第9話 彼女の隣にいたい
懲罰委員会の扉の前で、深呼吸をした。
前世で何度も校長室に呼ばれた経験が、今この瞬間だけは役に立つ。扉の向こうに偉い人が座っていて、私を裁こうとしている。あの頃と同じだ。違うのは、今回は証拠がこちらにあること。
扉を開けた。
長い部屋だった。正面に学園長。両脇に主任教授が三名。右手の壁際にヘルムート教授が座っている。教授の顔色が悪い。目が泳いでいた。
左手の壁際に、風紀委員長の席。その隣にレオンがいた。
目が合った。
レオンは頷いた。それだけで、呼吸が少し楽になった。
「クレーデル嬢。席に」
学園長の声は落ち着いていた。白髪の、背の低い老人だ。目だけが鋭い。
指定された椅子に座った。椅子が硬い。背もたれに学園の紋章が彫られている。
「本日は、ヘルムート教授より提出された退学勧告の妥当性を審議します。クレーデル嬢、弁明をどうぞ」
立ち上がった。
「退学勧告の要件は、学則第四十二条に定められています。素行不良記録が五件以上累積した場合に検討される」
声が震えていないことを確認した。大丈夫。前世の全校集会でマイクを握った時の度胸が残っている。
「私の記録は五件とされています。しかし、三件の日付に矛盾があります」
持ち込んだ書類を広げた。学則の冊子に挟んでおいた対照表。レオンが作ってくれたものを元に、自分で清書し直した。
「一件目。十月三日の食堂での威嚇行為。これは事実です。後輩を庇った際の行動です」
「二件目。十月五日の武術場での不適切な技の使用。これも事実です」
「三件目。十月八日の授業中の態度不良」
ここで、間を置いた。
「この日、午後の授業は学園祭準備のため休講でした。態度不良を記録する授業が存在しません」
学園長の眉が動いた。主任教授の一人が手元の書類をめくっている。学園祭準備日の時間割を確認しているのだろう。
「四件目。十月十二日の廊下での騒擾行為。この日、私は武術トーナメントの控室にいました。廊下には出ていません」
「五件目。十月十五日の教員への反抗的態度。この日、私はヘルムート教授の授業を受けていません。時間割を確認すれば明らかです」
書類を学園長の前に置いた。
「実際の素行不良は二件です。退学勧告の要件である五件に達していません」
部屋が静まった。学園長が書類を手に取り、眼鏡の奥の目が紙面を追った。
「……裏付けはありますか」
学園長がこちらを見た。
「あります。風紀委員のブレンナーが調査資料を持っています」
学園長が左手の壁際に目を向けた。「ブレンナー」
レオンが立った。手に書類の束を持っている。
「風紀委員として報告します。学園長のご許可のもと、ヘルムート教授の素行不良記録と関連書類を調査しました」
レオンの声は平らだった。事実だけを述べる声。感情を混ぜない。
「クレーデル嬢の指摘の通り、五件中三件の日付と事実が一致しません。対照表をご確認ください」
書類を学園長に提出した。日付の横に、私の行動記録が並んでいる。学園長が目を通す間、部屋の時計がかちかちと鳴っていた。
「次に、教授のデスクから発見された書簡です」
もう一枚。折り畳まれた便箋。
学園長が受け取り、開いた。目を通した。表情が変わった。眉が上がった。
学園長が便箋をヘルムート教授に向けた。
「ヘルムート教授。この書簡について説明を求めます」
「……十分、休憩をいただけませんか」
教授の声が掠れていた。学園長が時計を見た。
「五分」
五分後、委員会が再開した。
教授の顔から、色が抜けていた。
「ヘルムート教授。もう一度聞きます。この書簡は」
「……ヴァレリア家の、令嬢から」
教授が一度止まった。膝の上の手を見ている。握って、開いて、また握った。
「指示を、受けました」
「何の指示ですか」
「クレーデル嬢の……退学に必要な、記録を整えるよう」
言葉が途切れ途切れだった。まとまった文で話す余裕がもうないのだろう。
「逆らえませんでした。ヴァレリア侯爵家に借金が……借りがあるので」
学園長が目を閉じた。短く息を吐いた。
