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泥棒猫の末路

1. 夢のシンデレラ、現実の檻へ

王宮の奥深く、歴代の王妃や高位貴族の令嬢たちが血の滲むような努力を重ねてきた聖域――『王妃教育室』。

その重厚な薔薇木の扉の向こうから、今朝も甲高い悲鳴と、冷徹な老女の声が響き渡っていた。

「嫌ですぅ! なんでマリアが、こんな分厚い本を丸暗記しなきゃいけないんですかぁ!? 頭が痛くなっちゃいますぅ!」

床にへたり込み、栗色の髪を振り乱して涙を流しているのは、新たなる王太子妃内定者となったマリア・フォン・ブラウン男爵令嬢だった。

彼女の目の前には、大陸の歴史、王国の法典、そして近隣諸国の全高位貴族の家系図が記された、辞書のように分厚い魔導書が数冊、無慈悲に転がっている。

そのマリアを、冷徹極まりない「蛇」のような目で見下ろしているのは、王宮筆頭侍従長であり、歴代の王妃教育を司ってきた最高権威、フォン・クラウス伯爵夫人だった。彼女の背筋は定規で測ったように真っ直ぐで、その表情には一片の慈悲も存在しない。

「お立ちなさい、ブラウン男爵令嬢。その程度の歴史書、ルミエラ様は10歳の時点で完璧に暗記され、独自の考察まで添えて論文を提出されておりましたよ。これしきのことで泣き喚くなど、ルミナス王国の国母となる資格など万に一つもございません」

「う、うるさいですぅ! マリアはルミエラ様みたいに冷たくてお堅いロボットじゃないんですっ! エドワード様は、マリアのこの『ありのままの可愛さ』を愛してくれたんですぅ!」

マリアは涙を拭いながら、いつものように「庇護欲をそそる悲劇のヒロイン仕草」でクラウス夫人を睨みつけた。学園では、この仕草をすればエドワードやその側近たちが「マリアをいじめるな!」と飛んできてくれたのだ。

だが、ここは学園ではない。現実の政治が動く王宮だ。

クラウス夫人は、感情を一切交えない冷たい声で、ピシャリと言い放った。

「男を誘惑する『ありのままの可愛さ』とやらで、隣国との関税交渉や、国内の食糧危機の回避ができるとお思いですか? ――呆れた身の程知らずですね。泥棒猫が分不相応に王冠を盗んだところで、その重さで首の骨が折れるだけですわ」

「ど、泥棒猫……!? 失礼ですぅ!」

「失礼なのはあなたの存在そのものです。さあ、本日中に『上級貴族の夜会における、12通りの扇の角度と、それに伴う政治的メッセージの差異』を完璧にマスターしていただきます。できなければ、本日の夕食は抜きです」

「そんなぁ……! エドワード様ぁ、助けてくださいぃ……!!」

マリアは絶叫したが、彼女が狂信的に愛を誓ったはずの王子は、今、彼女を助けにくることなど逆立ちしても不可能な状況にあった。

2. 完璧な前任者との「格差」

同じ頃、エドワード王太子の執務室は、昨日にも増して凄惨な地獄絵図と化していた。

「おい、ロバート! この南部領の税率の計算、お前がやれと言っただろう!」

「できねえよエドワード! 騎士団の俺に、なんでこんな複雑な複式簿記の計算ができるんだよ! カイル、お前ん家は魔導公爵家だろう、何とかしろ!」

「僕の家の魔法は『破壊と創造』だよ!? なんで『流通経路の魔力消費効率の最適化』なんていう、地味で細かい計算を僕がやらなきゃいけないんだ! こんなの、ルミエラ様なら一瞬で終わらせていたのに!」

エドワードの側近である高位貴族の息子たちが、お互いに書類をなすりつけ合いながら、醜い怒鳴り合いを演じていた。

彼らは学園では「ルミエラは冷酷だ」「マリアの方が可愛い」などとほざいていたが、いざ自分たちがルミエラの抜けた穴を埋めようとした瞬間、その能力の圧倒的な「格差」に絶望していた。

エドワードは、自分の髪の毛を狂ったようにかきむしり、デスクの書類を見つめた。

昨日、ルミエラが置いていった「国家予算の1割(金貨40万枚)」という天文学的な慰謝料の請求書。

それが正式な魔導契約として成立したため、今朝からエドワードの個人口座、並びに彼の派閥の商業資産が、法的に次々と「差し押さえ(凍結)」され始めていたのだ。

「殿下、大変でございます!」

官僚のマルクスが、新たな書類を持ってドタドタと部屋に入ってきた。その隈は昨日よりもさらに濃くなっている。

「今度はなんだ!? これ以上、俺を怒らせるな!」

「エドワード殿下の資産凍結の余波を受け、殿下の派閥が運営していた『王都第一商会』の信用が大暴落しております! 商使たちが一斉に債権の回収を求めて王宮に押し寄せており、さらに……ルミエラお嬢様が裏で手を回されていたのか、アルカディア公爵家直轄の物流ギルドが、我が派閥の商会との取引を『全面停止』いたしました!」

