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10秒の数理

1. 牙を剥くエリートたち

ルミナス王国の愚物どもが炭鉱の底で泥を掘り、地下牢で罪を数え始めた頃。

大陸最強の超大国であるグラン・エルバ帝国の首都は、新たなる「知の怪物」の本格的な参戦によって、静かに、だが確実にその血流の速度を速めていた。

「――認めん。断じて認めんぞ! 我ら帝国最高経済院インペリアル・アカデミーが3ヶ月かけて算出した『大陸横断魔導鉄道』の予算案だぞ! なぜ他国の、それも落ちぶれた元悪役令嬢ごときに、一瞥しただけで『ゴミ同然』と言われねばならんのだ!」

怒号が響いたのは、帝国の経済政策の最高決定機関、最高経済院の大講堂だった。

声を荒らげているのは、経済院の若き天才と謳われ、次期院長候補の筆頭でもあるハインリヒ・フォン・バウアー男爵。弱冠24歳にして、帝国の複雑極まりない複式魔導簿記を修めた、プライドの塊のような男だ。

彼の周囲には、帝国の全経済官僚、高位貴族、そしてお抱えの数理魔術師たちが数百名、ルミエラを糾弾せんとばかりに鋭い視線を突き刺していた。

その中心に設置された白磁のデスクに、ルミエラは優雅に座っていた。

今日の彼女が身に纏っているのは、ルミナス王国時代の華美なフリルのドレスではない。帝国の最高級シルクを用いた、機能美と洗練を極めた漆黒の「女性官僚用パンツスーツ」だ。燃えるような赤髪は高い位置でポニーテールに結ばれ、その知的な美貌は、並み居る帝国の男たちを気圧すほどの鋭いオーラを放っていた。

「ハインリヒ男爵。声を荒らげる前に、ご自身の計算違いを恥じ入るべきではなくて?」

ルミエラは、デスクの上に広げられた厚さ30センチメートルはある魔導計算書の束を、細く美しい指先でトントンと叩いた。

「この大陸横断鉄道の敷設計画、東部国境の『魔導結界の干渉によるエネルギー減衰率』が、完全に固定値で計算されていますわ。結界は季節や月の満ち欠け、さらには周辺の魔獣の活性化によって常に流動するもの。それを一律で『0.03%』と見積もるなんて、机上の空論にも程がありますわよ」

「な……、流動値だと!? そんな複雑な多変数関数、人間の脳でリアルタイムに計算できるわけがないだろう! だからこそ、過去10年の平均値から弾き出した『0.03%』という最適値を適用しているんだ! これ以上の理論など存在しない!」

ハインリヒが顔を真っ赤にして論破しようと一歩前に出る。

「存在しないのではなく、あなた方の頭脳が追いついていないだけですわ」

ルミエラはフッと、冷徹な微笑みを浮かべた。

彼女は手元に置かれた、ギルバート皇太子直属の特権を示す「黄金の魔導ペン」を手に取ると、大講堂の空間に向けて、鮮やかに術式を描き殴った。

キィン、と硬質な魔力音が響き、講堂の空中へ巨大な青白い数式が浮かび上がっていく。

「これが、結界の流動性と鉄道の魔力消費効率を完全に同期させた『動的最適化数理モデル』ですわ。――ハインリヒ男爵、10秒あげますから、あなたのその自慢の頭脳で検算なさって?」

2. 10秒の蹂躙

講堂全体が、凍りついたような静寂に包まれた。

ハインリヒは、空中に浮かび上がった数式を見た瞬間、言葉を失った。彼の目は狂ったように見開かれ、額から大粒の汗がボトボトと書類の上に落ちていく。

数理魔術師たちもまた、手元の計算機アバカスを叩くことすら忘れ、口を開けてその数式を凝視していた。

「な……、なんだ、この美しすぎる数式は……」

一人の老魔術師が、震え声で呟いた。

「東部領の気候変動、魔獣の繁殖期、さらには帝都の夜間電力消費の余剰分までが……すべて、たった一つの関数の中に、完璧な歯車のように組み込まれている……。こんなもの、人間の業ではない……!」

