綺語(きご)
綺語とは美しい言葉を語ることだと書かれているが、私は昔からこの説明にだけは妙な物足りなさを覚えていて、美しい言葉そのものが罪になるのであれば、人を励ます言葉も、誰かを慰める言葉も、明日を生きようと思わせる言葉まで罪になってしまうはずなのに、そのような単純な話を戒めとして残したとはどうしても思えず、むしろ罪なのは美しい言葉ではなく、それを語る人間のほうにあるのではないかという考えが頭から離れなかったため、私は「綺」という字ばかりを眺め続けていたのだが、その字が意味しているものは美しさそのものではなく、美しく見せようとする意思なのではないかと思い至ったとき、それまで一つ一つ独立して見えていた人間の振る舞いが、不思議なくらい同じ形をしているように思えた。
人は身なりを整え、礼儀を覚え、他人を傷付けない言葉を選び、ときには自分の本心を押し殺してまで誰かを気遣うことがあるが、その行為の一つ一つを私は否定しようとは思わないし、むしろ社会というものは、そのような配慮の積み重ねによって辛うじて形を保っているのだろうとも思っているため、それらすべてを偽善だと切り捨てるつもりはないものの、どれほど他人のために選ばれたように見える言葉であっても、その言葉を発した瞬間、人はその言葉を口にした自分自身を眺め始める癖があり、自分は優しい人間なのだ、自分は思いやりのある人間なのだ、自分は間違っていない人間なのだという像を少しずつ積み重ね、その像を壊さないためにまた次の言葉を探し始める様子を見ていると、言葉は他人へ届くよりも先に話し手自身へ届き、その人間を安心させるための道具として働いているようにしか見えなくなる。
私はその働きそのものを責めたいわけではなく、人間という生き物が、自分を信じなければ生きていけない以上、自分を安心させる言葉を必要とすることまで否定してしまえば、おそらく誰も今日という一日をまともに終えることなどできなくなるのだろうと思っているし、自分だけは例外だと思い込みながら生きることも、生き延びるためには必要な能力なのだろうと理解しているからこそ、それでもなお綺語が罪として残されている理由を考え続けると、人は言葉を飾っているのではなく、自分を飾るために言葉を使い始め、その飾られた自分を本来の自分だと信じた瞬間から、言葉は真実を伝えるものではなく、自分という存在を塗り替えるための化粧へ変わってしまい、その化粧は顔へ施されるものよりもはるかに厄介であるにもかかわらず、本人だけは化粧をしている自覚を失っているというところに、この罪の本質があるように思えてならない。
人間は他人を欺くより先に自分を欺くことに長けているという言葉を私は何度も思い返してきたが、その欺きは嘘を吐くという単純な行為ではなく、自分は正しい、自分は善良だ、自分は誠実だという像を言葉によって磨き続け、その磨かれた像を見つめながら安心するという、ごく穏やかで、ごく自然で、だからこそ誰にも罪だと気付かれない形で繰り返されているのであり、綺語という戒めは美辞麗句を禁じた教えではなく、人間が最も騙されやすい相手は他人ではなく自分自身であり、その欺瞞は言葉によって完成するのだという事実を忘れるなという警告なのだと考えるようになってから、私は綺麗な言葉を聞くたび、その言葉の正しさではなく、その言葉によって誰が最初に救われたのかだけを見るようになった。




