妄語(もうご)
妄語と聞けば、人は嘘をつくことだと言う。それは間違いではないのだろう。嘘は人を裏切り、信頼を壊し、ときには人生そのものを狂わせるのだから、戒められる理由としては十分に思える。ただ、それほど分かりやすい意味しか持たないのであれば、この言葉は「語」だけで成立していたはずであり、わざわざ「妄」という一文字が添えられている理由を考え始めると、どうにも話は単純ではなくなってくる。
語ることそのものが罪なのではない。人は言葉を失えば、自分が見たものも、感じたものも、考えたことも誰にも伝えられず、他人を理解することも、自分を理解してもらうこともできなくなる。そうであるなら戒められているのは「語る」という行為ではなく、その言葉が生まれる前、人の認識の中で既に始まっている何かなのだと思えてくる。
「妄」という字を見ていると、不思議なことに思い浮かぶ言葉はどれも似ている。妄想、妄信、妄執。そのどれもが現実そのものを壊しているわけではなく、現実より先に自分の認識を変えてしまうことから始まっている。目の前にあるものをそのまま受け取ることをやめ、自分が見たいものを見て、自分が信じたいものを信じ、自分が納得できる形へ現実を並べ替え、そのあとでようやく言葉になる。そう考えると、嘘とは言葉の問題ではなく、もっと手前で起きている出来事なのではないかという疑いが生まれる。
嘘も言い続ければ真実になる、と人は言う。その言葉には妙な説得力がある。噂は何度も繰り返されることで事実らしくなり、歴史は勝者が書き換えることで正史となり、多くの人間が信じたものは、やがて疑うこと自体が許されない空気を作り始める。そういう光景を見れば、確かに嘘は真実へ変わるのだと思いたくもなる。
しかし、本当に変わったのだろうか。
私はどうしても、そうは思えない。
変わったのは嘘ではなく、人なのではないかと思う。真実が姿を変えたのではなく、人が真実を見ることをやめただけであり、嘘が現実になったのではなく、人の認識が現実から離れていっただけであるなら、「嘘も言い続ければ真実になる」という言葉は、嘘が勝ったことを意味しているのではなく、人が負けたことを意味しているのではないだろうか。
その負け方は、とても静かだ。
最初から大きな嘘をつく人間などほとんどいない。認めれば傷つくから少しだけ言い訳をし、受け入れれば苦しいから少しだけ事実を削り、その小さな歪みを守るためにもう一つ言葉を足し、昨日の言葉と今日の現実が噛み合わなくなると、今度は現実のほうを記憶の中で少しだけ書き換える。その繰り返しは、自分でも気付かないほど穏やかに続いていくから恐ろしいのであって、人は嘘を重ねているつもりではなく、自分を守っているつもりでしかない。
だから最後には、自分が何を守ろうとしていたのかさえ分からなくなる。嘘を守っていたのか、自尊心を守っていたのか、それとも壊れてしまいそうな自分を守っていたのか、その境界は何度も言葉を重ねるうちに曖昧になり、気が付けば嘘を信じているのではなく、自分が作った世界以外では生きられなくなっている。
そうなった人間へ「それは嘘だ」と告げることに意味はあるのだろうか。その言葉は相手に届かないのではない。届いたところで、それを受け入れるための現実が、もうその人の中には残っていないのである。言葉は現実を説明するためにあるはずなのに、その頃には現実のほうが言葉へ合わせて形を変え始め、人は自分の言葉の中で生き、自分の言葉の中で苦しみ、自分の言葉の中で救われたつもりになり、自分の言葉の中で滅んでいく。
そう考え続けると、この二文字はどうしても「語」より「妄」のほうが重く見えてしまう。語ることが人を狂わせるのではなく、狂ってしまった認識が語るべき言葉を選び、その言葉がさらに認識を補強し、補強された認識が次の言葉を生み、その言葉がまた現実を書き換えていく。その循環は誰かに騙されたから始まるのではなく、自分が自分を騙すことを許した瞬間から始まるのであり、その最初の一歩があまりにも小さいから、人は自分がどこで道を踏み外したのかを思い出すことができない。
だから妄語とは、嘘を語る罪ではないのだと思う。自分が作り替えた現実を疑わなくなり、その現実を言葉で補強し続け、最後には本当の現実へ帰る道を自分の手で埋め尽くしてしまうこと、その戻れなくなった認識そのものを戒める言葉なのではないかと、私は「妄」という一文字を見ているうちに考えるようになった。