「ヴァレリア嬢を呼びなさい」と学園長が言った。
扉が開いて、メリッサ嬢が入ってきた。
顔が白かった。でも背筋は伸びている。この人は、追い詰められても姿勢を崩さないタイプだ。そこだけは認める。
「ヴァレリア嬢。ヘルムート教授への指示書について」
メリッサ嬢が唇を開いた。一瞬だけ、視線が泳いだ。それから、作られた微笑みを浮かべた。
「殿下のお心を思って行動しただけですわ。クレーデル嬢の素行が殿下のお心を乱していましたから、学園の秩序を守るために――」
「僕はそんな指示をしていない」
声は後ろから来た。
殿下が傍聴席から立ち上がっていた。顔が硬い。
「僕は……聞いていない」
一拍の沈黙。殿下が唇を引き結んだ。
「勝手に僕の名を使うな」
メリッサ嬢の微笑みが、凍った。
「で、殿下。わたくしは殿下のために――」
「僕のためだと言うなら、なぜ僕に相談しなかった」
殿下の声には苛立ちがあった。でもそれだけじゃない。自分が利用されていたことへの、不快感。
メリッサ嬢の手が、スカートの布を掴んだ。指が白い。
傍聴席がざわめいた。誰かが隣の誰かに何か耳打ちしている。学園長が咳払いをして、静かになった。
「もう一名。グレン教官」
武術場のグレン教官が立った。腕を組んでいたのをほどいて、学園長に向き直った。
「学園祭の武術トーナメントについて。女子の部の特別枠は、殿下の王太子命令により追加しました。教官としては不本意でした」
殿下の顔から表情が消えた。
私は殿下を見なかった。窓の外の、木の梢を見ていた。葉が風で揺れている。もう冬が近い。
学園長の声が響いた。
「殿下。王太子権限を私的な感情で行使されることは、学園の規律を著しく損ないます。本件については国王陛下にも報告いたします」
静かだった。時計の音だけが部屋に残った。
廊下に出た。
日が傾いていた。窓から差す光が、石の床を斜めに切っている。
委員会の結果。退学勧告は撤回。ヘルムート教授は謹慎処分。メリッサ嬢は停学処分。殿下には直接の処分はないが、国王への報告が通告された。
終わった。
自分の足で立って、自分の言葉で戦って、勝った。レオンが揃えてくれた証拠があったからだ。でも、法廷に立ったのは私だ。前世の校則ハックが、ここで花を咲かせた。
「リゼット」
振り返った。
レオンが委員会室から出てきたところだった。書類の束を脇に抱えている。風紀の腕章がまだついている。
「報告があります」
真面目な顔だ。いつも真面目だけど、いつも以上に。
「僕がこの調査をしたのは、風紀委員としての職務です」
そうだ。レオンは正しい手続きを踏んで、正当な権限で、証拠を集めた。
「ですが」
レオンの目が、私を見た。書類ではなく。腕章でもなく。私を。
「彼女の隣にいたいと思ったのは、僕個人の意志です」
声が、少しだけ揺れていた。
いつも平らなこの人の声が。事実だけを述べるこの人の声が。
「実家には反対されています。婚約破棄された令嬢と親しくするなと。でも、それは」
言葉を探している。この人は言葉を探す時、視線が少し上にいく。
「……関係ない、と思います。僕が隣にいたいかどうかに、実家は関係ない」
不器用だった。
決め台詞じゃなかった。整った告白でもなかった。途中で言い直して、「関係ない、と思います」って、思いますってなんだ。自分でも確信が持てていないのか。
でも、手は震えていなかった。
あの夜、殿下を遮った時は震えていた手が、今は静かだった。
「……あんた、なんで私にそこまで」
声が掠れた。自分の声じゃないみたいだった。
レオンが少しだけ笑った。笑い方が下手だ。口角の片方だけが上がる。
「明日、話します」
「……ずるい」
「すみません」
レオンが背を向けて、騎士科の校舎に向かって歩いていった。
廊下に一人残された。窓から差す光が、さっきより赤くなっていた。
胸の中で、何かが大きく脈を打っていた。
手を胸に当てた。
うるさい。
前世でタイマンに勝った時より、心臓がうるさい。




