中編
――中指は細くも力強く屹立している。手の印象は指を追うごとに色めき立ち、華やかになっていく。
「二時間とか掛かります?」
「そこまではいかないと思いますよ」
安心したように荻野さんは息を吐く。
「デートですか?」
「彼氏の誕生日。まぁ、ネイル褒めてくれたことなんて一度もないけど」
男ってそうゆうものよねとも思うけど、女が男を面と向かって褒めているとも言えない。そこが違うのだろうな、とモテる人間を見ると思う。
「どうして分からないのかなぁ。自分の為なんてたかが知れてるじゃないですか」
「そうですねぇ」
おやおや。始まりますか。
「美容室行くのもネイルするのも。スキンケアなんて触らないと分からないからね」
「男性の多くはそういうところに気を配るのが苦手ですから」
愚痴が天気の話みたいに。自然な調子で口から出てくる。こういう話は体力を吸われるから嫌だ。
「だいたいなんでも仕事がって言えば許されると思ってるの」
「……仕事に燃えてる俺カッコいい的な」
ぽろっと口に出た。
「そう。そんで疲れたぁとか言って。疲れてる時ってぇ」
「なんか変な匂いするのよね」
「抱きついてきたら本気で怒る」
でも拒否されて笑うのが可愛いのよ。
「で、照れ隠しに笑うのがちょっと可愛い」
分かる。分かるわぁ。分かっちゃうっ。
ジョッキを持とうとした手が空振り、我に返る。
なんだか妙に気が合うな。
「サンプルを乗せていきますね」
既にジェルが塗られた付け爪を用意する。
まずは青から。青だけでも種類は多く、取り敢えず片手に収まる五種類を右手の小指から順番に乗せていく。
「どれもカワイイですね」
さっきの会話のお陰か、上機嫌で荻野さんは言った。
「有難うございます。左手には緑色を乗せてきますね」
無意識なのか、唇をすぼめて自分の指を見る。おバカそうな仕草だけど、それが男心をくすぐるんだろうな。
「んと、どれもいいなぁ。お姉さんの色って人差し指のですか」
「その色が似ているかと思います。実は、他のお店で塗ってもらったもので」
着信音がバックから鳴る。北村匠海さんの『猫』だった。この前、紅白でも披露していた曲だ。
「あ、電話だ。彼からだ」
出ていいですか、と目が聞く。
まだ色が決まってないのに。仕方ない。
「どうぞ。他にお客様もいらっしゃるので小さめの声でお願いします」
取り敢えずベースだけ塗っていこう。
――サッと払った余韻が筆から指に伝わる。固まった空気を動かすような筆運びだった。
彼氏の浜崎陽介は同じ大学の同じ政治経済学部だったが、きっかけは大学じゃなかった。
明治大学に入学したのは色々理由がある。
駅伝のランナーが恰好よかったとか、都会の大学だからとか。他にはブランド好きなお母さんが喜ぶとかだ。
お母さんは私がネイリストになったことを今でも快く思ってはいない。丸の内にあるオフィスビルみたいな、オシャレな職場で企業勤めして欲しかったみたいだ。ネイルサロンは起業しやすい分だけ廃業の数も多い。
かくいう私もそうするつもりだった。でも就職活動はうまくいかなかった。
大学生活をもう少し有意義に使えたとは今でも思う。男の温もりというのはなかなかもって魔性だ。頷いているだけでデートは進み、求めているものが提供される。
「大学ってさ。言われたことをやれば褒められる高校までと違って、自主性がないとただ四年が過ぎていくだけよね」
大学も終わりの頃合いだった。陽介の狭い下宿でどこが面白いのか分からないドラマを見ている。
「そうか? 課題とかやっている内に過ぎるじゃん。卒論なんてやばかったよな。三年の初めにやってから、気付いたら今だよ」
就職活動を終えた陽介はあと卒論だけという状態だ。私は年末になんとかネイルサロンに決まった。面接が二回しかない、小さな個人経営のところだ。ネイルは部屋に道具を揃えて、自己流で練習して、たまに友達にやってあげたりするぐらいの趣味だった。だからこんな風に役立つとは思わなかった。
「なあ」
肩に手が触れる。ドラマのシーンが濡れ場に入っていた。
陽介と付き合ったのはタイミング以外にない。マッチングアプリの男とカフェした帰りの新宿駅で、陽介と会った。
お互いに、顔は知っていたらしい。暇なら飲もうと誘われて、むしゃくしゃした思いを晴らすので付き合って、それからだ。
陽介が微妙なら、マッチングアプリで次を見つければいい。前の彼氏も、そう思いながら付き合った。
都心は見つけやすいのも問題だ。
