第7章第7話
息を飲んだ瞬間──感染者が物凄いスピードで動き出した。
すぐさま駆け寄ってきた感染者の頭に、思いっきりバールを振り落とした。
一度でダメなら二度、三度と何度も振り下ろしたが、バールをガシッと掴まれてしまった。
そのまま凄まじい力で奪われると、感染者はバールの両端を持ち平然と折り曲げてしまった。
そして、再び強烈な前蹴りが飛んでくる。
ブロックしたら腕が粉砕される。
俺はバックステップで何とかギリギリ鼻先で回避したが、物凄い風圧で吹っ飛んだ。
だが、吹っ飛んだ背中に、何やら柔らかいクッションのような感触が当たった。
──何だ!?
慌てて振り向いた瞬間──俺は一気に血の気が引いた。
なんと、そこには俺を受け止めるように抱きしめている白石詩織が立っていた。
なんで詩織がここに!?
前方の化物に後方の詩織。
あ、これ完全に詰んだわ。
死を覚悟したその時。
詩織はどこかで見たような懐かしい微笑みを浮かべると──俺を庇うようにして、その小柄な身体で化け物の前へと立ちはだかった。
ターゲットを詩織に狙いを変えた感染者は、彼女に向けてさっきの得意の前蹴りを叩き込む。
だが、詩織は表情一つ変えずにその蹴り足をガシッと掴み取ると、そのまま猛烈な勢いで旋回させ、近くの空き教室のドアに叩きつけた。
激しい破壊音とともに、空き教室の木製のドアは見事に吹っ飛んだ。
詩織は倒れている感染者に歩み寄ると無造作に、その頭部を両手で掴んだ。
──ボキッ、ブチッブチッ、と鈍い嫌な音が響く。
まるでペットボトルのキャップを開けるかのような軽さで、彼女は男の頭部を強引に捻り回し、胴体から引きちぎったのだ。
マジか!? 何てパワーしてやがるんだよ。
唖然とする俺をよそに、詩織は何事もなかったように俺の傍に戻って来ると、愛おしそうに両手を首に回し、ぎゅっと豊かな胸を押し付けるように抱きついてきた。
何が何だかわからない俺は、ただその柔らかい感触に身を委ねるしかなかった。
──その後。
武器を無くした俺はどうしようかと途方に暮れていたが、現れた感染者を詩織がゴミを片付けるように次々と一撃で葬り去っていき、あっさりと一階まで戻って来ることができた。
そう言えば、確か調理室は一階の西側の廊下にあるって言ってたな。
俺は保健室に戻る前に、調理室に向かうことにした。
詩織が俺の腕に抱きついてくると、とろんとした瞳で俺をじっと見つめてくる。
白石詩織は俺より一つ下の今は二十四歳だ。
初めて店に来たのは彼女が二十歳の時。
友達に強引に連れてこられて最初は借りてきた猫のように萎縮していたが、俺が相手をすると徐々に笑顔を見せてくれるようになった。
酒が弱くて、一口飲んだだけですぐに頬を赤くしていたっけ。
それから店に来るたびに、俺を指名してくれるようになった。
いつも暗い色のシンプルな服を着て、店では小難しい小説の話ばかりをしていた地味な女性。
あの時と変わらない姿の詩織が、今、俺の腕にピッタリと抱きついて歩いている。
二の腕に伝わるマシュマロのような柔らかい感触。
相変わらず胸のボリュームが規格外だな。
しかし、さっきから詩織は一言も喋らないし、どこか虚ろな目をしている。
