第8話 もう一度、猫をかぶるべきなのかな
レオンが私を避けている。
理由はわからない。ただ、あの人がいない食堂は、少しだけ広すぎた。
最初に気づいたのは朝だった。廊下ですれ違った時、レオンが目を逸らした。いつもなら「おはようございます」と言う人が、軽く頷いただけで通り過ぎた。
昼、食堂で端の席に座った。隣の椅子が空いている。一週間前からずっとそこに座っていた人が、今日はいない。反対側の壁際に、騎士科の連中と固まっていた。こちらを見ない。
エミルが向かいに座って、スープを啜りながらちらちらと空いた椅子を見ている。気づいているのだ。この子は鈍いようで、人の配置には敏感だ。
午後の授業の移動中、渡り廊下で見かけた。レオンの横に、見覚えのない人がいた。背が高い。レオンに似ているけど、肩幅が広くて、顎の角度が違う。上から見下ろすような立ち方。
レオンの兄。
二人は何か話していた。距離が近いのに、声が聞こえない。低い声で、短い言葉を交わしている。レオンの背中が硬い。
兄が何か言った。レオンが顎を引いた。
そのまま兄が振り返った。目が合いかけて、私は柱の影に入った。見ていたことを知られたくなかった。理由はわからないけれど。
渡り廊下から出た時には、二人ともいなくなっていた。風が冷たかった。秋が深くなっている。
あの兄が何を言ったのか、想像はできる。
殿下に楯突いた噂。婚約破棄された公爵令嬢と親しくするな。伯爵家の体面。
――やっぱり、素の私じゃダメなのかな。
思ってしまった。思いたくなかったのに。
「リゼット先輩、元気ないです」
放課後の食堂。エミルが正面に座って、まっすぐこちらを見ている。この子は遠慮なく言う。
「元気だよ」
「嘘です。今日パン一個しか食べてないじゃないですか。いつも三個食べるのに」
数えてたのか。
「……食欲がない日もあるの」
エミルがスプーンでシチューをかき混ぜながら、何か考えている顔をした。それから、ぽろっと言った。
「あの、レオン先輩のことなんですけど」
胃の底が浮いた。顔には出さなかったと思う。
「こないだ騎士科の訓練場で会ったんです。僕が書類を届けに行った時。レオン先輩に『クレーデル嬢は元気か』って聞かれました」
「……それで?」
「『元気ですよ』って答えたら、『そうか』って言って、それだけなんですけど」
エミルがスプーンを止めた。
「耳、赤かったです」
「は?」
「レオン先輩の耳。リゼット先輩のこと聞くと目が泳ぐんですよ。あの人、目は動かないのに耳だけ赤くなるから、わかりやすいっていうか」
「……そんなわけないでしょ」
「でも赤かったですよ」
「日差しのせいでしょ」
「訓練場、日陰なんですけど」
エミルが不思議そうな顔をしている。嘘をついている顔じゃない。この子は嘘がつけないタイプだ。
レオンの耳。確かに、あの夜――名前を呼んだ時も赤かった気がする。夕日のせいだと思った。
「気のせいだよ」
自分に言い聞かせるように言った。エミルは肩をすくめて、シチューを食べ始めた。
裏庭に出た。
誰もいない場所が欲しかった。裏庭の隅に古い石のベンチがある。苔が端っこに生えていて、座ると尻が冷たい。
前世のことを考えていた。
全国制覇した時。十七歳。夏の終わりだった。
「お前は女のくせに」と何度も言われた。教師にも、対戦相手にも、通りすがりの大人にも。女のくせに拳を振るうな。女のくせに仕切るな。女のくせに。
言い返す代わりに、勝ち続けた。勝てば黙ると思っていた。実際、黙ったやつもいた。でも全員じゃない。
彼氏は離れた。素の私を見て。
仲間は残った。素の私を知った上で。
あの時の私は、誰かの評価で生き方を変えたか。
変えなかった。
変えなかったから、仲間が残った。変えなかったから、後悔しなかった。
石のベンチが冷たい。手を膝の上に置いた。指先が荒れている。軟膏を塗っていないからだ。あの軟膏は部屋に置いてきた。
……あの人が距離を置いても、自分は自分だ。
頭ではわかっている。でも胸の奥に、前世の彼氏の声がこびりついている。「本性を知ったら、誰だって離れる」。
離れない人もいた。
離れない人の方が多かった。
なのに、離れた一人の声だけが、こうも長く残る。
部屋に戻ったら、机の上に封筒が置いてあった。
見覚えのある封蝋。公爵家の紋章。父からだ。
封を切った。父の字は相変わらず右に傾いている。万年筆のインクが少しかすれている。インク壺の蓋をちゃんと閉めないからだ。
『リゼット。
お前がどんな姿でも、私はお前の父だ。
お前はお前のままでいい。
困ったら言いなさい。
でも、お前が自分で決めたなら、私はそれを信じる。
身体に気をつけて。冬物の外套を送った。寮の暖炉は夜中に消えると聞いている。
父より』
冬物の外套。
この人は、こういう人なんだ。「お前のままでいい」の後に、外套の心配をする。大きな言葉と小さな世話が同じ手紙に入っている。
目の奥が熱くなった。
泣いていた。手紙を持ったまま、声を出さずに。前世でも今世でも、父親の前で泣くのは苦手だった。でも今、この部屋には誰もいない。
手紙を裏返して、机に置いた。なぜ裏返したのかは自分でもわからない。文字が見えていると、また泣きそうだったからかもしれない。
顔を上げた。
机の端に、小さな容器が置いてあった。
いつの間に届いたのだろう。寮の管理人が預かったのかもしれない。差出人の名前はない。
蓋を開けた。
樫の実の匂い。
距離を置いていても、これだけは届く。名前のない、あの匂いの軟膏。
指先に塗った。荒れた皮膚に、少しだけ沁みた。
泣いた分だけ、頭がすっきりしていた。
引き出しから学則の冊子を引っ張り出した。昨夜の続き。三十七ページに貼った付箋がある。退学要件の条文。
レオンが渡してくれた対照表を広げた。日付と記録内容が並んでいる。これを自分の行動記録と照合しないといけない。
十月三日。食堂。あの日、エミルを助けた。これは事実だ。
十月八日。授業中の態度不良。この日は……学園祭準備で午後の授業が休講になった日だ。態度不良を取られる授業がそもそもない。
一つずつ、潰していく。前世で校則の抜け穴を探すのは得意だった。この世界の学則も、人間が書いたものだ。人間が書いたものには、必ず穴がある。
軟膏を塗ったばかりの指で、ページをめくった。紙が引っかからなくなっていた。
私は私のままでいく。
猫はもうかぶらない。
泣くのは今日で最後だ。――多分。