1秒、2秒、3秒……。

ハインリヒの脳内で、ルミエラが提示したロジックが爆発的な速度で理解されていく。と同時に、自分が3ヶ月かけて仲間たちと作り上げた予算案が、どれほど泥臭く、不完全で、無駄に満ち溢れた「ゴミクズ」であったかを、嫌というほど分からせられていた。

「――10秒経ちましたわね」

ルミエラはパチン、と指を鳴らした。空中の数式が、光の粒子となって消え去る。

「この私の数理モデルを適用すれば、鉄道の初期敷設コストは**15%削減、さらに稼働後の年間魔力維持費は22%**カットできます。帝国の国家予算にして、金貨約80万枚分の『浮き』ですわ。……さあ、ハインリヒ男爵。これでもまだ、私の意見を認めないと仰いますか?」

ハインリヒはガタガタと両膝を震わせ、やがて、その場にドサリと崩れ落ちた。

彼のプライドは、ルミエラという圧倒的な「知の暴力」の前に、文字通り木っ端微塵に粉砕されたのだ。

「ぼ、僕たちは……3ヶ月間、一体何をしていたんだ……。こんな、たった10秒で捻り出されたロジックに……完全に、負けたのか……」

周囲の官僚たちも、もはやルミエラを「他国の女」と見下す者など一人もいなかった。彼らの目に宿っているのは、底知れない「畏怖」と、圧倒的な天才に対する「狂信」の光だった。

「素晴らしい。やはり君をこの部屋に連れてきて正解だったな、ルミエラ」

講堂の二階席、影に隠された特等席から、パチ、パチ、とゆっくりとした拍手が響いた。

姿を現したのは、帝国の絶対的な次期支配者、ギルバート・フォン・エルバ皇太子だった。彼は軍服の外套を翻しながら、ゆっくりと階段を下り、ルミエラの隣へと歩み寄った。

ギルバートの極夜の瞳は、講堂の誰よりもギラギラと、狂おしいほどの愉悦と独占欲で輝いていた。

「最高経済院の精鋭どもが、揃いも揃って形無しだな。ルミエラ、君がこの国に来てわずか数日だが……帝国の『内政』の効率は、すでに通常の3倍の速度で回り始めているぞ」

「殿下が無茶な案件ばかり私に丸投げされるからですわ。少しは私を労わってくださってもよろしいのではなくて?」

ルミエラが少し拗ねたように視線を送ると、ギルバートは低く笑い、全官僚の目の前で、ルミエラの細い腰をグッと我が物顔で抱き寄せた。

「ああ、いくらでも労おう。今夜の晩餐は、君の好きな最高級の海の幸を用意させている。……だが、その前に、君に片付けてもらいたい『次のゲーム』が届いているんだ」

3. 暗躍する「真の敵」

ギルバートが合図を出すと、彼の影から直属の密偵がすっと現れ、一本の、禍々しい紫色の封蝋が施された書状を差し出した。

ルミエラはその紋章を見るなり、美しく整えられた眉をピクリと動かした。

「……西方の宗教大国、聖シュトウヴァル教国からの親書、ですわね?」

「そうだ。あの偏執的な神官どもが、我が帝国の急速な技術革新と、経済圏の拡大を警戒し始めたらしい。表向きは『大陸平和のための親善訪問』と称しているが、裏では帝国の関税同盟を切り崩し、我が国の魔導技術を盗み出す算段だろう」

ギルバートの顔に、いつもの「冷酷な死神」としての鋭い笑みが浮かぶ。

聖シュトウヴァル教国。それは、ルミナス王国のような小国とは比べ物にならない歴史と、大陸の信徒の半分を牛耳る、帝国の最大のライバルとも言える巨大勢力だ。彼らは「神の教え」を盾に、他国の内政に干渉し、裏から国を乗っ取る陰険な外交術を得意としていた。

