第5話 見事だ
学園祭当日。
武術トーナメントの出場者控室で、私は三年ぶりに拳を握った。
控室は武術場の裏手にある小部屋で、木の壁に剣の傷がいくつもついている。先輩たちが素振りで削った跡だろう。窓が小さくて、光がぼんやりしか入らない。椅子が四脚。一脚だけ脚がぐらついていて、座ると軋む。私はその椅子に座っている。
「リゼット先輩、大丈夫ですか」
エミルが水を持ってきてくれた。出場者でもないのに控室まで来ている。この子は人の後ろに立つのが得意だ。前世なら参謀タイプと言うところだけど、本人にその自覚はなさそうだ。
「大丈夫。ちょっと懐かしい気分なだけ」
試合前の控室は、前世の大会前の廊下に似ている。相手がどう来るかわからない緊張と、身体が動くことだけは信じている落ち着きが混ざった感覚。好きだった、あの時間。
水を飲んだ。冷たい。
「エミル」
「はい」
「終わったらお腹空くから、屋台で何か買っておいて」
「わかりました。何がいいですか」
「肉が挟まったやつ。二つ」
エミルが笑った。こういう時に笑ってくれる子がそばにいると、肩の力が抜ける。
剣を手に取った。学園の備品の木剣。軽い。昨日、柄の巻き直しだけ自分でやった。
柄に鼻を近づけた。
油の匂いがする。昨日は塗っていない。
刃に沿って薄く、丁寧に手入れ油が塗られていた。木が吸い込みかけている。昨夜のうちに塗られたのだろう。
誰だろう。
備品の木剣に油を塗る酔狂な人間が、この学園にどれだけいるのか。
――まあいい。ありがたいことに変わりはない。
武術場に出ると、砂と秋の風が混ざった匂いがした。
観客席が埋まっている。学園祭は学園最大の行事で、毎年国王が視察に来る恒例だと聞いてはいたけど、本当に来ていた。正面の貴賓席に国王夫妻が座っている。遠い。でも、外套の金糸が陽光を反射して、位置はわかる。
その三列後ろに殿下がいた。腕を組んで、無表情。
女子の部、八名のトーナメント。初戦の相手は二年の伯爵令嬢で、剣術の授業は真面目に受けているタイプだった。型が綺麗だ。
でも、型だけだ。
前世で学んだことがある。綺麗な型は、崩されることを想定していない。予想の外から入れば、対処が遅れる。
半歩だけ間合いを詰めて、相手の振りの起点を潰した。相手が体勢を崩したところで、木剣の柄頭で軽く肩を押す。
「勝負あり」
教官の声。十秒かからなかった。
準々決勝も似たような展開だった。
準決勝は少し違った。相手の子爵令嬢が一度だけ間合いの読みを合わせてきて、木剣が交差した。ほんの一瞬、底力のある目をしていた。でもそれだけだった。次の一手で起点を潰して、終わった。
観客が少しずつざわめき始めている。
決勝。
相手は騎士科三年のカーリン・フォン・ゼルナーという女子生徒だった。レオンの同期らしい。背が高くて、腕が長い。目が据わっている。この人は型だけじゃない。実戦を知っている目だ。
嫌な予感がした。嫌な予感は、だいたい正しい。
「始め」
カーリンの踏み込みが速かった。間合いを詰めて起点を潰す、さっきまでの戦法が通じない。彼女自身が最短距離で入ってくるからだ。
木剣がぶつかった。衝撃が腕に走る。重い。
二合、三合。受けるたびに手が痺れる。この人、力がある。正面からの打ち合いでは分が悪い。
考えを切り替えた。
前世で、自分より力の強い相手と何度も戦った。タイマンで負けたことも何度かある。でも、タイマンで勝つ方法は力比べだけじゃない。
カーリンが大きく踏み込んだ瞬間、私は後ろに跳んだ。
間合いが開く。カーリンが追ってくる。追わせる。
もう一歩引く。カーリンの木剣が伸びる。届かない距離。
空振りの直後。体勢が前に流れる一瞬。
そこに、斜め下から切り上げた。
前世の喧嘩で覚えた角度だ。相手が前のめりになった瞬間の、下からの突き上げ。剣術の教科書には載っていない。
カーリンの木剣が跳ね上がった。彼女の手から離れはしなかったけど、握りが甘くなった。
もう一打。手首を返して、柄ごと払う。
乾いた音がして、カーリンの木剣が砂の上に落ちた。
静寂。
それから、拍手が来た。
最初は観客席のどこかから。次にぱらぱらと広がって、やがてひとつの大きな音になった。
正面の貴賓席で、国王が立ち上がっていた。
「見事だ」
声が武術場に響いた。低くて、よく通る声だった。
国王が拍手している。立ち上がって。その場にいる全員がそちらを見た。
三列後ろの殿下の顔が凍りついていた。
出来損ないを恥をかかせるために出場させたのに、国王に称えられている。自分が仕掛けたことが、全部裏返った。
カーリンが木剣を拾い上げて、こちらに歩いてきた。
「いい試合だった」
短い言葉だった。でも目が笑っていた。この人は、戦い終わった相手に敬意を払える人だ。
「こちらこそ。腕が痺れてます」
嘘じゃない。右手がまだ震えている。
カーリンが口角を上げて、背を向けた。
控室に戻って、椅子に座った。ぐらつく椅子。脚が軋む。
手を見た。マメが潰れている。明日には痛くなるだろう。
木剣を立てかけた。油の匂いが微かにする。
誰が塗ってくれたのかは、やっぱりわからない。でも、おかげで柄が滑らなかった。決勝の最後の一打、手首を返す時に握りが効いた。
「ありがとう」
誰にともなく、声に出した。控室には誰もいなかった。
壁の向こうから、観客の歓声がまだ聞こえている。男子の部が始まったのだろう。
エミルが屋台の肉挟みパンを持ってきてくれたのは、それから十五分後だった。
約束通り二つ。温かい。肉汁がパンに染みている。一口目で、全身の力が抜けた。
「リゼット先輩、かっこよかったです」
「ありがと。パン美味しい」
「先輩、汗すごいですよ。鼻の頭」
「うるさいな」
笑いながらパンをかじった。窓から差す西日が、控室の木の壁を橙色に染めていた。
さっき聞こえた国王の声を思い出す。
見事だ。
あの人の靴を磨いた殿下の顔を思い出す。
出来損ない。
どちらが正しいかは、もうどうでもよかった。
私は私が勝ちたいから勝っただけで、誰かに認められたくて剣を振ったわけじゃない。
でも。
油の匂いだけが、少し気になっていた。




