隣国の死神、あるいはヒーロー
1. 漆黒の玉座と、大陸の心臓
ルミナス王国の国境を越え、魔導馬車に揺られること丸一日。
車窓から見える景色は、のどかな農村から、天を突くような黒鉄の摩天楼と、無数の魔導列車が行き交う超近代的な巨大都市へと変貌を遂げていた。
大陸最強の超大国――グラン・エルバ帝国。
その首都『帝都グラディウス』の中心にそびえ立つ、黒晶石で造られた皇宮の特別会議室に、ルミエラは足を踏み入れていた。
「――遅かったじゃないか、我が最愛の軍師」
会議室の最奥、漆黒のベルベットが張られた重厚な椅子に深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべていたのは、ギルバート・フォン・エルバ皇太子だった。
月明かりの下で見た夜会の時とは違い、今日の彼は、金糸の刺繍が施された軍服を完璧に着崩し、大陸全土を震え上がらせる「帝国の死神」としての圧倒的な覇気を放っている。
「移動の馬車が快適すぎて、つい寝過ごしてしまいましたの。お許しください、ギルバート殿下」
ルミエラは臆することなく、完璧なカーテシーを披露した。
彼女の周囲には、すでに帝国の名だたる老練な官僚、経済学者、そして軍の上層部が数十名、張り詰めた空気の中で席を埋めている。彼らはルミナス王国からやってきた「悪役令嬢」と呼ばれる若い少女を、値踏みするような、あるいは明確に侮蔑するような視線で見つめていた。
「殿下、いくら殿下のお声がかりとはいえ、このような他国の、それも男に捨てられたような令嬢を、我が帝国の最高機密たる『国家経済戦略会議』に招き入れるなど、正気の沙汰とは思えませぬ!」
机を叩いて立ち上がったのは、帝国の財政を長年牛耳ってきた老財政卿、バルツァー伯爵だった。
「左様です! ルミナス王国ごとき小国の、しかもただの公爵令嬢に、我が帝国の次期関税戦略の何が分かると言うのですか!」
次々と上がる、ルミエラへの拒絶の声。
しかし、ギルバートはそれを制することなく、ただ楽しそうに、極夜の瞳を怪しく光らせてルミエラを見つめていた。
「試してみるといい、バルツァー。彼女の牙が、君たちの小賢しい理論をどれほど無残に噛み砕くか、私は見たくてたまらないんだ」
ルミエラはフッと、小さく溜息を吐いた。
(本当に意地が悪いスパダリね。最初から私を試すために、こんな猛獣部屋に放り込むなんて)
だが、ルミエラにとって、この程度の「アウェイ」など、無能なエドワードの公務を3年間ワンオペで回し続けた地獄に比べれば、ただの生ぬるい遊戯に過ぎなかった。
2. 『死神』の真実
「皆様、そこまで仰るのなら、今そちらのバルツァー伯爵がお持ちの『帝国東部における流通関税の改定案』について、少しだけ意見を申し上げてもよろしいかしら?」
ルミエラは、自身の席に優雅に腰を下ろすと、卓上に広げられた複雑な魔術グラフを一瞥した。
「な、何だと……? 10秒見ただけで何が分かる!」
「バルツァー閣下、あなたのこの立案、一見すると東部の商業ギルドから莫大な税収を毟り取れる『完璧な計画』に見えますけれど……。中央の魔力石の価格変動を、完全に計算から除外していらっしゃいますわね?」
ルミエラの言葉に、バルツァーの顔がピキリと強張った。
「現在の魔力石の市場価格は、隣国の鉱山ストライキの影響で、今後3ヶ月以内に**18%高騰します。この数理モデルにその数値を代入すると、東部のギルドは増税に耐えかねて一斉に『密輸ルート』へ移行。結果として、帝国の税収は増えるどころか、半年後には前年比マイナス24%**の大赤字になりますわ」
ルミエラは手元のペンを走らせ、空中に青い魔力の数式を展開した。
そこに現れたのは、バルツァーの計画が孕む致命的な欠陥と、それを一瞬で修正する、完璧な『代替予算案』だった。
