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五逆罪・十悪  作者: ルーツ


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【本編】上巻 伍

「……確かに」

 服部の手には谷口から預かったスマホが残っていた。画面にはまだ動画の最後の場面が止まっていて、朝倉はその横から画面を覗き込んだまま、さっきまで見ていた映像と駅で聞いた伊東の声を頭の中で重ねていた。画面の中にいる伊地知さんの位置も、伊東が立っていた場所も、駅で実際に見たものとほとんど変わらない。事情聴取室で聞いた「私は何もしていません」という言葉だけが、そこから少し外れたところに残る。

 朝倉は画面から目を離さないまま口を開く。

「この動画、伊地知さんにも見てもらいませんか」

 服部はすぐには返事をせず、手元のスマホへ目を落とした。

「そうだな」

 画面を閉じることもなく、指先で一度だけ再生位置を戻した。さっき見た場面がもう一度流れ始め、二人の視線が自然とそこへ戻る。

 何度見ても、映っているものは変わらない。それでも服部は最後まで見届けてから画面を止め、廊下の向こうへ目を向けた。

「谷口君に聞いてみるか」

 二人が事情聴取室へ戻ると、伊東は女性警察官と向かい合ったまま椅子に座っており、その少し離れたところに谷口がいた。服部の姿に谷口が顔を上げる。

「谷口君」

「あ、はい」

「さっきの動画なんだけど、署の端末にも共有してもらっていいかな。伊地知さんにも確認してもらおうと思ってる」

「はい、大丈夫っすよ」

 谷口はスマホを受け取ると、共有先を選んで画面を操作した。

「これでいいですね」

「ああ。ありがとう、谷口君」

 服部はスマホを谷口へ返し、そのまま署の端末を手に取り、朝倉へ目を向けた。

「行くぞ」

「はい」

 二人は事情聴取室を出た。朝倉は歩きながら、服部が手にした署の端末へ目を落とす。さっきまで谷口のスマホに映っていたものと同じ動画が、今度は警察署の端末の中にある。画面を開けば、またあの車内が出てくる。けれど、今度は伊地知さん自身に見せる。駅で見たときとは違うものが見えるかもしれない。そう考えながら廊下を進んでいると、服部が先に事情聴取室の扉へ手を掛けた。

 中では伊地知さんが、さっきと同じ椅子に座っていた。

 扉の開く音に顔を上げる。

「……進展ありましたか」

 服部は署の端末を伊地知さんの前へ置いた。

「伊地知さん、こちら確認してもらえないですか」

 伊地知さんは何も言わず、画面へ目を落とした。見慣れた電車の車内が映っている。吊り広告も、窓の向こうを流れる景色も、今朝まで毎日のように見ていたものだった。自分が立っていた場所まで映っているのを見て、伊地知さんの視線が画面の中をゆっくり追っていく。

「谷口君のスマホから共有した動画になります」

 服部が端末を操作する。

「そして、こちらが被害を受けた伊東さんです」

 画面の中で、伊東が振り返った。

 伊地知さんの目が、その顔に止まる。駅で突然こちらを指差したときと同じ顔だった。あの瞬間のことが、画面の中からそのまま戻ってくる。伊東がこちらを見て、その口が開く。

「この人、痴漢です!」

 伊東の声が、事情聴取室の中でもう一度響く。

 伊地知さんの顔がわずかに強張った。画面の中では、あのときと同じように人が動き始めている。伊地知さんはそこを見たまま、何かを確かめるように目を細めた。動画はそのまま先へ進んでいく。誰かが腕を掴み、別の誰かが身体を寄せ、その隙間から別の手が入り込む。

「待ってください」

 伊地知さんの声を聞いて、服部が画面へ手を伸ばした。

「どうかしました?」

「あ、いえ。そこ、もう一度お願いできますか」

 服部が動画を止め、少しだけ戻す。朝倉も画面を見直した。

「ここですか?」

「はい」

 伊地知さんは画面の一点を見ていた。

「この手……」

 服部と朝倉が画面へ目を向ける。そこには、伊東の身体の近くに伸びた手が映っていた。

「どこがですか?」

 伊地知さんはすぐには答えなかった。

「……私、こんなふうに手を出してません」

 朝倉は画面へ目を戻した。確かに、伊地知さんのすぐ近くに手がある。伊東に触れているようにも見える。

「伊地知さん。映像だけを見ると、そう見えます」

 服部の声は落ち着いていた。

「……はい。でも──」

「ただ、伊東さんの証言とも合っています」

 伊地知さんの視線が画面から離れた。

「……そう、ですよね」

 朝倉は何も言わず、伊地知さんはもう一度画面へ目を戻した。

「……もう一度、見せてもらえませんか」

「どうぞ」

 服部が動画を戻すと、同じ場面がもう一度流れ始めた。伊地知さんは画面を見つめたまま、伊東が振り返るところから追っていく。声が響き、周囲の人間が動き出す。その流れの中で、さっき引っ掛かった手がもう一度画面へ入ってくる。