同じように整えられたプロフィール写真は、知人なら本人とようやく分かる程度の近似度。うまく嘘をついて表層を誤魔化す中身のない男たち。その中に猿みたいな性欲だけ詰めていればまだいいが、中には動画を撮って売ろうとしたり、闇バイトに誘ってきたりする。
ベッドが狭い。シーツを掴もうとして腕が落ちると、ドキッとする。
……分かるのは私も似たようなものだから。
吹けば飛ぶような意志の灯で照らされた私の内は空っぽだ。
みんなもそうだろうと思っていた。少ないが私よりも空っぽの人間も居るだろうとも。
ただ、私の空洞は歪だった。中で誰かが手を鳴らしても響かない形をしていた。それは自分で考えることを放棄している人間の空洞だった。親の言う通り。教科書の言う通り。世間の言う通り。ネットの言う通り。自分と同じ意見を集め、反対意見は全て後ろに流して、なんてことないように振る舞う。
そんな私だがむしろ、生きたいように生きているつもりだった。自分で決断できたことなどないくせに。
――親指は一本だけ勝手が違う。ずんぐりむっくりしたフォルムは勿論。他の指と違って上を向く為には空中で静止させなければならない。高さが違うとやりにくい。平時が横向きだから、横から見られることも加味したい。
フレンチネイルは爪先の白い部分を覆うように塗るネイルだ。透明感のあるベースを使い、自然で上品なオシャレを楽しめる。
菱形カットはそこから派生した塗り方だ。爪先だけでなく、爪の中心に向かって山を作るように塗る(上から見るとイチョウの葉に似ている)。シックで、他の人とネイルが被りづらい。
彼女の肌に合いそうな緑色と青色。それとフレンチネイルではオーソドックスの白色も用意した。電話を終えた荻野さんは悩む様子もなく、人差し指に置いたサンプルを選ぶ。深海の色だ。
「じゃあ、この青色でお願いします」
「菱形カットで施術していきますね。彼氏さんでした?」
電話口の声が弾んでいた。
「仕事で遅れるって。あれ、その」
彼女の視線の先には名刺入れがある。大きくMとだけロゴされていた。合成皮革は安っぽいけど丈夫だ。何枚名刺を入れさせるのかと思うほど分厚い。それほど仕事がうまくいくようにとの願いだろうか。
私は名刺を持ち歩く習慣がないのでペン先入れにしてしまった。ラインを引くのや文字を書くの、装飾を施す用と種類はどうしても増える。だから大きいのが丁度よく、結構気に入っている。
「卒業する時に貰うやつですよね。明治大学の。私もです!」
話が進むと私が荻野さんの二つ上の学年だったことが判明した。学科も彼女が経済で私は経営と、普段使う教室も近い。
「彼氏が二つ上なので、お姉さんと同じ年ですねぇ」
荻野さんは器用に手だけを動かさないまま、ころころと表情を変えた。
「うわあ。凄い偶然ですね」
「浜崎陽介って同じ経済学科なのですけど」
「っんう」
不思議な反応に荻野の視線がちろりと上がった。
「知らないような、知ってるような名前ですねぇ」
「ハマちゃん思い浮かべたんじゃないですかぁ。釣りの」
「たはは。そんなことないですよっ。お仕事はどうですか」
「システムエンジニアなんですけど。先輩たちは人使い荒いですし、私がやる必要ない残業ばっかりで。今日も有休取るの大変でしたよ」
「じゃあ、今日は精一杯遊びましょうね」
彼女はさっきなんて言った?
「はぁ。お姉さんはやりたいことを仕事にして羨ましいです」
誰が彼氏だって?
「いえいえ。私なんて、就職浪人するところをここで拾ってもらったんです」
「私は逆でした。就職は簡単に終わっちゃった。四年生なんてほとんどなにもしてないですもん。三年しか通ってないなら、余計な一年分の学費で奨学金も賄って欲しいですよ」
萩野さんの声が急に遠くなる。口は動き、声も聞こえるのに脳が言葉を認識しない。
浜崎陽介が荻野さんの彼氏?
「あの。……あのっ」
やばい。ぼうっとしながら色を塗ってた。
「あっ、すみません」
ウサギが跳ねるような勢いで小森さんが首をこっちに向けたのが視界の端で映った。心配そうに聞き耳を立てているのが、横を見ずとも目に浮かぶ。
「これって左右で色を変えるのもありですかね」
「カワイイと思いますよ。でしたら、迷っていた緑色にしますか?」
「いいんですかぁ」
「勿論ですよ」
さっさと塗ろう。いえ、もっと話をしないと。まず何から聞くべきか。田湖の悩む心とは別に、体は練習した動きを忠実に遂行していく。