「な……、なんという計算速度……! 密輸ルートの予測まで……!?」
経済学者たちが一斉に立ち上がり、空中サンプルの数式を凝視する。
「完璧だ……。東部の流通ラグを考慮した上で、中央の魔力消費を最適化している……。これを、たった10秒で組み立てたというのか……!?」
会議室の空気が、一瞬にしてひっくり返った。
ルミエラを侮蔑していた官僚たちが、今や恐怖と驚愕の目で彼女を見つめている。
「――下がれ、バルツァー。君たちの3ヶ月の努力は、彼女の10秒に敗北した」
ギルバートの低い声が響く。バルツァーは顔を真っ青にして、すごすごと席に戻った。
ギルバートは席を立ち、ゆっくりとルミエラに近づくと、彼女の椅子の背もたれに手をかけ、耳元で低く囁いた。
「素晴らしい。やはり君は、私の見込んだ通りの『怪物』だ。ルミナス王国の無能どもは、この頭脳をドブに捨てたんだから、お笑い草だな」
「殿下こそ、噂に聞く『冷酷非道な死神』とは、ずいぶんと毛色が違うようですけれど?」
ルミエラは顔を少し傾け、ギルバートの端正な顔を間近で見つめ返した。
社交界でのギルバートの噂は最悪だった。「気に入らない貴族を次々と粛清する冷血漢」「戦場を血で染める死神」――。
だが、ルミエラがこの会議室の書類、そして帝国の真のデータを見て確信したのは、彼の行動のすべてが、徹底的な「ロジック」と「愛国心」に基づいているということだった。
彼が粛清したのは、国の予算を横領していた不敗の寄生虫(腐敗貴族)ども。
彼が戦場で血を流したのは、帝国の平民たちを脅かす国境の侵略者を一網打尽にするため。
「他国からは『死神』と恐れられていても、この国の民にとっては、あなたが裏で泥を被り、国を支える『本物のヒーロー』。……違いますか、ギルバート殿下?」
ルミエラが不敵に微笑むと、ギルバートは一瞬だけ目を見開き、それから、これまでにないほど狂おしく、愉悦に満ちた笑い声を上げた。
「ハハハ、ハハハハハ! 参ったな。初対面から数日で、私の本質をそこまで見抜いた人間は、大陸で君が初めてだよ、ルミエラ」
ギルバートの大きな手が、ルミエラの燃えるような赤髪を優しく、だが強い独占欲を込めて撫でた。
「ますます君を、他の男の目に触れさせたくなくなった。君のその知略も、その美しい瞳も、すべて私のものだ」
3. 壊れゆく箱庭
その頃、ルミエラが捨て去ったルミナス王国の王宮では、まさに「組織の崩壊」が最終局面を迎えていた。
「おい、エドワード! 早くサインをしろ!」
「うるさい! この法律の解釈が分からんと言っているだろう! ロバート、お前が代わりに読め!」
「だから俺は騎士団だって言ってるだろうが! 経済の書類なんか読めるか!」
執務室の中は、もはや怒号と書類の投げ合いで埋め尽くされていた。
ルミエラが抜けてわずか数日。王宮の事務処理は完全にストップし、王都の物価は**30%**上昇。南部地方からは、決裁の遅れにしびれを切らした農民たちの「暴動寸前」の抗議が届いていた。
さらに、エドワードの派閥の破産により、彼を支持していた貴族たちは一斉にクモの子を散らすように離反。
かつて学園でエドワードの後ろに控えていた「側近」たちも、今や互いの無能を責め合うだけの、ただの泥棒の集まりに成り下がっていた。
そこへ、ボロボロの姿になったマリアが部屋に滑り込んできた。
「エ、エドワード様ぁ……! マリア、もう限界ですぅ……! 王妃教育のクラウス夫人が、マリアを地下室に閉じ込めて、歴史書を100回書き写せって……!」
「黙れ、この疫病神が!!」
エドワードは、マリアの顔を見るなり、手元にあったインク瓶を床に投げつけた。ガシャアン!と激しい音が響き、黒いインクがマリアの高級なドレスを汚す。