明らかに普通ではないが、特に害は無さそうだ。
見た目は完全に人間なのだが、どこか感染者に近い不気味な雰囲気を纏っている気がする。
襲いかかる感染者を、詩織が無双しながら道を切り開き、俺たちは調理室と書かれたプレートが掲げられた教室の前に辿り着いた。
ここが調理室か。
俺は鍵を開けると、室内に足を踏み入れた。
奥にある調理準備室の鍵を開けて中に入り、包丁が入ってる保管庫のロックを解除する。
保管庫の中には、包丁ケースが二十個ほど整然と並んでいた。
辺りを見渡すと、ちょうどいい事に台車が置いてある。
俺は保管庫の包丁ケースを、次々と台車に積み上げていった。
さて戻るか。
廊下に出て台車を押そうとすると、当然のように詩織が後ろから抱きついてきた。
……めちゃくちゃ歩きにくいんだけど。
◇◇◇
道中、遭遇する感染者を詩織が全て瞬殺してくれたので、拍子抜けするほどあっさりと保健室の前まで戻って来られた。
だが、俺は詩織をみんなにどう説明しようかと頭を抱えていた。
うーん? まあ……友人ってことで押し通すしかないか。
俺は考えるのを放棄し、保健室のドアをノックした。
「おーい、俺だ。開けてくれ」
「お兄ちゃん! 無事だったんだね!」
中から陽咲の、嬉しそうな上ずった声が響く。
「ああ、何とか生き延びた」
「お兄さん! 良かった!」
凛ちゃんの安堵したような明るい声。
ドアが開き保健室へと入ると、陽咲と凛ちゃんが小走りで駆け寄ってきた。
「「お帰りなさい」」
少し涙ぐんでいる陽咲と凛ちゃんが、笑顔で迎えてくれた。
「「恭伸さん! 無事だったんですね!」」
渋谷と目黒の山手線コンビが、男泣きをしながら出迎えてくれた。
「お帰りなさい。桜井さん」
星野さんが聖母のような優しい微笑みを浮かべ、俺の手を優しく握ってきた。
雪村先生や鈴原さんも笑顔だ──だが、俺の後ろにぴったりと張り付いている詩織を見た瞬間、空気が物理的に凍りついた。
「お兄ちゃん……その、張り付いている女の人は誰?」
「ど、どの人かな?」
「……お兄ちゃんに、隙間なく密着して抱きついてる人だよ」
「え? 俺には見えないなぁ。守護霊とかかな? 陽咲は霊感が強いんだな……あはは」
「ふざけるのはやめてね?」
さっきまでの天使の陽咲が、一瞬で般若の形相にシフトチェンジした。
「こ、この人は俺の古い友人の白石詩織さんだ。陽咲は会うの初めてだったな。さっき偶然会ったんだよ。はははっ」
「で、何でそのお友達はお兄ちゃんに抱きついてるの?」
「な、なんでだろう? 寒いのかも? 詩織は昔から冷え性なんだ……」
「別に抱きつかないでも、何か羽織ればいいんじゃないですかね?」
星野さんのいつもの優しい笑顔は消え去り、氷のような冷たい視線が俺に突き刺さる。
「し、詩織はめちゃくちゃ人見知りで超無口だが、仲良くしてやってくれ。あはは……」
「……いったん、お兄ちゃんから離れてくれないかな? 詩織さん」
陽咲が詩織を睨みつける。
しかし。
「…………」
詩織は無言のまま、俺を抱きしめる腕の力をさらに強めた。
もしかして、詩織は言葉を理解していてわざとやってるのか?
