【本編】上巻 壱
人は当たり前を疑わない。
朝が来れば目を覚まし、仕事へ行き、家へ帰る。そんな毎日が明日も明後日も続くと信じている。いや、信じているというより、それ以外を考える必要がないのだろう。少なくとも私はそうだった。三十九歳。妻と中学二年になる娘との三人暮らし。住宅ローンはまだ残っているし、給料が飛び抜けていいわけでもない。それでも休日になれば家族で買い物へ出掛け、来月はどこへ行こうかなんて話をする。その程度の幸せで十分だったし、その程度の幸せを失う理由なんて、一つも思い当たらなかった。
ピッ、ピピッ……。
目覚まし時計の音で目を開ける。もう少し寝ていたいと思わないわけじゃない。それでも起きるのは、一度目を覚ますと二度寝ができない性分だからだ。若い頃は休日になれば昼近くまで寝ていたのに、いつからこうなったのだろう。三十九歳という数字は、若いと言い切るには少し中途半端だった。
布団から出ると、寝室の外から食器の触れ合う音が聞こえた。もう起きているのかと思いながらリビングへ向かうと、キッチンに立つ妻がこちらを振り返る。
「おはよう。今日はコーヒーと味噌汁、どっちにする?」
毎朝聞かれることなのに、毎朝少しだけ考えてしまう。どちらでも構わない日だってある。それでも妻は必ず聞く。私に選ばせることが、この家の朝になっていた。
「コーヒーで」
「はいよ」
妻は笑いもせず、そのまま鍋へ向き直った。それが冷たいわけではない。毎日同じやり取りだからこそ、気負う必要がないのだろう。どうして毎朝聞くのか、一度も尋ねたことはない。「選べるほうがいいじゃない」とでも返されそうな気がして、その答えだけで十分だと思えてしまう。
二階から足音が聞こえた。
「おはよ……」
眠そうな声だけ残して、美嘉が洗面所へ向かう。
「おはよう」と返すと、軽く手を上げただけで返事はなかった。昔は何度起こしても布団から出てこなかったのに、今では目覚まし一つで起きてくる。手が掛からなくなったと言えばそれまでだが、親というのは勝手なもので、掛からなくなればなったで少し寂しくなる。
「今日、朝練なんだって」
妻が言った。
「そうだったか」
「昨日話してたじゃない」
「聞いてたつもりだったんだけどな」
「つもりじゃ駄目でしょ」
笑いながら言われると返す言葉がない。覚えていないということは、結局聞いていなかったのと同じなのだろう。
席に着き、「いただきます」が重なる。コーヒーカップを手に取ると、湯気が頬を撫で、そのまま鼻へ抜けていく。まだ熱い。それでも口を付けるのは、冷めるのを待つくらいなら、この熱さごと朝を飲み込んでしまいたいからだ。苦味が舌に残り、あとから香りが追い掛けてくる。肩に入っていた力が少し抜けた。テレビでは朝のニュースが流れている。誰も画面なんて見ていない。それでも天気予報だけは、毎朝なんとなく耳に残る。
食器を流しへ運ぶと、「そこ置いといて」と妻が言う。毎朝同じように言われ、毎朝同じ場所へ置く。だったら最初から「そこへ置いて」と言えばいいのにと思ったことはある。でも、それを口にしたことは一度もない。理由を知らなくても困らないことは、理由を知らないまま暮らしていける。十五年も一緒に生活していると、そんなことばかりが増えていく。
寝室へ戻り、ハンガーに掛けてあった上着へ袖を通す。鏡の前でネクタイを締め直すと、首元が少し窮屈になり、それと一緒に仕事の日の自分が戻ってくる。休日はTシャツ一枚で平気なのに、平日はスーツを着なければ落ち着かない。服装が人を変えるのか、それとも服を着ることで自分を切り替えているだけなのか。その違いは分からないが、少なくとも私には、この格好で玄関へ向かうことが仕事の始まりだった。
玄関では美嘉が踵を踏んだまま靴を履こうとしていた。
「踵、踏むなよ」
「もう、分かってるって」
口を尖らせながら履き直す。そのやり取りも、もう何度目だろう。明日もきっと同じことを言うし、美嘉も同じような顔をする。それでも注意するのは、直ると信じているからというより、それが親の仕事なんだと思っているからだった。
「行ってきます」
声を掛けると、妻と美嘉の「行ってらっしゃい」が重なって返ってきた。その声を背中で聞きながら扉を閉める。この数秒が、私は結構好きだった。家の中にいた自分が、扉一枚隔てただけで外の人間になる。境目なんて見えないのに、不思議とはっきりしている。
駅までの道は昨日と変わらない。犬を散歩させる老人がいて、角の家では庭木へ水を撒く音がしている。名前も知らない人たちが、昨日と同じように朝を過ごしている。それを見ていると、明日もまた同じ朝が来るんだろうと思ってしまう。思ってしまうというより、疑ったことがなかった。当たり前は、壊れないものだと信じていたからだ。
改札を抜けてホームへ上がると、思っていたより風があった。昼になれば照り返しまで暑い駅なのに、この時間だけはまだ夜の涼しさが少し残っている。腕時計を見ると、いつもと変わらない時刻だった。急いできた覚えはないが、電車が来るまではまだ少しあるらしい。
