EP 13
「金貨千枚と、真夜中の晩餐」
「ただいま戻りましたー、ダイヤさん」
クレッセントワルツの事務所の扉を、ダダがからりと開けたのは、デュフランを発って二日後の夕暮れだった。
「ダダ!? あんた、無事だったのかい!」
机に突っ伏していたダイヤが、椅子から飛び上がった。九本の尾が、ぶわっと膨らむ。安堵が、すぐに説教に化けた。
「まったく、何日かかってんだい! 心配……じゃなくて! 経費を考えな経費を! 食費に宿代、勝手に飛び出しといて無報酬の依頼で——」
「あ、報酬、もらってきました」
「は?」
「えっと、これです」
ダダは懐から、オロチに託された封蝋付きの封筒を取り出した。ダイヤは怪訝な顔でそれを受け取り、封を切り——
中の小切手を見て、九尾族の動きが、完全に、停止した。
『——金貨壱阡枚 也』
ルナミス帝国銀行発行。本物の透かし。本物の割印。
「…………せ、せん……まい……」
ダイヤの手が、わなわなと震え始めた。庶民の生涯年収の、三倍。それが、紙一枚に。
「ま、待ちな……これ……どこから……」
「ゴルド商会のオロチさんが、ダイヤさんに渡してって」
「ゴルドぉっ!?」
ダイヤの絶叫が事務所を揺らした。震える手で封筒をひっくり返すと、もう一枚——白金の身分札と、一筆が、はらりと落ちた。そこに記された内容を読むにつれ、ダイヤの顔は、青を通り越して、白くなっていった。
「ゴルド商会が……後ろ盾に……白金札……顔パス……」
ダイヤは札を陽に透かし、頬ずりし、それから、がばっとダダに飛びついた。
「ダダァァァァァ!! あんた最高だよっ!!さっすがアタシが見込んだ子だ! いやもう、惚れ直したね! えらい! えらいぞ! なんでも好きなもん買ってやる!」
「やった! じゃあ、お肉!」
「肉でいいのかい!? 屋敷でも宝石でもなく肉でいいのかい!? あーもう、そういうとこだよ、そういうとこ……!」
ダイヤは笑いながら、ちょっとだけ、泣いていた。新参の弱小クランが、たった一件の依頼で、大陸最大の商会の身内になった。冒険者ギルドでの格付けも、これで一気に跳ね上がる。野心の翼が、いよいよ本物の風を掴んだ——その実感に、九尾の商人は、心の底から震えていた。
「……ねえ、ダダ」
ひとしきり喜んだあと、ダイヤは少しだけ声を落とした。
「あんた、無茶したろう。本当は。……ワームの女王なんて、Bランクパーティーでも全滅しかねない相手だ。一人で、坑道の底で、どんな目に遭ったか……アタシは聞かないでおくよ。でも」
九本の尾が、そっとダダの背中に回って、ぽんぽんと触れた。
「——生きて帰ってきて、えらかった。本当に、えらかったよ」
「……はい!」
ダダは、にっこり笑った。その笑顔がいつもより少しだけ疲れて見えたことに、ダイヤは気づかなかった。
その夜。事務所の奥、ダダにあてがわれた小さな寝室。
ベッドに腰掛けたダダは、月明かりの下で、懐から藍色の魔石を取り出した。
拳ふたつ分の結晶は、暗がりの中で、とろとろと、生きているように脈打っている。ずっと、呼ばれていた。デュフランを発ってからずっと。お腹の奥の「何か」が、この石を、欲しがっていた。
「……ダイヤさんは、これ売れば金貨数千枚だって言ってたなぁ」
ダダは結晶を、月にかざした。
「……うん。でも」
少年の声は、誰に言うでもなく、静かだった。
「これ、女王さまだったんだ。……壊されて、苦しんで、最後に子供たちのこと、心配して。……お金にするのは、なんか、違う気がするんだ」
それに、と、ダダは目を伏せる。
「僕がこうやって、ちょっとずつ強くなれたのは。声真似ができるのも、目が利くのも、鼻が利くのも、ぜんぶ——食べた、みんなのおかげだから」
小さい頃の記憶が、よぎる。
母を亡くし、一人で草原に放り出された幼い自分。最初にできたのは、声真似だけだった。だから、魔物の鳴き真似で魔物同士を戦わせて、負けたほうを——食べた。生きるために。ただ、生きるために。そうしているうちに、いつからか、食べたものの力が、少しずつ、体に馴染むようになっていた。速く走れるようになった。遠くが見えるようになった。匂いが、声が、わかるようになった。
狩られる側だった子供は、いつの間にか、狩る側になっていた。
「だから、これは。——売るんじゃなくて」
ダダは魔石を、両手で、そっと包んだ。
「ちゃんと、僕がもらうね。いただきます」
ぱくり、と。
少年は、拳ふたつ分の魔石を、まるごと口に入れた。
ばり……ぼり……。硬い結晶が、飴玉みたいに砕けていく。
その瞬間。
「……っ、ぁ……」
体の奥が、燃えた。
藍色の熱が、喉から胃へ、胃から全身へ、血管をなぞって走っていく。骨が軋み、筋肉が脈打ち、五感が一斉に内側へ折り返される。女王の力——岩盤を読む振動感覚、地脈を泳ぐ巨体の記憶、何百という子を産み育てた、母の——
「ぅ……ぐ……っ」
熱が、視界を白く塗り潰す。ダダはベッドに崩れ落ちながら、最後の力で、布団を頭から被った。声を、漏らさないように。ダイヤに、心配を、かけないように。
(だい、じょうぶ……いつもの、やつだ……。一日……一日、寝れば……馴染む……から……)
意識が、藍色の海に沈んでいく。
その海の底で——お腹の奥の「何か」が、女王の力を受け取りながら、ことり、と。
満足げに、寝返りを打った気がした。
翌朝。
「ダダー、朝だよ! 今日はギルドに昇格申請に行くよ! あんたのおかげで、Eランクから一気に——」
寝室の扉を開けたダイヤは、その光景に、固まった。
少年が、ベッドから半分ずり落ちた格好で、こんこんと眠っている。揺すっても、名を呼んでも、ぴくりともしない。だが、苦しげではない。むしろ穏やかな、深い、深い眠り。
そして、枕元には——欠片ひとつ残らず消えた、藍色の魔石の、かすかな燐光だけが、漂っていた。
「…………ダダ? ちょっと、ダダ!? なんで魔石が……ってか、これ、ぜんぶ……食べたのかい!?」
ダイヤの叫びは、当然、目を覚まさない少年には届かない。
九尾の商人は、金貨数千枚が一晩で胃袋に消えた事実より、もっと得体の知れない何かを目の前にして——ごくり、と唾を呑んだ。
「……あんた、いったい……何者なんだい……?」
眠るダダの寝顔は、答えない。
ただ、その薄い胸の奥で、本人すら知らないもうひとつの鼓動が、藍色の力をゆっくりと溶かしながら、規則正しく、脈打っていた。
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