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五逆罪・十悪  作者: ルーツ


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【本編】上巻 肆

「私は何もしていません」

 前を歩く伊地知さんの声が聞こえた。さっきから、何度も同じことを言っている。声を荒らげるわけでもなく、こちらを振り返ることもない。ただ、歩きながら、自分は何もしていないと繰り返している。

 朝倉は少しだけ視線を上げた。その先を服部刑事が歩き、その後ろを伊地知さんがついている。駅を出てからも、スーツの背中はほとんど乱れていなかった。少し疲れているようには見える。それでも取り乱しているわけではなく、歩く速さも変わらない。

「私は、本当に何もしていません」

 また聞こえた。

 朝倉は返事をしなかった。何もしていないと言われても、それだけで信じるわけにはいかない。だからといって、駅で見たものだけで、この人が痴漢をしたと決めることもできなかった。

 その判断をするために、これから警察署で改めて話を聞く。駅では人が多すぎたし、聞こえてくる声も一つではなかった。伊地知さんの話を聞きながら、向こう側で何が話されているのかも気になっていた。

 朝倉は一度、後ろへ視線を向けた。女性警察官に付き添われた女子高生が、少し俯きながら歩いている。その隣には、さっきから彼女を気にしていた男がいた。彼氏なのだろうと思う。駅では二人の周りにも人が集まっていたから、今こうして離れて歩いていると、さっきまでとは印象が違って見えた。

 朝倉は、さっきまでいた駅のことを思い返した。女子高生は痴漢をされたと訴え、周囲にいた人たちもそれを見たと口を揃えていた。伊地知さんを腕で押さえていた男は、逃げようとしたところを捕まえたと言い、その近くでは男子高校生が動画を撮っていたと話していた。

 動画には何が映っているのだろう。

 駅では服部刑事がそれを確認していたが、朝倉のいた場所から画面までは見えなかった。何が映っているのかを自分の目で確かめたわけではない以上、そこから何かを判断することはできない。警察署へ着いたら、まず動画を見せてもらうことになるだろうし、そのうえで、駅で聞いた話と照らし合わせていけばいい。

 そう考えていると、伊地知さんがまた口を開いた。

「……会社には、ちゃんと伝わったでしょうか」

 朝倉は前を歩く背中へ視線を向けた。

 駅で電話が鳴ったとき、伊地知さんは会社からの連絡だと言っていた。出勤時間を過ぎていることを気にしていて、自分から説明しても信じてもらえないかもしれないと話したから、朝倉が代わりに電話をした。事情を伝えると、向こうもひとまず納得したようだった。

「大丈夫だと思います」

 そう答えると、伊地知さんは振り返らないまま、小さく「そうですか」と返した。

 その声に、さっきまでの張り詰めた感じが少しだけ抜けたように聞こえた。

 仕事へ行かなければならない。

 それは、この人にとってはまだ続いている日常なのだろう。朝、いつものように家を出て、電車に乗って、会社へ向かっていたはずなのに、気がつけば服部刑事と一緒に警察署へ向かっている。

 朝倉はそこまで考えて、また後ろへ目を向けた。

 女子高生は何も言わずに歩いている。

 さっき駅で見たときも、俯いたままだった。

 同じ場所にいた二人なのに、見ているものはまるで違うのかもしれない。

 そう思ったところで、警察署が見えてきた。

 朝倉は視線を前へ戻した。

 これから、もう一度話を聞く。

 駅で起きたことを、今度は落ち着いて一つずつ確認していけばいい。



 警察署の前まで来ると、服部刑事が先に中へ入り、警察官がこちらへ顔を向け、短く言葉を交わす。その間にも伊地知さんは何も言わずに立っていたが、警察署の中へ入る直前になって、一度だけ自分のスーツの袖へ目を落とした。朝倉はその視線の先を追ったものの、何を気にしているのかまでは分からなかった。

 駅を出てから、ずっと同じだった。何かを聞けば答える。自分が何もしていないことだけは繰り返す。それ以外は、こちらの言葉を待っているようにも見える。

「伊地知さん、こちらへお願いします」

 朝倉が声を掛けると、伊地知さんは小さく頷いて警察署の奥にある事情聴取室へと案内された。

 駅では人の声が絶えず聞こえていた。誰かが話し始めれば、その横から別の声が重なり、聞き取った言葉を確認しようとしているうちに、また別の話が耳へ入ってくる。だからこそ、あの場ではそれぞれから聞いた話を一度並べてみることしかできなかった。

 事情聴取室の中は静かだった。外を走る車の音は聞こえるものの、少なくともここには、さっきまでのように何人もの声が重なることはない。伊地知さんと向かい合えば、今度はこの人の話を途中で遮るものもない。

 朝倉は伊地知さんの向かいに腰を下ろした。

「改めて、最初から確認させてもらってもいいですか」

「はい」

 伊地知さんは素直に頷いた。

 朝倉は手帳を開き、駅で聞いた話を頭の中から一度切り離すようにして、目の前の男を見た。先入観を持たないようにする、というほど大げさなことではない。ただ、駅で聞いた話と、これから伊地知さん自身が話すことを混ぜてしまえば、どこで食い違ったのか分からなくなる。

「今朝、駅へ向かうところからで大丈夫です」

「分かりました」

 伊地知さんは少し考えるように視線を落とした。

「今日も普段と変わらず会社に向かう為、電車に乗りました」

 伊地知さんは、家を出てから駅へ向かったこと、いつものように電車に乗ったことを話した。朝倉は時刻や乗った車両、立っていた場所など、あとで確認できそうなことだけを尋ねながら聞いていく。そこまでの話に、駅で聞いた内容と大きな食い違いはなかった。