このくらいの時間は何となく手持ち無沙汰になる。スマホを見てもいいが、会社へ着けば嫌でも画面を眺めることになるし、今さらニュースを見たところで朝が変わるわけでもない。結局、ホームに立ったまま線路の先へ目を向ける。何も見えない。それでも待っていれば、そのうち電車は来る。毎朝そうだから、今日だけ来ないかもしれないなんて考えたこともなかった。
視線を戻すと、前に制服姿が二人並んでいた。同じ色のブレザーに、よく似た鞄。男の子が話し掛けるたび、女の子が少し肩を揺らして笑う。何が面白いのかまでは分からない。声もここまでは届かない。それでも二人だけで話が続いているところを見ると、途中で途切れるような会話ではないらしい。
男の子は時々身振りを交えながら話し、そのたびに女の子が頷く。ホームには他にも制服姿が何人かいるが、二人の間だけ少し時間の流れが違って見えた。電車を待っているというより、一緒にいる時間を過ごしているようだった。
周りを見れば、腕時計へ目を落としている人もいれば、スマホから目を離さない人もいる。イヤホンをしたまま目を閉じている人もいた。皆それぞれ違うことをしているのに、電車を待っているということだけは同じだった。私もその一人だ。あと数分もすれば会社へ着き、午前中の会議が始まる。昨日のうちに資料は見直した。たぶん問題ないだろう。
線路へ目を戻そうとした時、女の子と目が合った。
ほんの一瞬だったが、お互いすぐに視線は離れた。向こうは何事もなかったようにまた男の子へ向き直り、続きを話し始める。私も線路へ視線を戻す。朝の駅で知らない誰かと目が合うくらい珍しいことじゃない。気にするほどのことでもなく、そのまま忘れてしまうような出来事だった。
やがて、遠くから電車の走る音が近付いてきた。
線路の先に銀色の車体が見え、急行電車がホームへ滑り込んでくる。待っていた人たちが一斉に前へ詰め、私もその流れに合わせて白線の内側へ足を寄せた。
ブレーキの音とともに電車が止まり、扉が開く。降りてくる人をやり過ごしてから車内へ足を踏み入れると、思っていた以上に人が多かった。
空いている場所を探すような余裕はない。流れに押されるまま奥へ進み、どうにか立てそうな場所で足を止める。肩と肩が触れ合うほどではないが、少し体勢を崩せばすぐ誰かにぶつかりそうだった。やがてドアが閉まり、小さく揺れながら電車が動き始めた。
満員と言っても身動きがまったく取れないほどではない。それでも腕を動かせば誰かの肩へ触れそうなくらいには人が詰まっている。ブレーキやカーブのたびに体が少し流され、そのたびに踏ん張り直す。
視線を上げると、吊り広告がゆっくり揺れていた。新しくできる分譲マンションの広告らしい。駅から徒歩五分。子育てに最適な住環境。そんな文字が目に入る。住宅ローンがまだ残っている身としては、もう縁のない話だと思う。それでも広告というのは不思議なもので、見るつもりがなくても何となく目で追ってしまう。
そのまま広告から視線を外すと、午前中の会議のことが頭に浮かんだ。新しい案件の話があったはずだ。昨日見直した資料に問題はなかったと思うが、部長から何か言われるかもしれない。昼までに終われば午後は取引先へ向かう予定だった。急ぎの仕事もなかったはずだし、今日は比較的早く帰れるかもしれない。
そういえば、美嘉が朝練だと言っていた。帰る頃にはもう家にいるだろう。夕飯は何だろうか。昨日の残りを使うと言っていたような気もするが、そこまでは覚えていない。
一駅目で何人かが降り、入れ替わるように人が乗ってくる。少しだけ体を動かせるようになったかと思えば、すぐ別の誰かが入り、その隙間も埋まってしまう。朝の通勤時間なんて、どこもこんなものだ。
ドアが閉まり、再び電車が走り出す。窓の外では見慣れた街並みが後ろへ流れていた。吊り広告が揺れ、その奥では液晶画面に天気予報が映っている。今日も暑くなるらしい。朝からこれだけ蒸しているのだから、昼には上着が邪魔になるだろう。取引先まで歩くだけでも汗をかきそうだ。
無意識にポケットへ手を入れかけて、やめた。この混み具合でスマホを取り出す気にはならない。会社へ着けば嫌というほど見ることになるし、今急いで確認しなければならない用件も思い当たらない。
やがて二駅目へ滑り込み、ブレーキの音とともに電車がゆっくりと速度を落としていく。ホームが窓の外を流れ、扉が開く。降りる人が前へ出て、その隙間を縫うように乗客が乗り込んでくる。一瞬だけ人の流れができたものの、それもすぐに収まり、少しは空くだろうと思った車内は結局ほとんど変わらなかった。
発車を知らせるブザーが鳴り、扉が閉まる。軽い揺れとともに電車はホームを離れ、レールの継ぎ目を越えるたび、小さな揺れが足元から伝わってくる。周りの人たちの身体もわずかに傾くが、誰も気にしていない。自分も同じだった。
誰かの鞄が腕へ触れた。少し体勢を直すと、相手も気付いたのか小さく位置をずらす。お互い何も言わない。それで済むのが朝の電車だった。
窓ガラスへ映る自分の姿が、トンネルを抜けるたびに薄く現れては消える。寝癖は直したつもりだったが、前髪が少し浮いているようにも見える。まあ、会社へ着く頃にはどうせ崩れている。あと十分もすれば駅へ着く。会社まで歩いて、始業前にコーヒーを一杯飲めるくらいの時間はあるだろう。
そう考えながら、無意識にネクタイの結び目へ指先を添えた。
「痴漢!」




