両舌
両舌とは二枚舌を使うことだと教えられてきたが、その言葉だけでは、この罪がなぜ十悪に数えられるほど重いものなのかを私は長い間理解することができず、相手によって言葉を選ぶことは人が社会で生きる以上避けられない営みであり、親へ向ける言葉と友人へ向ける言葉が違うことも、幼い子どもへ向ける言葉と老人へ向ける言葉が違うことも、ごく自然なことである以上、それだけで罪と呼ばれる理由にはならないのではないかと考え続けていた。
やがて私が思い至ったのは、両舌とは二つの言葉を話すことではなく、一つの出来事から二つの真実を生み出してしまうことなのではないかということであり、人は嘘によって騙されるのではなく、自分だけが真実を知っているという安心によって、自ら疑うことをやめてしまうのであれば、その瞬間から言葉は事実を伝えるためのものではなく、人の認識そのものを書き換えるためのものへ姿を変えてしまう。
人は目で見たものを信じていると思い込んでいるが、実際には目で見る前に耳で聞いたものを信じていることのほうが多く、一度耳にした言葉は、その後に見聞きするすべての出来事へ静かに影を落とし、疑うべきものを信じさせ、信じるべきものを疑わせながら、その人自身が自分の意思で判断したのだと思い込ませるため、言葉は誰かを操るよりも先に、その人の世界の見え方を少しだけ傾ける力を持っているのかもしれない。
その傾きはあまりにも小さいため、誰も最初の一歩では気付くことができず、違和感は偶然として受け流され、小さな誤解は思い違いとして片付けられ、それでも同じ方向へ何度も認識が傾けられるうちに、人はいつしか最初とはまったく違う場所へ立っているにもかかわらず、自分の足で歩いてきたのだと信じ続けることができてしまう。
だから両舌とは、人を欺く罪ではない。
人に選ばせながら、その選択が最初から誰かによって用意されていたことに最後まで気付かせない罪であり、その恐ろしさは、一つの言葉が誰かの心を傷付けるところではなく、一つの言葉が誰かの人生を歩かせる道筋そのものを静かに書き換えてしまうところにあるのだと思う。




