悪口(あっく)
悪口とは他人を悪く言うことだと教えられてきたが、その説明を受け入れるたびに、私は言葉だけを罪とする考え方にどこか不自然さを覚えていたというのも、人は善悪を判断する以上、誰かの誤りを誤りだと言葉にしなければならない場面を避けて生きることはできず、もし他人を悪く語ることそのものが悪口であるならば、人は正しさを語ることさえ許されなくなってしまうため、戒められたのは言葉ではなく、その言葉が向かう先なのではないかと考えるようになったからである。
人は目の前にいる相手へ向けて語るときよりも、その相手がいない場所で語るときのほうが驚くほど滑らかに言葉を選び、相手へ伝えるためではなく、その場にいる人間へ理解されるために言葉を整え始めるが、その瞬間から言葉は事実を語る役目を少しずつ失い、相手そのものではなく、相手について共有できる印象だけが磨かれていくため、悪口とは人を語ることではなく、人についての印象を育てる行為なのではないかと思うようになった。
印象は事実ほど確かなものではないにもかかわらず、一人が語り、もう一人が頷き、さらに別の誰かが同じ印象を口にするたび、それはいつしか事実よりも疑われないものへ姿を変えていき、その変化を誰も意識しないまま、人は目の前の相手を見るより先に、その相手について耳にした言葉を思い出すようになり、自分の目で見たものより、自分の耳で集めたもののほうを信じるという奇妙な順序が、ごく自然なものとして受け入れられていく。
私は悪口とは嘘を語ることではないのだと思っている。
本当のことだけを並べても悪口は成立するし、反対に嘘だけを並べても悪口にならないことがあるため、その違いを考え続けるうちに、悪口とは言葉の真偽ではなく、その言葉によって相手を理解したつもりになる心の働きそのものを指しているのではないかという考えに至った。
人は一人の人間を理解するにはあまりにも時間が足りず、それでも理解したいという欲だけは捨てきれないため、短い言葉へ相手を押し込み、その一言だけで分かったつもりになろうとするが、その便利さこそが悪口の居場所であり、一人の人間が生きてきた時間も、迷いも、選択も、後悔も、すべて削ぎ落としたあとに残るわずかな言葉だけを、その人間そのものだと信じてしまうところに、この罪は静かに根を下ろしているように思えてならない。