「……とりあえず座ろうか」
この緊張感に耐えかねて、俺が丸椅子に腰掛けると、詩織は俺の膝の上に跨がるように座り、背中に手を回して抱きしめてきた。
太ももに伝わる柔らかい感触と、目の前に迫る圧倒的なボリューム。
心地いいな……などと思える状況ではない。
そもそも俺はこのか細い腕で、あの感染者の頭部を引きちぎっているのを目の当たりにしている。
もし、拒絶して怒った詩織に暴れられでもしたら、ここは一気に修羅場へと変わってしまう。
しかし、さっきから黙ってじっとこちらを観察している、雪村先生の目が完全に据わっている。
凛ちゃんも自分の席を取られて怒っているのか、めちゃくちゃ怖い顔をして詩織を睨み付けている。
みんなお願いだから、仲良くしようよ……。
「……あの、生徒たちもいますので、そういうのは二人きりの時にお願いできませんかね?」
星野さんが顔をピクピクと引きつらせながらドスの利いた声で言った。
「し、詩織。いったん離れようか? ほら、隣の椅子に座りなさい」
「…………」
詩織は相変わらず無反応で、動く気配すら微塵もない。
重苦しく、何とも言えない気まずい時間だけが過ぎていく……。
「恭伸さん。この台車に乗ってるの包丁ケースですよね」
空気を変えるように、渋谷が台車に目を留めた。
「ああ、調理室から運んで来たんだ」
「箒とかデッキブラシの柄に固定すれば、即席の槍になりますね」
不知火が、目を輝かせて提案する。
確かに、ブ◯ピが某ゾンビ映画で同じような武器作っていた気がする。
「いや、それは対人間用の武器だから感染者には使うなよ」
「え? なんでですか?」
「人間の頭蓋骨は想像以上に硬いんだ。映画やドラマみたいに包丁でサクッとはいかないぞ。滑るか下手すら折れるだけだ」
「……そうなんですね」
渋谷と目黒が、なるほどと残念そうな顔をしている。
「ただ、対人間の護身用には十分使える。携帯できるように厚紙で鞘を作ってくれ」
「了解っす。任せてください」
渋谷たちはさっそく紙を集めて、包丁の鞘を作り始めた。
作業する彼らを見ながら、俺は備蓄倉庫で遭遇した、あの新種の感染者のことを思い出していた。
──あの異常な強さはは突然変異なんだろうか?
人を襲うが、肉は喰らおうとせず、ただなぶり殺すことを楽しんでいるように見えた。
圧倒的なパワーとスピードだけでなく、明らかに他の感染者とは違い、知能も高そうだった。
あの感染者以外にも新種はいるのか?
もし、もっといるとしたら、ここで籠城していていいのだろうか?
こんなバリケードは単体でも簡単に突破されるだろうし、もし、集団で襲われたらいくら強い詩織がいても守りきれないかもしれない。
「みんな、ちょっと話しておきたいことがあるんだ」
「何? お兄ちゃん? 本当はその人と付き合ってるのを認めるの?」
陽咲と凛ちゃんが、なおもジト目で詩織を睨みつけたままだ。
「ち、違う、新種の感染者の話だ」
「新種の感染者ですか?」
星野さんが、すっと表情を真剣なものに変えた。
「あの、備蓄倉庫に現れた感染者のことですか?」
雪村先生が、怯えた顔で尋ねてくる。
「はい、あの個体は身体能力が他の感染者と明らかに違いました。 知能も高く、悪意もありました」
「悪意ですか……?」
星野さんが、息を呑む。
「人を殺すのも遊び感覚で、楽しんでいるように見えました。もし、あんな個体に複数体で襲われたら、おそらく俺たちは全滅します」
俺の言葉に、保健室の空気が一気に冷え込み、みんなの顔がみるみるうちに青ざめていった。
「でも、あいつは恭伸さんが倒したんですよね?」
渋谷が険しい顔で、俺を見つめる。
「いや、俺が倒したわけではない。っというかパワーもスピードも桁違い過ぎて、俺では手も足も出なかった」
「……え?……」
渋谷は驚愕の表情を浮かべている。
実際に倒したのは、俺の膝の上にいる詩織なのだが、そのことはまだ黙っておこう。
もし、詩織が感染者だとみんなにバレたら、みんなが怯えてしまうかもしれない。
「ここから脱出して、もっと頑丈な拠点に移動することも考えた方がいいと思います。まずはリュックを集めて必要な物資を詰め込みましょう」
「……わかりました。で、いつまでいちゃいちゃ抱き合ってるつもりですか?」
星野さんが氷点下の冷たさを宿した、凍てつくような美しい微笑みを浮かべている。
抱きつかれているだけで、抱き合ってはいないのだが。
読んでくださりありがとうございました




