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地獄の蓋があく

1. 薔薇色の妄想と、一本のペン

鳥のさえずりが、王宮の豪奢な一室に響き渡っていた。

輝かしい朝の陽光が、大きな窓から差し込み、高級な絨毯を白く照らしている。

「ふあぁ……。いやあ、昨夜は最高の夜だったな、マリア」

大きな天蓋付きのベッドから起き上がったのは、第一王子エドワードだった。彼は金髪を少し乱しながら、満足げに伸びをした。その顔には、長年の忌々しい足枷であったルミエラを排除し、真実の愛を手に入れたという万能感が満ち溢れている。

彼の隣では、栗色の髪を揺らしたマリアが、眠そうに目をこすりながら微笑んでいた。

「ええ、エドワード様……。マリア、本当に夢のようですぅ。これからは、エドワード様の隣にずっといられるのですね?」

「ああ、当然だ。あの陰険な赤髪女ルミエラはもういない。これからは、私の天才的な執政の手腕を、父上や国民に存分に見せつけてやるさ。私の輝かしい未来の始まりだ!」

エドワードは高らかに笑い、仕立ての良い朝服に着替えると、意気揚々と自身の執務室へと向かった。

彼の頭の中は、今や薔薇色の妄想でいっぱいだった。ルミエラがいなくなれば、口うるさい説教を聞く必要もない。自分が素晴らしい政策を思いつき、マリアがそれを「すごいですぅ!」と称賛する、そんな幸福な毎日が待っているはずだった。

だが。

執務室の重厚な扉を開けた瞬間、エドワードの足がピタリと止まった。

「……は?」

エドワードの口から、間抜けな声が漏れる。

そこにあったのは、彼がよく知る「綺麗に整理整頓された、居心地の良い執務室」ではなかった。

部屋の中央にある巨大なマホガニーのデスクの上に、文字通り**「紙の山脈」**が形成されていたのだ。

山だ。

それも、エドワードの身長を遥かに超える高さの、分厚い書類の束が、いくつも、いくつも、地層のように積み重なっている。デスクだけではない。周囲の床、応接用のソファ、果ては本棚の前に至るまで、部屋のあらゆるスペースが、茶色い羊皮紙の束によって埋め尽くされていた。

「な、なんだこれは……。おい、部屋を間違えたか……?」

エドワードが混乱して後退りしたその時、山脈の陰から、死人のような顔をした一人の男がすっと姿を現した。

王宮の筆頭行政官であり、エドワードの公務をサポートするベテラン官僚のマルクスだった。彼の目の下には、見たこともないほど濃い、漆黒の隈が刻まれている。

「――お早うございます、エドワード殿下」

マルクスの声は、墓場の下から響いてくるかのように低く、生気がなかった。

「マルクス! これは一体何の冗談だ!? なぜ俺の部屋が、こんなゴミクズのような書類で埋め尽くされている! 早く片付けんか!」

エドワードが不快そうに怒鳴り散らす。しかし、マルクスは眉一つ動かさず、手に持っていたクリップボードを淡々と見つめた。

「ゴミクズではございません、殿下。これらはすべて、本日中に殿下の『決裁(サインと魔力刻印)』が必要な、緊急性の高い公務の書類にございます」

「なにいっ!? 馬鹿なことを言うな! 公務だと!? そんなもの、いつもは毎日2、3枚の書類にサインするだけだっただろうが!」

「ええ、そうですとも」

マルクスは、深く、地獄の底のようなため息を吐いた。

「これまでは、ルミエラ・フォン・アルカディア公爵令嬢が、毎日朝の4時に王宮に入り、これらの書類をすべてご自身で精査され、複雑な予算計算、地方領主との利害調整、隣国との外交文脈の修正を『完璧に終わらせた状態』にしてから、殿下の机に置いておられたのです。殿下はただ、お嬢様が『ここにサインを』と指差した場所に、何も考えずに名前を書いていただけに過ぎません」

マルクスの冷徹な言葉が、執務室の冷えた空気に突き刺さる。

「ですが、お嬢様は昨夜、正式に婚約を破棄されました。本日早朝、アルカディア公爵家より『今後の公務代行は一切拒否する』との正式な書状が届き、お嬢様が裏で管理されていた『公務処理術式の魔導具』もすべて回収されました。――つまり、これからは殿下お一人で、この生の書類を、一からすべて処理していただかねばなりません」

マルクスは、デスクの山脈の頂点に、一本の羽ペンをコン、と置いた。

「さあ、殿下。お仕事の時間でございます。本日中に終わらなければ、明日の王都の物流が止まります」

エドワードの額から、一筋の冷たい汗が流れ落ちた。

2. 処理能力『下位10%』の限界

「え、エドワード様ぁ……? このお部屋、どうしちゃったんですかぁ……?」

遅れて執務室にやってきたマリアが、部屋の惨状を見て、潤んだ瞳を丸くした。

エドワードはマリアの手前、無様な姿を見せるわけにはいかないと、引きつった笑みを浮かべて胸を張った。

「ふ、ふん! 何のことはない! ルミエラという女が、自分の存在価値を誇示するために、わざと仕事を難しく見せていただけさ! 俺の天才的な頭脳があれば、これしきの書類、午前中だけで片付けてみせる!」

