邪淫
邪淫という言葉を見れば、多くの人が性を思い浮かべるのは自然なことであり、それを間違いだと言うつもりもなく、欲によって人生を壊した人間は昔からいくらでもいて、だから欲を戒める言葉として受け取ることに不自然さはないのだが、それほど分かりやすい意味しか持たないのであれば、どうして「淫」だけでは終わらず、その前に「邪」という一文字が置かれているのか、その一文字だけがどうにも読み終わらず、誰もが「淫」を読んで納得して帰っていくたびに、置き去りにされた「邪」が、まだ読んでいないだろうと視線を向けてくる。
欲が人を狂わせるという言葉も間違ってはいない、欲は人から理性を奪い、他者を傷つけ、自分さえ見失わせることがあるのだから、それを戒めようとする考えは理解できるし、理解できるからこそ、その理解だけでは届かないものが残ることも見えてしまい、欲があること自体を邪だと言うには、欲というものはあまりにも生に近く、飢えも、眠りも、温もりを求めることも、人が人として生きている限り避けようのないものなのだから、それらと同じように湧き上がる欲だけを切り離して邪と呼ぶには、この二文字はあまりにも重く、その重さを支えているのは「淫」ではなく、その前から動かずに立っている「邪」のほうではないかという違和感だけが消えない。
邪とは何だろうと考え始めると、欲そのものよりも、欲が向かう先のほうが気になってしまい、人は他者を求めているように見えながら、本当に見ているのは他者なのかという疑問へ何度も戻り、愛していると言う人間も、信じていると言う人間も、理解していると言う人間も、その言葉自体を疑っているわけではないし、そこに偽りがあると言いたいわけでもない、それでも、人は相手を見ているつもりで、自分が見たい相手を探していることのほうが多く、優しい人であってほしい、裏切らない人であってほしい、認めてくれる人であってほしい、自分を愛してくれる人であってほしい、その願いは誰にでもあるし、その願いが生まれることまで否定する理由もないのだが、その願いを相手へ重ねた瞬間、人は目の前の人間ではなく、自分の願いで形づくられた誰かを見始め、その姿を本人だと思い込み、その思い込みが深いほど、現実の相手が少し違うだけで裏切られたと感じ、変わってしまったと嘆き、どうして理解してくれないのかと怒る、その怒りが向かっている先は本当に相手なのか、それとも壊れたのは自分の願いだったのか、その境界は驚くほど曖昧で、曖昧だからこそ誰も疑わず、自分は相手を見ているという確信だけを抱えたまま生きていける。
そう考え続けていると、邪淫という言葉から少しずつ「性」が遠ざかり、最後まで残るのは「邪」という一文字だけになり、欲を持つことではなく、欲を通してしか他者を見られなくなった認識のほうが、この言葉の指しているものではないのかという読み方から離れられず、それは恋人であろうと家族であろうと友人であろうと、あるいは名前も顔も知らない誰かであろうと変わることはなく、人は相手そのものを抱いているつもりで、自分が望む姿を抱き、自分が理解したと思える範囲だけを相手だと信じ、その外側を見落としたまま愛を語り、正しさを語り、救いを語り、それでもなお相手を見ていると思い続けられる。
だから何度この二文字を見返しても、最後まで読み終えられないのは「淫」ではなく「邪」のほうであり、その一文字だけが言葉の外へ視線を向け、人は他者を欲しているのではなく、自分の欲を満たしてくれる他者を欲しているだけではないのかと問い続け、その問いが終わらない限り、この二文字もまた読み終えることはできそうになかった。