 今度は、手そのものではなかった。

 伊地知さんの視線が、その少し前へ動いた。

「……」

 何か言いかけたように口が動いたが、声にはならない。朝倉は画面を見たまま、伊地知さんが何を見ているのかまでは追わなかった。映像には、さっきと同じものが映っている。それ以上でも、それ以下でもない。

 動画が終わり服部が画面を止めた。

「何かありますか?」

 伊地知さんはしばらく画面を見ていたが、やがて小さく首を振った。

「……いえ」

「そうですか」

 服部はそれ以上聞かなかった。端末を手元へ戻すと朝倉へ目を向ける。

「一度、こちらで話をまとめます」

 そう言って二人が席を立つ。伊地知さんは何も言わず、その背中を目で追った。扉が閉まると、事情聴取室には伊地知さん一人が残された。さっきまで画面に映っていた車内が頭の中に残っている。伊東が振り返ったところから、その声が響いたところまでなら何度でも思い出せる。けれど、あの手が入る少し前になると、そこだけが途切れていた。何かを見たはずなのに、それが何だったのか分からない。伊地知さんは机の上へ目を落とした。もう端末はない。それでも、あの映像だけは消えなかった。

 どれくらい経ったのか、伊地知さんには分からなかった。扉が開き、服部と朝倉が戻ってくる。二人の顔を見ると、伊地知さんは椅子に座ったまま身体を起こした。

「……何か分かりましたか」

 服部は答える代わりに伊地知さんの向かいへ座り、朝倉もその隣へ腰を下ろした。

「伊地知さん。もう一度だけ確認させてください」

「はい」

「今朝、伊東さんに触れていない」

「はい。触れていません」

 伊地知さんの返事はすぐだった。

「何度聞かれても同じです。私は痴漢なんかしていない」

 服部は黙って伊地知さんを見ている。

「腕も、身体も、どこにも触れていません。あの人が振り返って、それから痴漢と言って、周りの人が俺を押さえた。そこまでは覚えています。でも、俺は何もしていない」

「そうですか」

 伊地知さんの目が服部へ向く。

「どうして、私がこんなことになってるんですか」

 服部はしばらく伊地知さんを見たまま、隣にいる朝倉へ視線を移した。朝倉もその目を受けると、わずかに頷いた。

「伊地知さん」

「はい」

「これから、逮捕手続きに入ります」

「……逮捕?」

 伊地知さんの顔が強張る。

「ま、待ってください」

「伊地知さん」

「待ってください。私は何もしていません」

「はい。そうおっしゃっています」

「そうおっしゃっています、じゃないでしょう」

 声が焦り混じりに大きくなる。

「やってないと何度言えば分かるんだ! 私は触ってない! 本当に何もしてないんですよ!」

 服部は声を荒らげることなく、伊地知さんを見ていた。

「だったら、どうして逮捕するんですか!」

「やっていないと言う証拠がないからです」

「そんな……」

「伊東さんは、あなたに触られたと言っている。動画にも、あなたのすぐ近くに手が映っている。駅にいた人たちからも話を聞いています」

「でも、あの手は私じゃない!」

「それを証明できますか?」

「……」

「伊東さんの話には、映像と一致するところがあります。あなたの話には、今のところ、それを覆すものがない」

「俺は……」

 伊地知さんの声が止まる。

 何か言わなければならない。あの手が自分のものではないことも、伊東に触れていないことも、何度でも言える。けれど、服部の前に並んでいるものを崩す言葉だけが出てこない。

 服部は伊地知さんから目を逸らさなかった。

「犯人だと決めつけているわけではありません。今の段階では、あなたは容疑者です」

「……容疑者」

 服部は無言のまま頷き、朝倉と目が合うと立ち上がり、ゆっくりと口を開いた。

「両手を机に」

 伊地知さんは朝倉を見たまま動かなかった。

「……何をするんですか」

「両手を机にお願いします」

 朝倉の声は変わらない。

 伊地知さんは服部へ目を戻した。服部も何も言わずに見ている。その顔をしばらく見つめ、それから視線を落とし、机の上へ両手を置いた。

 朝倉がその手元へ目を落とし、手錠を取り出すと、伊地知さんの指先がわずかに動いた。その動きを追うように朝倉の手が手首へ伸び、伊地知さんは下を向く。金属の噛み合う音がした。


「はは……」


「十三時四十六分、伊地知涼介、痴漢の容疑で逮捕します」


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