エドワードはデスクに歩み寄り、バサリと一番上にある分厚いファイルを手に取った。

そこには、**『ルミナス王国南部地方における、魔獣被害に伴う関税特例措置の更新について』**というタイトルが躍っていた。

エドワードはページをめくった。

「……ええと、『本年度の南部領の穀物生産高は、前年比マイナス12パーセントであり、これに伴う市場価格の安定化のため、第三関税区における穀物輸入税を暫定的にスライド式に引き下げるものとする。ただし、アルカディア領を通過する流通経路においては、公爵家との既存の減税契約(第4条第2項)との整合性を考慮し、差額分を中央政府の有価証券によって相殺し……』」

エドワードの思考が、最初の3行で完全にフリーズした。

文字は読める。しかし、意味が全く頭に入ってこない。

前年比マイナス12パーセント? スライド式引き下げ? 有価証券で相殺? 既存の契約との整合性?

「……マルクス」

「はい、殿下」

「この書類、何が書いてあるのか一言で説明しろ」

エドワードが冷や汗を流しながら尋ねる。マルクスは、あからさまに軽蔑の混じった目を向けた。

「一言で申し上げれば、『南部領の農民が飢え死にするかどうかの瀬戸際』にございます。これまではルミエラお嬢様が、アルカディア領の通行税を自らの権限で無償化し、さらに中央の予算から不足分を綺麗に補填する『数理モデル』を毎月作成してくださっていたため、殿下は何もせずとも南部領は平和でした。さあ、殿下。本年度の補填予算の出処をどこにするか、今すぐご決断ください。選択肢はございません。一からロジックを組み立ててください」

「ロ、ロジック……!?」

エドワードの脳内は、すでにオーバーヒート寸前だった。

彼がこれまでやってきたのは、ルミエラが作った完璧なレポートを国王の前で暗記して発表することと、騎士団の訓練を見学して「みんな、頑張ってくれ!」と爽やかに激励することだけだ。自分で一から予算を組み、法律の整合性を確認するなど、やったこともなければ、やり方もわからない。

「エ、エドワード様、マリアもお手伝いしますぅ!」

マリアが、いいところを見せようと書類を一束手に取った。

彼女は「マリア、お勉強は苦手ですけど、一生懸命がんばりますっ!」と、いつもの可愛い仕草で書類をめくった。

だが、3秒後。

「……ええと、『微分幾何学を用いた、王都結界の魔力流動計算書』……? び、びぶん……? まりあ、数字がいっぱい並んでて、頭が痛くなっちゃいましたぁ……」

マリアは目を回し、書類を床に落とした。

マルクスは、その様子を冷たい目で一瞥した。

「ブラウン男爵令嬢。その書類は、王都を外敵から守る古代結界の維持予算に関するものです。ルミエラお嬢様は、魔導省の気難しい老魔術師たちと互角に渡り合い、毎月1リーブルの誤差もなく魔力を管理しておられました。――勉強が下位10パーセントのあなたには、その書類のインクの匂いを嗅ぐことすらお勧めいたしません」

「な、なんですってぇ!? 失礼ですぅ! エドワード様ぁ、この人がマリアをいじめるんですぅ!」

マリアがエドワードの胸に泣きつくが、今のエドワードには、彼女を慰める余裕などミリメートルも残っていなかった。

「ま、待て、マルクス! この書類の山、他の官僚たちに回せ! 俺の側近の、ほら、騎士団長の息子のロバートとか、魔導公爵の息子のカイルとかいるだろう! あいつらに手伝わせろ!」

「無駄にございます、殿下」

マルクスは冷酷に言い放った。

「彼らもまた、殿下と同様に『外面だけの一流』にございます。今朝、彼らにもそれぞれの部署の生の書類が回されましたが……全員、最初の1時間でパニックを起こし、現在は各自の執務室で『ルミエラ様を連れてこい!』と泣き叫んでいるとの報告が入っております」

