が、すっと細くなった。
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