EP 5
「咆哮、再び」
棍棒が、夜空を塞いだ。
(……動け……動けよ……っ!)
ダダは霞む視界の中で、自分の体に叫んだ。指先が痺れている。膝が言うことを聞かない。あの一撃は、それほどに重かった。
振り上げられた丸太の影が、月を呑み込む。
その時だった。
「こっち! こっちを見なさい、化け物っ!!」
ばさばさっ、と枝葉を鳴らして、小さな影が木から飛び降りた。リーフだった。彼女は震える手で枯れ枝を拾うと、力いっぱいオークに投げつけた。枝は分厚い肩に当たって、ぽとりと落ちた。
それだけで、十分だった。
赤黒く濁った眼が、ぎょろりと動く。倒れた獲物から——立っている獲物へ。より小さく、より柔らかい肉へ。
「だ、め……だ……」
ダダの喉から、掠れた声が漏れた。
オークの巨体が、リーフへ向き直る。泡混じりの息を吐きながら、一歩。地面が揺れる。リーフは腰が抜けたのか、その場にへたり込んだまま動けない。二歩。棍棒が、今度は彼女の上で振りかぶられる。
(守るって、言ったのに)
(連れていくって、約束したのに)
(母上——僕は——)
その瞬間。
お腹の奥で、何かが、どくん、と脈打った。
自分の心臓とは違う場所で。自分の鼓動とは違う律動で。熱の塊が腹の底から喉へ駆け上がり、ダダは考えるより先に、ありったけの空気を吸い込んでいた。
「グオオオオオオオオオオオンンンッッ!!!!」
それは、ウルギンを散らした時の咆哮とは別物だった。
森が、鳴った。梢が一斉にざわめき、夜鳥が飛び立ち、川面が震えた。大気そのものが牙を剥いたような、空の王者の——本物の、怒りの声。
オークの巨体が、びくりと硬直した。
振り上げた棍棒が、空中で止まる。濁りきった赤黒い眼の奥で、何かが必死に警鐘を鳴らしていた。壊された理性のさらに下、命そのものに刻まれた本能が、叫んでいる。
——逃げろ。喰われる。
「ヴ……ヴゥ……ッ」
巨体が、一歩、後ずさった。
その一歩を、ダダは見逃さなかった。
痺れる足を、無理やり地面に突き立てる。激痛は無視した。呼吸を一つ。視線は一点——オークの、分厚い筋肉に守られていない唯一の急所。
顎の、先端。
「うりゃああああああっっ!!」
少年の体が、矢になった。
地を蹴り、跳び、宙でさらに身を捻って加速を乗せ——渾身の膝が、巨人の顎を真下から打ち抜いた。
ゴッッッ!!!
骨の軋む音が、夜に響いた。
三メートルの巨体が、ぐらりと傾ぐ。切り倒された大樹のように、ゆっくりと、仰向けに——地響きを立てて、倒れた。土煙が月明かりに白く舞う。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……っ」
ダダは肩で息をしながら、立っていた。両腕は痺れたまま、口の中は血の味のまま。それでも、立っていた。
「ダダさん……っ!」
へたり込んでいたリーフが、転がるように駆け寄ってくる。ダダは彼女の無事を確かめて、ようやく、ふにゃりと笑った。
「……リーフ、木の上にいてって、言ったのに」
「ご、ごめんなさい……でも、でもっ……ダダさんが、潰されちゃうって……っ」
「うん。……ありがとう。君のおかげで、間に合った」
わんわん泣き出したリーフの頭を、痺れの残る手でぽんぽんと撫でる。それから、ダダはゆっくりとオークの骸へ向き直った。
——そして、気づいた。
「……眼の色が、戻ってる」
倒れたオークの眼から、あの赤黒い濁りが、潮が引くように消えていた。残されたのは、ごく普通の、琥珀色の獣の眼。見開かれたまま動かないその眼は、なぜだろう、苦しみから解放されたように見えた。
ダダは骸のそばに膝をつき、鼻を近づけた。獣脂、土、血。その奥に——あった。あの匂いだ。
甘くて、焦げたような匂い。それと、もうひとつ。
「……鉄と、油。これ……人間の匂いだ」
匂いは、オークの鼻のまわりで一番濃かった。誰かが、このオークの鼻先で、何かを焚いた。そういう濃さだった。
「ダダさん……? どうしたんですか……?」
「……このオーク、壊されてたんだ。たぶん、変な匂いのするもので、誰かに」
リーフには、まだ意味がわからないようだった。ダダ自身、半分もわかっていない。ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
魔物を壊して回っている誰かが、この山に、いる。
ダダは琥珀色に戻った眼を、そっと手のひらで閉じてやった。
「……ごめんね。君も、巻き込まれただけだったのかもしれないのに」
それから立ち上がり、デュフランへ続く山の稜線を見上げた。リーフのパパが待つ街は、あの向こうだ。そして——嫌な予感がするのも、同じ方角だった。
同じ夜。山の、別の斜面。
岩陰に焚かれた小さな香炉が、とろりとした甘い煙を吐いていた。
「……三号が、落ちたか」
香炉を覗き込んでいた男が、舌打ちをひとつ。武骨な指が、懐から取り出した魔導通信石を撫でる。石の向こうから、押し殺した声が応じた。
『構わん。オークなど捨て駒だ。それより——兎はまだ見つからんのか』
「街道筋には網を張ってある。月が満ちるまでには、必ず」
『急げ。あのお方は、気の長い方ではない』
通信が切れる。男は香炉の火を消すと、闇よりも暗い笑みを浮かべて、立ち上がった。
「さて……月の兎狩りと、いこうか」




