瞋恚(しんに)
瞋恚とは、怒りのことだと教えられてきた。しかし、人は誰かを傷付けられれば怒り、理不尽な出来事に直面すれば憤りを覚える。その感情があるからこそ、自分の痛みを知り、誰かの痛みにも気付くことができるのだから、怒りそのものを悪と呼ぶのであれば、人は何を守るために心を動かせばいいのだろうと、私は長い間考えていた。
怒りがあるから人は間違いを間違いだと言うことができる。昨日まで信じていたものが壊されたとき、その喪失を受け入れられないから怒るのであり、失いたくなかったものがあったからこそ、その感情は生まれるのだと思っていた。怒りは人を苦しめることもあるが、それは何かを大切に思っていた証でもあるのだから、決してあってはならないものではないのだと考えていた。
それでも瞋恚だけは戒められ続けてきた。その違いは何なのだろうと考え続けているうちに、人は怒っている間は、まだ相手のしたことを見ているのだということに気付いた。傷付けられた出来事を思い返し、その言葉や行いを許せないと思うから怒るのであって、その怒りは最後まで出来事から離れることはない。
けれど、怒りは長く抱え続けるほど少しずつ姿を変えていく。何が許せなかったのかを思い返すより先に、誰にされたのかだけが心へ残り、その人の言葉も、その人の行いも、その人が見せるどんな表情さえも、すべて同じ意味を持つようになってしまう。そうなると、人は相手を見ているつもりで、もう相手を見てはいないのかもしれない。
自分が信じた、その人だけを見ている。
だから瞋恚とは、怒りを抱き続けることではなく、一人の人間を、もう変わることのない存在だと信じてしまうことなのかもしれない。そして人は、その人が何をしたのかではなく、その人はそういう人間なのだと思い込むことで、自分は怒っているのではなく、ただ相手を正しく理解しているだけなのだと信じ続けることができてしまう。




