偸盗(ちゅうとう)
偸盗という言葉を見ていると、どうして人はここまで簡単に「盗む」という言葉を理解したつもりになれるのかが分からなくなるし、分からないというより気持ちが悪くなる、盗むとは物を奪うことだ、金を奪うことだ、財産を奪うことだと誰もが迷いなく口にするのだが、それは盗まれたと分かるものしか見ていないだけであって、見えているものを数えながら理解したなどと言われても、そんなものは盗みの後始末を眺めているだけで、盗みそのものを見ていることにはならず、本当に盗むという行為は奪われたと気付かせないところから始まっているはずなのに、誰もそこまで思考を潜らせようとしない、潜らせないというより、潜った瞬間に自分の足元まで崩れてしまうから怖いのだろう、だから皆、盗まれた財布や金額だけを数えて安心する、数えられるものならまだ残っていると思えるからだ。
数えられないものはどうする。
失ったことさえ分からないものはどうする。
人はそれを盗みとは呼ばないらしい、呼べないのではなく、呼んでしまえば今まで自分が見てきた盗みというものがあまりにも浅かったと認めることになるから呼ばないだけで、本当は笑う理由も、怒る理由も、疑う理由も、信じる理由も、もっと前に誰かに持っていかれているかもしれないのに、それを考えようともしないまま物だけ見て盗みを語る、その順番だけはどうしても理解できないし、理解したいとも思わない、理解とは思考を止めるための言い訳にしか見えないから、理解したと言う人間ほど盗まれていることに気付かないまま生きていくのだろうし、その姿を見ていると、盗む側は随分と楽なものだと思えてしまう、盗まれた本人が自分は何も盗まれていないと信じ続けてくれるのだから、これほど都合のいい盗みがあるだろうか。
だから私は「偸盗」という二文字が嫌いなんじゃない、この二文字を軽く使う人間が嫌いなんだ、盗みという行為をあまりにも安くしすぎている、盗まれたことが分かるものだけを盗みだと思い込み、盗まれたことさえ分からなくされたものを最初から存在しなかったように扱う、その鈍さが、この言葉を腐らせる、腐らせていることにも気付かず、それでも盗みを知っている顔で語る、その顔を見るたびに、本当に盗まれたものは財布でも金でもなく、人間が自分で失ったことに気付く力そのものだったのではないかという考えだけが何度捨てても戻ってきて、戻ってくるたびに私はまた「偸盗」という二文字を見つめ直してしまう。