エドワードの視界が、絶望でグニャリと歪んだ。

彼らが「無能な悪役令嬢」と呼び、寄ってたかって排除したルミエラという少女。

彼女こそが、この無能な若者たちの、そしてこのルミナス王国の「心臓」を裏で動かしていた、唯一無二の支配者だったのだ。

3. 高級パンケーキと、王宮の悲鳴

一方その頃、アルカディア公爵邸の、陽当たりの良い美しいテラス。

「ん〜〜〜! 美味しい! やっぱり、朝の搾りたてミルクで作ったパンケーキは最高ね!」

ルミエラは、純白のドレスに身を包み、優雅にフォークを動かしていた。

彼女の前には、ふわふわに焼き上げられた最高級のパンケーキと、色鮮やかな自家製ベリージャム。

昨夜までの「王太子の婚約者」という激務から完全に解放された彼女は、肌のツヤもすこぶる良く、全身から「幸福」のオーラが満ち溢れていた。

対面に座るハンスが、本日の朝刊を広げながら、クスクスと笑みを漏らす。

「ルミエラお嬢様。王宮の情報筋から、面白い報告が入ってございます」

「あら、なぁに? 聞かせて」

ルミエラは紅茶を一口啜りながら、楽しげに首を傾げた。

「今朝、王宮の執務室に入られたエドワード殿下は、山積みにされた生の書類を前に、開始1時間で髪の毛をかきむしり始め、3時間後には『ルミエラはどこだ! あいつを今すぐ連れてこい!』と、まるで幼児のように泣き叫んでいたそうでございます」

「あはははは! 傑作ね!」

ルミエラは上品に、しかし心底楽しそうに笑い声を上げた。

「本当にバカねぇ。私がどれだけ、あの書類の山を彼のために『翻訳』してあげていたか、これでお分かりになったかしら。生の書類なんて、専門用語の嵐と、地方貴族たちのドロドロした利害関係の泥沼よ? 法律の基礎知識も、経済の仕組みも分からないトウモロコシ頭が、1ページでも理解できるわけがないじゃない」

「お嬢様が回収された『公務処理術式の魔導具』がなければ、現在の王宮の官僚たちだけでは、仕事のペースが通常の10分の1にまで落ちる見込みにございます。すでに南部領の商使たちから、決裁の遅れに対する抗議の手紙が届き始めているとか」

「いい気味だわ。自分たちがどれだけ恵まれていたか、私の足元でぬくぬくと甘えていたかを、その身を以て知ればいいのよ。――あ、ハンス。王家からの『復縁を求める連絡』があったら、すべて『令嬢が精神的ショックで療養中のため、面会謝絶』で突っぱねてね?」

「御意にございます。すでにそのように手配しております」

ハンスが完璧な一礼をする。

ルミエラは、窓の外の青空を見上げながら、幸せを噛み締めていた。

これまでの3年間は、毎日4時起きで王宮に缶詰になり、無能な男の愚痴を耐え忍ぶ日々だった。それに比べれば、今の生活はまさに天国だ。

だが、そんなルミエラの平穏なリゾートタイムは、長続きはしなかった。

「失礼いたします、ルミエラお嬢様」

テラスの扉が開き、公爵家の衛兵が一人、極度に緊張した面持ちで入ってきた。その手には、アルカディア家の宛先ではない、禍々しいまでの黄金の魔力刻印が施された、一通の「親書」が握られていた。

「どうしたの? どこの家からの手紙?」

ルミエラが尋ねると、衛兵はごくりと唾を飲み込み、震える声で答えた。

「は、はい……。我が国の王家からではございません。――グラン・エルバ帝国、ギルバート・フォン・エルバ皇太子殿下からの、お嬢様への『直属の親書』にございます」

テラスの空気が、一瞬で引き締まった。

ハンスの目が鋭くなり、ルミエラもフォークを置いた。

手紙を受け取り、封を切る。

中から現れたのは、帝国の最高級の羊皮紙。そこに、ギルバートの直筆と思われる、力強くも美しい文字が踊っていた。

『愛愛しきルミエラへ。

泥舟の沈没劇は、予想通りの速度で進んでいるようだね。遠からず、ルミナス王家は君の価値に絶望し、なりふり構わず君を奪い返しにくるだろう。

だが、その前に、君に私の「本気」を見せておきたい。

明日、我が帝国の最高級の魔導馬車を、君の屋敷へ向かわせる。帝国の首都で開催される、私直轄の「国家経済戦略会議」へ、君を特別顧問として招待したい。

君のその天才的な頭脳が、世界の中心でどれほどの輝きを放つのか、私に、そして世界に見せつけてほしい。

拒否権は……まあ、君なら「面白そうだ」と受けてくれると信じているよ。

君の美しい牙を、楽しみにしている。

――ギルバート・フォン・エルバ』

手紙を読み終えたルミエラは、思わず額を押さえた。

「……あいつ、本当に展開が早すぎるわよ」

ルミエラの口から漏れたのは、呆れ声。

しかし、その唇の端は、抑えきれない興奮と挑戦的な笑みによって、確実に釣り上がっていた。

「エドワードを捨てた翌日に、今度は世界の中心の『国家戦略』のデスクが用意されるなんてね。……いいわ、ギルバート殿下。あなたがどれほどの『本物の男』なのか、この私が直接、確かめに行ってあげるわ!」

自由になったはずの悪役令嬢(仮)の、世界の中心へと繋がる、新たなる圧倒的なステージへの幕が開いた瞬間だった。

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