第10話 おう
秋学期末試験が終わった日の空は、嘘みたいに青かった。
教室の窓を開けたら、冬の終わりかけの空気が入ってきた。冷たいけれど、どこかに春の匂いが混ざっている。
「終わったー」
エミルが机に突っ伏した。答案用紙を提出した後の、あの全身から力が抜ける感じ。覚えがある。前世で散々やった。
「エミル、よだれ」
「出てないです」
「出てるよ」
エミルが慌てて口元を拭いた。出てなかった。ごめん。
周りに仲間がいる。庶民出身の二人と、下級貴族の女子。食堂の端の席から始まった集まりが、いつの間にか教室の一角を占めるようになっていた。
試験の出来を話し合っている。誰が何を間違えたか。礼法の筆記が難しかったとか、歴史の年号がひとつずれたとか。
普通の光景だ。前世の放課後と同じ。
これが欲しかったのかもしれない。猫をかぶっていた三年間、こういう時間がなかった。
成績発表は翌日だった。上位に名前があった。猫をかぶっていた時より順位が上がっていたのは、素の頭で試験を受けた方が回転が速いということだろう。前世の偏差値は壊滅的だったのに、不思議なものだ。
廊下で噂を聞いた。殿下が国王陛下の命で地方領に研修に出されたこと。来学期は学園にいないらしい。メリッサ嬢は停学が明けた後、自ら社交界の行事への出席を控えているとのこと。
どちらも、さらっと聞いて、さらっと流した。
もう関係のない人たちだ。恨みもない。ただ、同じ場所にいる理由がなくなっただけ。
放課後、レオンから伝言が届いた。
エミル経由で。「中庭に来てほしい」と。
エミルが伝言を渡す時の顔が、にやにやしていた。
「何その顔」
「何でもないです。行ってらっしゃい、先輩」
「……お前、何か知ってるでしょ」
「何も知らないです。レオン先輩の耳が赤かったことしか」
やっぱり知ってるじゃないか。
中庭。
学園祭の飾りはとっくに片付けられていて、石畳の上に枯葉が数枚残っているだけだった。ベンチが二つ。噴水が一つ。水は冬の間止められていて、底に落ち葉が溜まっている。
レオンが噴水の前に立っていた。
制服姿だった。風紀の腕章はついていない。今日は非番なのだろう。手ぶらだ。書類もない。鞄もない。
「来ました」
「……ありがとう」
しばらく黙っていた。レオンは何か言おうとして、口を開けて、閉じた。もう一度開けた。
風が吹いた。枯葉が一枚、石畳の上を滑っていった。
「昨日、明日話すと言いました」
「うん」
「話します」
レオンが私を見た。まっすぐに。この人がこんなにまっすぐ目を合わせてくるのは珍しい。いつもは少しだけ視線が横にずれる人だ。
「最初は、武術の型に興味があった」
声は低かった。いつもの声。でも、少しだけ速い。
「回し蹴りの軸足。あれを見た時に、この人の動きをもっと見たいと思った。それが最初です」
武術。そこからなのか。
「でも途中から変わった。いつからか、正確にはわからない」
レオンの手が、一度だけ拳を握って、開いた。
「君の笑い方が見たくなった。食堂で端の席にいる君の隣に座りたくなった。君の拳にマメができるたびに、治したくなった」
あの匂いを思い出した。あの軟膏。最初に塗ってくれた日から、ずっと。
「剣に油を塗ったのも、暖炉の前に椅子を出したのも、軟膏を届けたのも」
全部。
全部、この人だった。
知っていた。知っていたのに、認めていなかった。認めたら、何かが変わってしまう気がして。
「好きだ、リゼット」
レオンの声が、揺れた。
「君の拳も、猫かぶりも、全部好きだ」
拳も。猫かぶりも。
前世の彼氏の声が、遠くで聞こえた。「本性を知ったら、誰だって離れる」。
離れなかった人が、ここにいる。
本性を知って、拳を見て、蹴りを見て、元ヤンの癖が出るところを全部見て。その上で「全部好きだ」と言っている。
返事をしなければ。
口を開いた。
言葉を選ぼうとした。ちゃんとした言葉を。令嬢らしい言葉を。前世じゃない、今の私の言葉を。
「……おう」
出たのは、それだった。
前世の癖。仲間に「ついていきます」と言われた時の返事。気合いを入れる時の返事。嬉しい時に、咄嗟に出る、一番短い肯定。
沈黙。
レオンが目を見開いた。
それから、吹き出した。
笑っている。レオンが笑っている。口角の片方だけが上がるいつもの笑い方じゃなくて、両方上がっている。目が細くなっている。声が出ている。この人がこんなふうに笑うのを、初めて見た。
顔が熱い。耳まで熱い。全身が燃えている。
「い、今のなし! やり直し! もっとちゃんとした――」
「いい」
レオンがまだ笑いながら言った。
「いい。君らしい」
君らしい。
その言葉が、胸の真ん中に落ちた。
前世の彼氏は「お前の本性」と言った。レオンは「君らしい」と言った。同じものを見て、違う言葉を選んだ。
それだけで十分だった。
並んで歩いた。
中庭から寮への道。石畳。枯葉。冬の終わりの風。
レオンが隣にいる。半歩先を歩いている。いつもそうだ。半歩だけ前。追い越さない。でも、隣にいる。
何も言えなかった。顔がまだ熱くて、口を開いたらまた変なことを言いそうだった。
だから、代わりに手を伸ばした。
レオンの袖を、指先で掴んだ。
小さく。軽く。引っ張らない程度に。
レオンの歩幅が、ほんの少しだけ遅くなった。
振り向かなかった。でも、耳が赤かった。
エミルの言った通りだ。日陰でも赤い。
部屋に戻った。
制服を脱いで、窓際に立った。空がまだ青い。冬の空は高くて、遠い。
机の引き出しを開けた。
制服のリボンが入っている。
猫をやめた日に外して、畳んで、ここに入れた。捨てなかった。捨てようと思わなかった。
手に取った。布が少し冷たい。
三年間、毎朝結んでいたリボン。完璧な公爵令嬢の仕上げ。猫の最後の一枚。
今はもうつけない。でも、捨てもしない。
猫をかぶっていた三年間の私も、私だった。あの三年があったから、素の自分がどれだけ楽か知った。あの三年を過ごしたから、リボンを外す勇気が出た。
リボンを引き出しに戻した。
窓の外で、鳥が一羽飛んでいた。春が近い。
右手を見た。マメの跡はもう消えている。
さっきレオンの袖を掴んだ指先を見た。
まだ布の感触が残っている。