「教国は、今回の訪問の全権大使として、あの『神聖廷の白狐』と呼ばれる枢機卿、ジャン・ルクレールを送り込んでくる」

「ジャン・ルクレール……。あの、微笑みの裏で数々の国を経済破滅に追い込んできた、外交の化け物ですわね」

ルミエラは手紙の文面を追いながら、唇の端を不敵に釣り上げた。

ルミナス王国のエドワードやマリアのような、感情だけで動くイージーモードのバカはもういない。ここから先は、一歩間違えれば数百万人の命が吹き飛ぶ、本物の「世界大戦一歩手前の外交ゲーム」だ。

「どうする、ルミエラ。教国は、君がルミナス王国から『悪役令嬢』として追放された経緯を突き、我が国の道徳的瑕疵を責めてくるつもりだ。彼らの陰険な宗教ロジックを、君ならどう噛み砕く?」

ギルバートが、ルミエラの反応を楽しむように尋ねる。

ルミエラは、黄金の魔導ペンを指先で器用に一回転させると、ギルバートの胸元をペン先で軽く突き、妖艶に、そして最高に挑戦的な笑みを浮かべた。

「宗教ロジック? そんな不確定で非科学的な概念、私の『数理』の前には何の障壁にもなりませんわ。神の教えでご飯が食べられると勘違いしている聖職者たちに、現実の『経済の鉄槌』を落として差し上げます。――ギルバート殿下、教国の全財産を合法的に毟り取る準備を、今すぐ始めましょう?」

「くく……、ハハハ! 本当に、恐ろしい女(令嬢)だ」

ギルバートは歓喜に声を震わせ、ルミエラの手を取り、その手の甲に深く、誓いのような熱いキスを落とした。

4. 炭鉱の底から見える星

その頃。

ルミナス王国の遥か辺境、年中冷たい嵐が吹き荒れる『ガルバ地熱炭鉱』の底。

「ハァ……、ハァ……! クソッ、なんで俺が、こんな重いツルハシを……!」

ドロドロのボロ布を纏い、顔を黒い煤で汚した男が、岩肌に向かって力なくツルハシを打ち下ろしていた。

かつての栄華を極めた第一王子、エドワードだった。彼の自慢だった金髪は汚れ果ててゴワゴワになり、端正だった顔は見る影もなく窶れ果てていた。

「おい、エドワード! 手を動かせ! 本日のノルマが達成できなければ、夕食の硬いパンは半分だぞ!」

背後から、横暴な看守の鞭の音が響く。

「く、くそ……! 俺は王子だぞ! いずれルミナス王国を統べるはずの……!」

「まだそんな寝言を言っているのか、このトウモロコシ野郎が。お前がルミエラ様を追い出したせいで、俺たちの実家の村も大増税で生活が苦しくなったんだぞ! 八つ当たりでも足りないくらいだ!」

看守から容赦のない蹴りが、エドワードの脇腹に叩き込まれる。「ぶふっ!?」と無様な声を上げて、エドワードは炭鉱の冷たい泥の中に転がった。

彼には、もう何も残っていなかった。

地位も、名誉も、財産も、そして――。

「エドワード様ぁ……、助けてくださいぃ……」

脳裏に過るのは、王宮の地下牢で、生涯終わらない洗濯と掃除の強制労働を命じられたマリアの、怨念に満ちた泣き顔だった。

二人の間にあったはずの「真実の愛」は、現実の圧倒的な生活苦と無能さの前に、今や互いを呪い合うだけの、最も醜い憎悪へと変色していた。

「ルミエラ……。お前が、お前が戻ってきて、この書類の山を……いや、この炭鉱の予算を計算してくれれば……。ルミエラぁ……!」

エドワードは泥水をすすりながら、二度と届かない完璧な前婚約者の名前を、虚しく叫び続けることしかできなかった。

彼らが捨てた少女が、今や大陸の覇権を握る超大国の中心で、世界の運命を動かす「神の領域」へと上り詰めていることなど、炭鉱の底の虫けらには、知る由もなかった。

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