100%有責の書状
1. 舞台裏のチェックメイト
時計の針を、再び「あの夜会」の、ルミエラがガッツポーズを決めた直後の緊迫した瞬間に戻そう。
華やかな王宮の大夜会会場は、依然として墓場のような静寂に包まれていた。
ルミエラが放った「未来の介護権の放棄」という前代未聞の爆弾発言、そして何より、彼女が懐からシャキィン!と鮮やかな音を立てて広げた、淡く輝く羊皮紙のスクロール(魔導書状)に、全貴族の視線が釘付けになっていた。
「な、何だそれは……! 慰謝料だと!? 戯言を言うな!」
エドワードは、周囲の貴族たちの不穏な囁き声に苛立ちを隠せない様子で、声を荒らげた。彼の端正な顔は、怒りと、予期せぬ事態への困惑で赤黒く染まり始めている。
「戯言ではございませんわ、エドワード殿下」
ルミエラは、まるで出来の悪い生徒に一から文字を教える家庭教師のような、哀れみを含んだ微笑みを浮かべた。彼女の手にあるスクロールは、ただの紙ではない。古代魔法の術式が組み込まれた『契約の魔導書状』だ。一度ここにサインをし、魔力を通せば、大陸のいかなる法廷でも絶対的な強制力を持つ最高位の法的文書である。
「あなたが先ほど、大衆の前で朗々と並べ立てた私の『罪状』――教科書破棄、階段からの突き落とし、暴漢の差し向け。これらがすべて、あなたの妄想と、そちらのマリアさんの自作自演であるという証明書が、すでにこの中に組み込まれておりますの」
「なっ……! マ、マリアが嘘をついていると言うのか!? 証拠もないくせに!」
エドワードがマリアの肩を強く抱き寄せ、ルミエラをキッと睨みつける。
マリアもまた、「そうですぅ! ルミエラ様、そんな嘘をついてマリアを陥れようとするなんて、どこまで意地悪なんですかぁ……!」と、今にも消え入りそうな声で涙を浮かべた。
「証拠なら、山ほどございますわよ?」
ルミエラは、スクロールの端に指先を触れ、ほんの少しだけ魔力を流した。
すると、スクロールから青白い光のスクリーンが空中に投影され、そこには緻密な文字と、いくつかの「映像」が浮かび上がった。
貴族たちから「おお……」と地鳴りのようなどよめきが上がる。
「まず第一の罪状、マリアさんの教科書がズタズタに破かれていた事件。その日、その時間、私は生徒会室で次半期の予算編成を行っており、当時の生徒会長、副会長、さらには監査官の計5名の署名付きのアリバイがございます。ちなみに、マリアさんがご自身の手で、誰もいない旧校舎の裏で教科書をハサミで切り刻んでいる姿を、我が公爵家の隠密がしっかりと『録画魔導具』に収めておりますわ」
空中スクリーンに、マリアが薄笑いを浮かべながら自分の教科書をザクザクと切り裂いている映像が、信じられないほどの高画質で再生された。マリアの顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「な、何だ、これは……!?」
エドワードが目を見開く。ルミエラの追撃は止まらない。
「第二の罪状、階段からの突き落とし未遂。マリアさんは『放課後の西階段でルミエラ様に背中を押された』と主張されましたが、その日、私は風邪で学園を公欠しており、終日アルカディア公爵邸の自室で医師の診察を受けておりました。これも医師の診断書と、公爵邸の全使用人の証言がございます。マリアさんが誰もいない階段で、一人で勝手に綺麗にスライディングをして転び、悲鳴を上げた音声データもここに記録されています」
「あ、う……あ、あれは……!」
マリアがガタガタと震え始め、エドワードの袖を掴む手に力がこもる。
「そして第三の罪状、夜道に暴漢を放ったという件。これに関しては、マリアさんの実家であるブラウン男爵家が、裏社会の仲介人に金を払い、演技の上手いチンピラを雇ったという『金の流れ(銀行の送金記録)』を、我が家の情報網がすべて押さえております。――さあ、エドワード殿下。これでもまだ、私が悪逆非道な悪役令嬢だと仰いますか?」
ルミエラは完璧な、非の打ち所がない美しい姿勢のまま、冷徹な視線をエドワードに突き刺した。
周囲の貴族たちの囁き声は、今や完全にエドワードとマリアへの「軽蔑」へと変わっていた。
「まさか、王太子殿下がそんな簡単な嘘に騙されていたなんて……」「男爵令嬢の狂言誘拐まがいの作劇に踊らされて、名門公爵家を侮辱したのか」「なんて情けない……」
