第6話 彼女はもうあなたの婚約者ではありません
「考え直してやってもいい」
学園祭の後夜祭の余韻が残る夜だった。中庭の木にはまだ飾りの灯りがぶら下がっていて、橙色の光が石畳に丸い影を落としている。
殿下は上から目線を一ミリも改めていなかった。
腕を組んで、顎を上げて。トーナメントの日に国王陛下の前で顔を凍らせていた人と同一人物とは思えない。立ち直りが早いのか、現実が見えていないのか。
「僕と婚約を復活させないか。お前の実力は認める。武術の腕があれだけ立つなら、王太子妃としても悪くない」
褒めているつもりなのだろう。たぶん。
一瞬、別の声が頭をよぎった。
『お前の本性を知ったら、誰だって離れるよ』
前世の彼氏の声。夏の放課後、教室の窓際で言われた言葉。あの時、何も言い返せなかった。言い返す言葉を知らなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
でも今は違う。私には言葉がある。
「いりません」
殿下の眉が動いた。
「……何?」
「いりません。婚約の復活は。お気持ちだけ受け取っておきます」
気持ちなんて一つも受け取りたくないけれど、礼法の授業で習った断り方が、こういう時だけ役に立つ。
殿下の目が細くなった。怒りだ。この人は、断られることに慣れていない。
「お前は自分の立場がわかって――」
「彼女はもうあなたの婚約者ではありません。殿下」
声は横から来た。
レオンが立っていた。いつからいたのかわからない。風紀巡回の腕章をつけている。巡回中だったのか。
殿下が振り向いた。
「ブレンナー。風紀委員ごときが口を挟むな」
「風紀委員として申し上げています。後夜祭の終了時刻は過ぎております。生徒は寮に戻るよう定められています。殿下も例外ではありません」
声は平らだった。いつもの低い、感情を抑えた声。
でも、手が震えていた。
右手。拳を握っている方の手が、微かに震えていた。
何で震えているのかが、わからなかった。怖いのか。怒っているのか。別の何かなのか。
殿下がレオンを見た。レオンが殿下を見返した。視線がぶつかっている間、中庭の飾りの灯りが風で揺れた。影が二人の間を行き来した。
殿下が先に視線を外した。
「……覚えておけ」
背を向けた。靴音が石畳を叩いて、遠ざかっていく。
灯りの一つが風で消えた。
二人きりになった。
レオンの手が、まだ震えていた。拳を開いて、閉じて、もう一度開いた。それでも止まらないらしく、左手で右手首を掴んだ。
「出過ぎた真似をしました」
「……助かった」
本当だ。一人でも断れた。でも、殿下の言葉が続いていたら、前世の記憶がもう少し深く刺さったかもしれない。
「でも、次は自分で言う」
レオンが顔を上げた。
「次があるとは思いたくないですが」
「あるよ、ああいう人は。自分が正しいと思ってるから」
前世にもいた。何度断っても、自分が上だと信じている人間は、断られた事実を認識しない。
レオンは何か言いかけて、やめた。代わりに拳を開いた。震えは止まっていた。
「……すみません」
「だから、助かったって」
「いえ。名前を」
「え?」
「リゼット、と呼びました。さっき。許可なく」
言われて気づいた。殿下を遮った時、レオンは「彼女」と言った。でもその前に、こちらに駆け寄る直前に、何か言ったような気がする。聞こえなかった。聞こえなかったけれど、今、本人が白状している。
「……別にいいけど」
「すみません」
「だからいいって。レオンも呼んでるんだし」
レオンが口を閉じた。耳が赤い。今度は夕日のせいにはできない。もう日は沈んでいる。
石畳を歩いて寮に向かった。飾りの灯りが点々と道を照らしていた。レオンの足音が隣にある。
ふと、向こうの道から声がした。
「レオン、巡回時間変えたのか。今日の後半、俺のルートと被ってたぞ」
騎士科の同僚らしい。巡回の腕章をつけた男子生徒が、向こうの角から現れた。
レオンが一瞬だけ間を置いた。
「……少し調整した」
「調整って、お前の元のルートは東棟じゃなかったか? ここ西棟だろ」
「問題があれば報告書に書いてくれ」
同僚が肩をすくめて去っていった。
巡回ルートを変えた。西棟に。後夜祭の夜に。
偶然ここにいたのではない、ということだろうか。
いや、考えすぎだ。風紀委員だから、学園祭の日は巡回範囲が変わることもあるだろう。多分そうだ。
「おやすみなさい」
寮の入り口で言った。レオンが頷いた。
「おやすみなさい。……鍵を忘れずに」
「忘れないよ」
忘れたことはある。前世で。家の鍵をしょっちゅう失くしていた。でもこの世界の寮の鍵は大きいから大丈夫だ。
扉を閉めた。
廊下を歩きながら、右手を見た。レオンの手が震えていた映像が、まだ残っている。
何で。
何であの人の手が震えるのか、本当にわからなかった。
寮の窓から、ふと外を見た。学園の別棟の教授室のあたりに、まだ灯りがついている。遅い時間なのに。誰かが残っている。
気になったけど、それ以上は考えなかった。今日は疲れた。