「二駅目を出てからしばらくして突然、痴漢って言われました」

「そのとき、何かしましたか」

「いえ、何もしてません」

 返事は早かった。

「女子高生に触れた覚えはありませんか」

「ありません。本当に、何もしていません」

 その言葉に、朝倉は手帳へ目を落とした。

「そのあと、どうなりましたか」

「俺が何もしていないって言ったら、周りの人が……」

 伊地知さんは一度息を吐いた。

「そしたら突然、おい、逃げるな! って言われて……それで腕を掴まれました。だから、咄嗟に振りほどこうとはしました。でも、それだけです。俺は本当に何もしていません」

 朝倉は黙って聞いていた。

 話の中に、今のところ大きな矛盾はない。駅で聞いた話と照らし合わせても、少なくとも伊地知さんが説明している出来事そのものに不自然なところは感じられなかった。

 だからといって、これだけで判断することもできない。

 女子高生は被害を訴えている。周囲には目撃者がいて、動画もある。伊地知さんの話だけで、それらを否定することはできなかった。

「女子高生には、絶対に触れていないんですね」

「はい」

 今度は少し間を置いてから、伊地知さんが答えた。

「絶対に触っていません」

 朝倉はその顔を見た。

 嘘をついているのか、それとも本当に何もしていないのか。今の朝倉には、それを判断するだけの材料がない。ただ、この人が自分は何もしていないと本気で訴えていることだけは分かった。

 朝倉は手帳へ目を落とし、聞き取ったことを最後に一度だけ確認した。

「分かりました。少し待っていてください」

「……はい」

 伊地知さんは小さく頷いた。

 朝倉は手帳を閉じ、椅子から立ち上がった。まだ聞き終えたわけではない。ただ、今のところ確認できることは聞いた。ここから先は、駅で聞いた話や、まだ自分の目で確認していないものと照らし合わせなければならない。

「少ししたら、また伺いますので」

「分かりました」

 伊地知さんの返事を背中に聞きながら、朝倉は事情聴取室を出た。廊下へ出ると、さっきまでいた部屋の静けさが途切れ、どこかで鳴る電話の音や、行き交う警察官の足音が耳に入ってくる。その向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。

「伊東さん、もう一度確認するけど、二駅目を出てからしばらくして、後ろから触られたんだね」

 服部刑事だった。朝倉は足を止め、少し先にある部屋へ目を向けた。扉が開いていて、その向こうに服部の背中が見える。

「……はい」

 続いて聞こえたのは、駅で何度か耳にした女子高生の声だった。

「具体的にどこを?」

「お尻です」

 服部は手帳へ目を落とした。

「相手の顔は見た?」

「振り返ったときに見ました」

「それが伊地知さんだった?」

「はい」

「間違いない?」

「間違いないです」

 伊東は小さく頷いた。

 服部はその顔を見たまま、少しだけ間を置いた。駅で話を聞いたときも、伊東は同じことを言っていた。あのときとは違い、今はその言葉を遮るものがない。

「それで、痴漢だと言った?」

「はい。怖くて……」

「そのあと、伊地知さんは?」

「何もしてないって言ってました」

 服部の手が止まった。その言葉が、さっき聞いた声と重なった。

「それから?」

「周りの人が、その人を捕まえて……」

 そこで伊東の声が止まった。服部はすぐには続きを聞かなかった。伊東は俯いたまま、膝の上で指を握り直している。

「大丈夫よ。ゆっくりでいいから」

 隣にいた女性警察官が優しく声を掛けた。

「……はい」

 伊東は小さく頷いた。

 服部はしばらく待ってから、少し離れたところにいる男へ目を向けた。

「谷口君」

「あ、はい」

「駅で撮った動画、もう一度見せてもらえるかな」

「あ、はい。これです」

 谷口はスマホを取り出すと、そのまま服部へ渡した。服部は画面へ目を落とした。駅でも一度、見ている。あのときは人の声が重なり、周囲にも人が集まっていた。今は違う。聞こえてくるのは、目の前にいる人間の声だけだった。

 服部は動画を再生した。

 しばらく画面を見たあと、指を止める。

 それから一度だけ伊東へ目を向けた。

「伊東さん、これで間違いないんだね」

「……はい。間違いないです」

 服部はもう一度、画面へ目を戻した。

「朝倉」

 廊下にいた朝倉が顔を向ける。

「はい」

「ちょっと、これ見てくれ」

 朝倉が部屋へ入ると、服部はスマホを差し出した。

「駅で見せてもらった動画ですか」

「ああ」

 朝倉はスマホを受け取った。画面には、駅で見た車内が映っている。駅でも服部が確認していたことは聞いていたが、自分で画面を見たことはない。

「これ見て、お前はどう見る?」

 朝倉は答えず、動画を再生した。

 画面を見ているうちに、駅で聞いた伊東の言葉と、さっき事情聴取室で聞いた伊地知さんの言葉が頭の中で重なっていく。どちらも、自分の見たものが正しいと言っている。その二つを並べたまま、朝倉はもう一度、画面を見た。

「……これだけで断定していいのか、とは思いますが」

「だが、これはどう見ても犯行に及んでいるようにしか見えない」


「……確かに」


 


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