エドワードは、自分が築き上げてきた「正義のヒーロー」の舞台が、一瞬にして「道化の泥仕合」へと変えられたことに、恐怖すら覚え始めていた。
2. 逃げ道なき法的包囲網
「くっ、う、動かぬ証拠が何だ! 婚約の維持など、当事者間の信頼関係が崩れれば不可能なはずだ! 俺はマリアを愛している! お前のような、陰険に裏で証拠を集めるような恐ろしい女とは、どのみち結婚などできるか!」
エドワードは完全に逆上し、最後のプライドを振り絞って怒鳴り散らした。理屈で勝てない無能が、最終的に行き着くのは「感情論」である。
ルミエラは、その言葉を待っていた。
「ええ、全くもって同感ですわ、殿下。信頼関係が破綻した以上、婚約の継続は不可能です。ですから私は、最初から『婚約破棄を拒否する』とは一言も言っておりませんでしょう?」
ルミエラは、スクロールの文面をエドワードの目の前に突きつけた。
「私が申し上げているのは、婚約破棄の手続きを、今、この場で、**『王家側、並びに第一王子エドワードの100%の有責』**として正式に成立させる、ということです」
「な……なにいっ……!」
「この魔導書状には、あなたが先ほど大衆の前で私に冤罪を擦り付け、公然と婚約破棄を宣言した事実が、その音声とともにリアルタイムで刻印されております。これは、王家がアルカディア公爵家に対して行った『不当な不名誉の押し付け』であり、明確な契約違反です。――さあ、殿下。ここに、あなたの魔力署名を」
ルミエラは、スクロールの下部にある白紙の欄を指差した。
「ふ、ふざけるな! 誰がそんなものにサインするか! 国王たる父上に報告し、正式な審議を経てから――」
「お止めになった方がよろしいかと思いますわよ?」
ルミエラは、エドワードの言葉を冷たく遮った。
「今ここでサインを拒否されれば、私は明日一番に、この『すべての証拠』と『本日の夜会の記録』を、我がアルカディア公爵家の息がかかった全新聞社、並びに社交界の全情報網に一斉に公開いたします。そうなれば、あなたは『男爵令嬢の嘘に騙され、優秀な婚約者を冤罪でなじり、国の法を無視しようとした、愚かで哀れなトウモロコシ頭の王子』として、一晩で全国民の笑いものになりますわ。――当然、次期王位継承権の剥奪は免れませんわね」
「トウモロコシ……!? い、今、俺をなんと呼んだ……!」
「お黙りなさいな、無能」
ルミエラの徹底的な見下しの視線に、エドワードは言葉を失った。
「今ここでサインをすれば、一応は『若気の至りで恋に狂い、円満に婚約を解消した』という体裁だけは、王家の面バグのために保って差し上げます。どちらがあなたの、そして王家の傷が浅く済むか……その足りない頭で、よくお考えになってください」
エドワードの額から、滝のような冷汗が流れ落ちる。
周囲の貴族たち、特にエドワードの派閥に属していた有力貴族たちさえも、すでに彼から目を逸らし、「早くサインして事を収めろ」という無言の圧力をかけていた。
エドワードの味方は、今や隣でガタガタと震え、何の役にも立たないマリアだけだった。
「くそ……、くそおおお……!!」
エドワードは屈辱に歯噛みし、血が出るほどに唇を噛み締めた。
だが、彼に拒否権など最初からなかったのだ。ルミエラが3年かけて張り巡らせた蜘蛛の巣は、彼がどれだけ暴れようとも、決して破れないほど強固に彼を縛り付けていた。
エドワードは震える手で、ルミエラが差し出したペンを掴んだ。
そして、血の涙を流さんばかりの形相で、スクロールの署名欄にその名を書き込み、自身の魔力を微かに通した。
ジ、と紫色の魔力の光が走り、署名が確定する。
『王太子エドワードの不貞、並びに冤罪の強要による、アルカディア公爵令嬢ルミエラとの婚約破棄の完全成立』
同時に、天文学的な額の「慰謝料請求」の契約が、法的に執行された瞬間だった。
3. 天文学的なツケの明細
「――はい、確かに受領いたしました。ご協力、痛み入りますわ、元・婚約者殿」
ルミエラは、サインされたスクロールをパッと小気味よく巻き取ると、それを愛おしそうに胸に抱いた。その顔は、長年の大プロジェクトを予算内に収めて完遂した、敏腕プロジェクトマネージャーのそれだった。
エドワードは、ペンを床に投げ捨てるようにして、ルミエラをキッと睨みつけた。
