【本編】上巻 弍
突然聞こえた大きな声に、思わず顔を上げた。何を言ったのかまでは、その瞬間うまく聞き取れなかった。ただ、車内の誰かが声を上げたことだけは分かる。吊り広告へ向いていた視線が一斉に動き、スマホを見ていた人たちまで顔を上げている。何があったんだろうと思いながら、私も皆の視線を追った。
最初は誰を見ているのか分からなかった。人と人との隙間から見えるのは、立ち止まった乗客の背中や肩ばかりで、その向こうで何が起きているのかまでは見えない。それでも皆の視線が集まる先だけは何となく分かる。誰かが少し身じろぎした拍子に、その隙間から制服姿が一瞬だけ見えた。またすぐ別の乗客に隠れてしまったが、それだけで十分だった。ホームで見掛けた、あの女子高生だ。
どうして彼女が皆の視線を集めているのだろう。そう思ってもう一度目を向けると、不意に目が合った。
朝のホームでも一度だけ目が合ったことを思い出す。あの時と同じように、すぐ視線を逸らされるものだと思った。知らない相手と目が合えば、それで終わることの方が多い。ところが彼女は逸らさなかった。ただこちらを見ている。それだけのことなのに、理由の分からない落ち着かなさが胸の奥へじわりと広がり、気のせいだと思おうとしても、どうしてもそう思い切れない。居心地の悪さから逃げるように視線を外し、今度は周りへ目を向けたところで、自分の勘違いに気付いた。
皆が見ていたのは彼女じゃない。
私だった。
何人もの視線が、示し合わせたようにこちらへ向いている。誰一人として口を開いてはいないのに、それだけで車内の空気がさっきまでとは違うものへ変わってしまったような気がした。どうして皆が自分を見ているのか、その理由だけがどうしても分からない。誰かと間違えているのかと思って後ろを振り返ろうとしたが、この混み具合では体を動かすこともできず、ただ目だけが落ち着きなく揺れる。
「……え」
自分でも驚くほど小さな声だった。声にしたつもりさえなかった。
その声が届いたわけではないだろう。それでも女子高生は私から目を逸らさなかった。震えるようにゆっくりと腕を持ち上げ、その細い人差し指が真っすぐこちらを指す。
「この人、痴漢です!」
言葉の意味は分かる。何を言われたのかも聞き間違えようがない。それなのに、その言葉だけが頭の中で何度も繰り返され、肝心の意味だけがうまく結び付かなかった。痴漢? 誰が? 誰のことを言っている。そんな当たり前の疑問さえ形にならないまま、ただ女子高生の指先だけが視界の中央から動かない。
やがて、その指先が向いている先が自分なのだと理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
「……い、いや」
違う。そう言わなければならなかった。
何もしていない。ただ、それだけを伝えれば済むはずだった。そう思って口を開きかけた。けれど、その言葉より早く右腕を掴まれた。
「おいアンタ、逃げんなよ」
誰に掴まれたのかを見る余裕もない。驚いて振り向こうとしたところへ、今度は反対側からも肩へ手が掛かる。逃げようとしたわけじゃない。ただ何が起きているのか分からず立ち尽くしていただけなのに、それを待ってくれる人は誰もいなかった。
「ち、違いますって」
ようやく出た声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。
「俺は何も──」
「うわっやっば!証拠、証拠」と軽い声が聞こえ、思わずそちらを見る。斜め前にいた男子高校生がスマホをこちらへ向けていた。レンズは真っすぐこちらを捉え、画面を確認するように角度を少しだけ動かしている。動画を撮っているのだと気付くまで、一瞬掛かった。
なぜ私が?
その一言しか頭に浮かばない。
何もしていない私を、どうして撮っているんだ。
思わず周りへ目を向けても、返ってくるのは冷たい視線ばかりだった。女子高生を気遣うように見つめる人、腕を掴んだまま離そうとしない人、その様子を遠巻きに見ている人。それぞれ表情は違う。それでも、私を見る目だけは同じだった。
「次の駅で降りてもらうからな」
次の駅?
会社だ。
……まずい。
誰かに見られたらどうする。部長や営業部の佐藤に会ったら何て説明すればいい。いや、違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。まずこの誤解を解かなければ、本当に取り返しがつかなくなる。
「は、離してください!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「違うんです! 私の話を聞いてください! 本当に何もしていないんです!」
腕を振りほどこうとする。けれど、掴む力は少しも緩まらない。それどころか、もう片方の肩へ置かれた手にも力が入り、体はますます動かなくなった。
「暴れるな!」
「暴れてません!」
こんなことをしている場合じゃない。
早く誤解を解かなければ、本当に取り返しがつかなくなる。
「……分かりました」
息を整えようとしても、うまく吸えなかった。
「降ります。だから、私の話を聞いてください」
このまま押し問答を続けても何も変わらない。駅員に事情を話せば済む。何もしていないのだから、それで終わるはずだと思いながら、ひたすら電車が止まるのを待った。
やがて電車が止まり、扉が開く。
腕を掴まれたままホームへ降りる。それでも車内を出たことで、ようやく話ができるという思いの方が強かった。あれだけ人がいる車内では、誰も私の話なんて聞こうとしなかった。けれど、ここなら違う。ちゃんと事情を話せば、それで終わる。何もしていないのだから、分かってもらえないはずがない。
そう考えながら顔を上げると、向こうから制服姿の男が足早にこちらへ向かって来るのが見えた。その姿を見た瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩む。
よかった。これでようやく話を聞いてもらえる。
「どうされましたか?」




