EP 4
「夜の森の二重奏」
リーフが大木の枝に身を潜めるのを見届けて、ダダは焚き火のそばに静かに戻った。
逃げる、という選択肢は最初に捨てていた。風下に川、背後は崖。リーフを背負って夜の森を走れば、嗅覚で追うゴブリンを引き剥がすのは難しい。なら——光のあるここで、迎え撃つ。
がさり。がさがさ。
闇の奥で下生えが鳴り、やがて、耳障りな声が風に乗って届いた。
「ギャッ、ギギ!(肉だ! 肉の匂いだ!)」
「ギーッ、ギャギャッ!(急げ、急げ! 巣に戻る前に食う!)」
ダダの眉が、ぴくりと動いた。
(……巣に戻る前に?)
ゴブリンは臆病で、獲物は巣に持ち帰って食うのが習いだ。それを、外で。まるで——巣に近寄りたくないみたいに。
「ギギ……ギャ……(親分、今夜も変だった……怖い……)」
(親分が、変……?)
聞き取れたのは、そこまでだった。焚き火の明かりの輪に、三つの影が踏み込んでくる。緑色の肌、粗末な棍棒、錆びた短剣。三匹のゴブリンは、串に残った猪肉に目の色を変え——その一瞬の無防備を、ダダは見逃さなかった。
最初の一匹は、音もなく背後に回り込んだ少年の存在に、最期まで気づかなかった。頭上から落ちてきた両の踵が頭蓋を打ち、声もなく崩れ落ちる。
「ギャッ!? ギャギャーッ!!(て、敵だ!!)」
二匹目が棍棒を振りかぶって突っ込んでくる。ダダは半身でかわしざま、焚き火から燃えさかる薪を引き抜き、その顔面に突きつけた。悲鳴。火の粉。怯んで大きく開いた胴に、薪を捨てた拳が一直線に突き刺さる。
三匹目は、もう逃げ出していた。
「……ごめん。仲間を呼ばれると、困るんだ」
ダダは足元の石を拾い、闇に消えかける小さな背中へ、ひゅっと投げた。乾いた音がひとつ。それきり、森は静かになった。
少年は焚き火のそばに立ち尽くしたまま、しばらく、転がった三つの骸を見下ろしていた。その横顔には、勝利の高揚はかけらもない。あるのは、薄い悲しみだけだった。
「……守るためだから。ごめんね」
小さく呟いて、骸を森の際まで引きずっていく。木の上から降りてきたリーフが、おそるおそる声をかけた。
「ダダさん……だいじょうぶ、ですか?」
「うん。もう大丈夫——」
だよ、と続くはずだった言葉が、途切れた。
ゴ……ゴゴ……。
地面が、震えていた。
カップに残った薬草茶の表面に、細かな波紋が走る。リーフが「え」と声を漏らす。震えは一定の律動を刻んでいた。地鳴りじゃない。これは——足音だ。
「リーフ、木の上! 今すぐ!」
これまで聞いたことのない鋭さの声に、リーフは弾かれたように木へ取りついた。
ダダは焚き火を背に、闇を睨んだ。匂いが来る。獣脂と、土と、怒り。ゴブリンとは桁の違う、濃い、強い、大きい匂い。そして、その奥に——
(……ん? なんだろう、この匂い。甘い……? 焦げてるような、甘いような……魔物の匂いじゃ、ない)
考える時間は、与えられなかった。
メキメキメキッ——!!
若木を数本まとめて薙ぎ倒しながら、それは焚き火の明かりの中に現れた。
オークだった。だが、ダダの知るオークではなかった。
体長は優に三メートル。岩の塊のような筋肉が、はちきれんばかりに盛り上がっている。群れの長だけが持つ威格。それだけなら、まだいい。問題は、その眼だった。
赤黒く濁り、焦点が滲み、口の端からは泡混じりの涎がぼたぼたと垂れている。怒りというより——壊れている。
オークの濁った眼が、森の際に転がるゴブリンの骸を捉えた。
「……ヴ……ヴゥ……」
喉の奥から、低い音が漏れる。配下を殺された長の怒り。それが、壊れた何かと混ざり合って膨れ上がり——
「グオオオオオオオオオッッ!!!」
咆哮と同時に、三メートルの巨体が消えた。
「っ!!」
ダダは考えるより先に真横へ跳んでいた。一瞬前まで彼が立っていた場所を、丸太のような棍棒が薙ぎ払い、焚き火ごと地面を抉る。火の粉と土塊が夜空に舞った。
(速いっ……! オークって、こんなに速かったっけ……!?)
巨体が反転する。普通のオークなら、振り切った棍棒を戻すのに一拍かかる。その一拍を狙ってダダは懐へ踏み込み——
——踏み込んだ先に、拳が待っていた。
(読まれ——)
裏拳。回避は間に合わない。ダダは咄嗟に両腕を顔の前で交差させた。
ゴッッ!!
衝撃が、世界を白く飛ばした。
体が宙に浮く。木の幹に背中から叩きつけられ、肺の空気が全部押し出される。視界が明滅し、口の中に血の味が広がった。ガードした両腕が、痺れて感覚がない。
「……か、はっ……」
膝が、落ちた。
立て。立たないと。頭ではわかっているのに、体が言うことを聞かない。生まれて初めてだった。草原で、森で、どんな魔物が相手でも、ダダの体はいつだって彼の思う通りに動いてくれた。それが、今——
ズ……ン。ズ……ン。
地響きが、近づいてくる。
霞む視界の先で、赤黒い眼が、倒れた小さな獲物を見下ろしていた。泡混じりの息が、甘い、あの嫌な匂いと一緒に降りかかってくる。丸太のような棍棒が、ゆっくりと、夜空に向かって振り上げられ——
「ダダさんっっ!!!」
木の上から、リーフの悲鳴が森を裂いた。
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