「なぁっ……!? なぜだ! なぜアルカディア家がそんなことを!」

エドワードが机を叩いて立ち上がる。マルクスは、哀れみすら通り越した、ゴミを見るような目でエドワードを見つめた。

「当然でしょう。殿下が大衆の前であれほどお嬢様を侮辱したのです。公爵家が報復に出ないはずがない。アルカディア家の物流網が止まったことで、我が派閥の商会は、明日の朝には『破産』いたします」

「は、破産……!? 俺の派閥の資金源が、破産する、だと……!?」

エドワードの頭の中が、真っ白になった。

王太子としての威厳も、人脈も、すべては「金と実績」があってこそのものだ。その資金源が、ルミエラの一吹きで一瞬にして消し飛ぼうとしている。

そこへ、タイミング悪く、王妃教育室から脱走してきたマリアが、泣き叫びながら執務室の扉を開けて飛び込んできた。

「エドワード様ぁーーー!! 聞いてくださいぃ! あのクラウスってクソババアが、マリアに泥棒猫なんて言ったんですぅ! 早くあのババアを死刑にしてくださいぃ!」

マリアはエドワードの胸に飛び込み、涙と鼻水で彼の高級な礼服を汚した。

いつもなら、「よしよし、マリアは悪くないよ」と抱きしめてくれたはずだった。

だが、今のエドワードは、文字通り「破産寸前の借金まみれの無能」だ。心に余裕など一ナノメートルも残っていない。

エドワードは、自分の胸にしがみつくマリアの栗色の髪を見て、初めて、猛烈な**「不快感」と「苛立ち」**を覚えた。

「――うるさい」

「え……?」

マリアが、涙目でエドワードを見上げる。

「うるさいと言っているんだ、マリア!! 俺は今、お前のせいで実家の派閥が破産するかどうかの瀬戸際なんだ! クラウス夫人の小言くらいでギャーギャー騒ぐな! ルミエラはそんな泣き言、一言も言わずに完璧にこなしていたぞ!」

「な……、なんですって……!?」

マリアの顔が、驚愕と怒りで歪んだ。

「エドワード様、今、マリアとルミエラ様を比べましたか!? マリアを愛してるって言ったのは嘘だったんですか!? 最低ですぅ! 信じられませんぅ!」

「お前こそ、少しは役に立つことをしたらどうだ!? 勉強もできない、マナーも悪い、書類の一枚も読めない! お前がその足りない頭で自作自演なんかするから、俺は金貨40万枚の借金を背負う羽目になったんだぞ!」

「それはエドワード様が勝手にサインしたからでしょう!? マリアのせいにするな、このトウモロコシ頭!!」

「トウモロコシ……!? 貴様、俺をなんと呼んだ!」

かつて「真実の愛」を誓い合ったはずの二人は、ルミエラが去ってわずか2日目にして、執務室の書類の山の中で、醜く互いの髪を引っ張り合わんばかりの泥仕合を始めたのだった。

3. 社交界のさらし者

その日の夕方。

マリアはエドワードとの大喧嘩の腹いせに、そして自分が「未来の王太子妃」であることを周囲に見せつけるため、王都の有力な伯爵家が主催する『サロン(お茶会)』へ、招待されてもいないのに強引に乗り込んだ。

「皆様、ごきげんよう。未来の王太子妃、マリア・フォン・ブラウンですぅ」

マリアは、エドワードの金で買った、これでもかと宝石を散りばめた、成金趣味全開のけばけばしいピンクのドレスを身に纏い、ドヤ顔でサロンの広間へと足を踏み入れた。

彼女の頭の中では、高位貴族の令嬢たちが「まあ、マリア様! 素晴らしいですわ!」と自分を囲み、平伏する光景が描かれていた。

だが。

マリアが入ってきた瞬間、サロンの華やかなお喋りが、ピタリと止まった。

集まっていた貴族の令嬢や夫人たちは、マリアのドレスを見るなり、一斉に扇で口元を隠し、クスクスと、だが明確な「侮蔑」を含んだ笑い声を漏らし始めた。

「まあ……、本当にいらっしゃったわ」

「あの、噂の『泥棒猫』さんね」

「見てご覧なさい、あのドレス。格式あるお茶会に、あんな品のない夜会用の宝石をジャラジャラつけてくるなんて……。ブラウン男爵家の『マナー教育』の底が知れますわね」

マリアの耳に、容赦のない陰口が飛び込んでくる。

「な、何ですって……!? あなたたち、未来の王太子妃であるマリアに向かって、なんて無礼なことを言うんですか! エドワード様に言いつけて、全員取り潰しにしてもらいますぅ!」

マリアが顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

だが、サロンの主催者である高位の伯爵夫人は、冷たい笑みを浮かべたまま、マリアの前に歩み出た。

「お言葉ですが、ブラウン男爵令嬢。あなたが『王太子妃』になれるかどうかは、まだ正式な王室の発表がございませんのよ? それに……、現在のエドワード殿下が、どれほどの『苦境』に立たされているか、ご存知ないのかしら?」