「ひっ……!?」
「お前が、お前があの夜会でルミエラを怒らせるようなことをしなければ、俺がこんな目に遭うことはなかったんだ! お前のような、顔だけの無能な男爵令嬢に騙された、俺の人生の最大の汚点だ!」
「なんですってぇ!? マリアを愛してるって、ルミエラ様なんかよりマリアの方が何倍も価値があるって言ったのは、エドワード様じゃないですかぁ! この無能王子! トウモロコシの狂い咲き!!」
「狂い咲きだとおぉぉーーー!!」
二人が醜い罵り合いを続けていると、執務室の重厚な扉が、今度は「内側からではなく、外側から」強引に蹴り開けられた。
「――そこまでだ、愚か者ども」
冷徹な地響きのような声とともに部屋に入ってきたのは、ルミナス王国の最高権力者――国王陛下その人だった。
国王の背後には、武装した王宮騎士団が数十名控えており、その表情には一切の容赦がない。
「父、父上……!? なぜここに……」
エドワードが腰を抜かして床にへたり込む。
「エドワード。お前がアルカディア公爵令嬢ルミエラを冤罪で追放し、王宮の全機能を停止させ、国を滅亡の危機に瀕させた罪……断じて許し難い。本日をもって、お前の『王位継承権』を完全に剥奪する」
「な……っ、そんな……! 父上、俺は、俺は王太子で……!」
「黙れ! お前は明日より、王都から最も遠い、魔獣が徘徊する辺境の炭鉱へと『永久追放』とする。そこで一生、己の無能さを呪いながら泥を掘り続けるがいい」
国王の無慈悲な宣告。
「そ、そんなぁ! マリアは!? 未来の王妃様になるマリアはどうなるんですかぁ!?」
マリアが国王の裾にすがりつこうとしたが、騎士たちによって無残に床に組み伏せられた。
「ブラウン男爵令嬢。お前は王族をたぶらかし、国政を大混乱に陥れた『国家反逆罪』として、生涯、光の届かぬ王宮の地下牢での『強制労働』を命じる。――連れて行け!」
「嫌あああーーー! 離してくださいぃ! マリアはヒロインなのにぃ! こんなのおかしいですぅーーー!!」
マリアの悲鳴と、エドワードの情けない泣き声が、ドロドロに汚れた執務室に虚しく響き渡る。
かつてルミエラを「悪役」と呼び、自分たちの愛を正当化していた二人の、あまりにも惨めで、救いようのない、ロジカルな破滅の瞬間だった。
4. 帝国の夜、真実の誓い
ルミナス王国の王宮が完全に崩壊したその夜。
帝都グラディウスの、最も高い塔のバルコニーから、ルミエラとギルバートは美しい夜景を見下ろしていた。
「――ルミナス王国のエドワードが廃嫡され、炭鉱へ追放。マリアは地下牢へ投獄されたそうだ。君の実家であるアルカディア公爵家は、第二王子を新たな王太子に据え、完全に国権を掌握したよ」
ギルバートが、届いたばかりの極秘の通信水晶を弄びながら、ルミエラに告げた。
「そうですか。思ったよりも、持ちこたえられませんでしたわね」
ルミエラは紅茶を口に含み、少しだけ寂しげに、だが完全に吹っ切れた表情で微笑んだ。
彼女の心には、もう未練など1ミリも残っていない。
「これで、君を縛るものは完全に消えた。これからは、私の隣で、私のためにその牙を振るってくれるね? ルミエラ」
ギルバートがルミエラの腰を抱き寄せ、彼女の顎を指先でクイと持ち上げた。
彼の極夜の瞳には、夜景の輝きなど足元にも及ばないほどの、ルミエラに対する狂おしいまでの熱情が宿っている。
「ええ。これからは、あなたの国を、いえ、この世界を私たちの『ゲーム盤』にいたしましょう、ギルバート殿下」
ルミエラは不敵に、そして最高に妖艶に微笑むと、ギルバートの胸に自ら身を預けた。
冷酷な死神と、最強の悪役令嬢。
世界を支配する二人の天才の、本当の『無双の物語』が、今、完璧なプロローグを終えて動き出すのだった。