「く、苦境……?」

マリアが眉をひそめる。

「エドワード殿下の個人資産は、ルミエラ様への慰謝料支払いのためにすべて凍結。殿下の派閥の商会は本日正午をもって破産申請を出されましたわ。今やエドワード殿下は、我が国で最も『お金のない王子様』。そんな殿下に、私どもを取り潰す権力など残っているとお思い?」

伯爵夫人の言葉に、周囲の令嬢たちがドッと笑った。

「それどころか、名門アルカディア公爵家を冤罪で傷つけた罰として、国王陛下は近々、エドワード殿下の『王位継承権』を剥奪し、第二王子殿下を新たな王太子に据える審議を始められるそうですわよ」

「え……? 王位、継承権の、剥奪……?」

マリアの脳脳裏に、冷たい氷水が浴びせられた。

王位継承権が剥奪される?

ということは、エドワードは王様になれない?

王様になれないということは、自分は「王妃様」になれない……?

「そんな……、そんなの嘘ですぅ! マリアは王妃様になって、みんなを見返して、贅沢三昧するはずだったのにぃ!」

マリアの本音が、思わず口から飛び出した。

その瞬間、サロンにいた全貴族の目が、完全に「軽蔑」の色へと染まった。

「やはりね。王国の未来ではなく、己の贅沢のために殿下をたぶらかしたのね」

「浅ましい泥棒猫に相応しい、浅ましい本性ですわ」

「お引き取りください、ブラウン男爵令嬢。私どもの神聖なお茶会が、あなたの品性のなさで汚れてしまいますもの」

「出ていきなさい」「身の程を知りなさい、バカ令嬢」

四方八方から浴びせられる、冷酷な言葉の嵐。

学園という狭い箱庭の中では、嘘泣き一つで世界を思い通りに動かせると思っていたマリアは、本物の社交界の「洗礼ざまぁ」の前に、ただただ顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、悲鳴を上げながらサロンから逃げ出すしかなかった。

彼女が夢見た「シンデレラの物語」は、ガラスの靴が粉々に砕け散るよりも早く、あまりにも無様に、社会的に崩壊していったのだった。

4. 帝国の最高級馬車、公爵邸へ

――その翌朝。

王宮とマリアが自業自得の地獄で苦しんでいることなど、1ミリも気に留めていないアルカディア公爵邸の門前に、前代未聞の「光景」が出現していた。

「な、なんだ……あの馬車は……!?」

王都市民たちが、公爵邸の前に停まったその乗り物を見て、驚愕の声を上げていた。

それは、純黒の高級な木材で組まれ、全体に眩いばかりの「黄金の魔術回路」が走る、およそ見たこともないほど巨大で豪華な魔導馬車だった。馬車の側面には、大陸最強の超大国――『グラン・エルバ帝国』の皇室の紋章が、圧倒的な威容を放ちながら刻印されている。

馬車の扉が開き、帝国の最高級の礼服を着た御者が、公爵邸の玄関に向かって深く頭を下げた。

「ルミエラ・フォン・アルカディア公爵令嬢。ギルバート・フォン・エルバ皇太子殿下の名において、お迎えに上がりました」

公爵邸の扉が開き、そこから姿を現したのは、ルミエラだった。

彼女は、燃えるような赤髪を美しくハーフアップにし、帝国の流行を取り入れた、洗練された漆黒と深紅のドレスを纏っていた。その佇まいは、ルミナス王国のどの令嬢よりも神々しく、そして知的な美しさに満ち溢れていた。

「お待たせいたしましたわね。――ハンス、荷物の準備は?」

「万端にございます、お嬢様。帝国の最高峰のステージが、お嬢様の知略を待ち侘びております」

ハンスが不敵な笑みを浮かべて、ルミエラの旅行鞄を馬車へと積み込む。

ルミエラは馬車に乗り込む直前、遥か彼方に見える、どんよりと曇った王宮の建物を一瞥した。

あそこには、かつて自分を縛り付けていた無能なトウモロコシ頭と、哀れな泥棒猫が、今頃お互いの足を引っ張り合いながら沈んでいっているはずだ。

(私の価値を理解せず、私を悪役として捨てたこと……せいぜい、その泥沼の中で一生後悔し続けるといいわ)

ルミエラはフッと冷酷な、だが最高に美しい微笑みを浮かべると、帝国の馬車へと乗り込んだ。

馬車は静かに、だが圧倒的な速度で、王都の街道を走り出した。

目指すは、大陸の中心、グラン・エルバ帝国の首都。

そこには、彼女の天才的な頭脳を誰よりも評価し、狂信的なまでの執着の目を向ける、あの漆黒の髪のスパダリ皇太子・ギルバートが待っている。

ルミエラの、世界を揺るがす「本当のゲーム(無双)」が、今、ここから始まるのだ。

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