「これで満足か、悪魔め……! 婚約は破棄された! お前のような、冷酷で、男を数字と書類でしか見ない男勝りな女など、二度と我がルミナス王国の土を踏めると思うな! 慰謝料など、我が王家の資産からいくらでも払ってやる! 金さえ払えば、お前との縁は完全に切れるのだろう!?」
「あら、本当にそうかしら?」
ルミエラは首を傾げ、くすくすと鈴を転がすような声で笑った。
「金さえ払えば、とおっしゃいますが……殿下、あなたはご自身が支払うことになった『慰謝料の総額』の、本当の意味を分かっていらっしゃらないのね。ハンス、元・婚約者殿に、今回の『請求明細』の概算を教えて差し上げて?」
「御意にございます、お嬢様」
影からすっと進み出た老執事ハンスが、別の分厚い書類の束を開き、眼鏡の位置を直しながら、冷徹な事務的トーンで読み上げ始めた。
「第一に、アルカディア公爵家の名誉を公衆の面前で不当に傷つけたことに対する慰謝料、金貨5万枚。第二に、過去3年間にわたり、ルミエラお嬢様がエドワード殿下の『名代』として処理された、公務代行手数料並びに時間外労働手当。これには領地経営、外交文書の翻訳、予算書の再編成などが含まれ、計3200時間の労働に対し、王族の労働単価を適用して、金貨10万枚」
「な……、何だと……!? 公務の代行だと!? あれは俺の指示で――」
「第三に」
ハンスはエドワードの抗議を完全に無視し、淡々と続けた。
「ルミエラお嬢様が裏で手を回し、エドワード殿下の『致命的な外交的過失』を闇に葬った際の、情報隠蔽および根回し費用。具体的には、半年前、隣国の特使に対して殿下が放った『無礼な暴言』の件、および3ヶ月前の『国境警備隊の予算横領疑惑』の揉み消し。これらを合計いたしまして、金貨25万枚。――総計、金貨40万枚にございます」
会場全体が、今度こそ完全に凍りついた。
金貨40万枚。それは、このルミナス王国の年間国家予算の約1割に相当する、まさに天文学的な金額だ。一王族の、それも一王太子の個人資産や派閥の資金で、簡単に右から左へ動かせる額では到底ない。
「き、金貨40万枚……!? 馬鹿な! そんな額、払えるわけがないだろう! 詐欺だ! 国家を揺るがす恐喝だぞ!」
エドワードが泡を飛ばして叫ぶ。
「恐喝ではございません。すべて、あなたが『100%の有責』を認めてサインされた、正当な契約に基づく請求ですわ」
ルミエラは、哀れな子犬を見るような目でエドワードを見下した。
「払えないとおっしゃるなら、あなたの個人資産、領地からの税収、そしてあなたを支持する貴族たちの資産が、法的に順次差し押さえられるだけです。……ねえ、エドワード殿下。あなたがそこまでして手に入れたかった『真実の愛』の対価ですのよ? 国家予算の1割なんて、安いものですわよね?」
「あ、う……あ……」
エドワードはガチガタと歯を鳴らし、隣のマリアを見た。
マリアは「金貨40万枚」という数字の規模が大きすぎて、脳の処理が追いついておらず、ただただ口を開けて呆然としている。エドワードが夢見た「清らかで心優しいマリアとの、身分を超えた美しい愛の物語」は、その足元から、文字通り「巨額の債務」という現実の底なし沼によって、ドロドロに溶け落ちていった。
「それでは皆様、夜会の最中にお騒がせいたしました。私はこれにて失礼いたします。エドワード殿下、マリアさん、どうぞ、お幸せに――。あ、それと、明日の朝の執務室の机の上、楽しみにしておいてくださいね?」
ルミエラは完璧なカーテシーを披露すると、今度こそ優雅にドレスを翻した。
その足取りは羽のように軽く、彼女の行く手を遮る貴族は誰一人としていなかった。むしろ、誰もが畏怖と敬意を込めて、モーセの海割りのように道を譲った。
完璧な、完全なる勝利の退場劇だった。
4. 闇夜の邂逅、そして新たな契約
王宮の外に出ると、満天の星空がルミエラを迎えてくれた。
冷たい夜風が、夜会会場の熱気で火照った彼女の頬を優しく冷ます。
「ふぅ……! 完璧。完璧すぎるわ、ハンス! あのトウモロコシ頭の、サインした瞬間の絶望の顔! 一生忘れないわ!」
「お見事でございました、お嬢様。これほどまでに美しい『ざまぁ』は、我が執事人生の中でも最高峰にございます」
ハンスが馬車の扉を開けようとした、まさにその時だった。
「――本当に、あれだけで満足かい? ルミエラ」
低く、チェロの低音のようによく響く、甘く危険な声。
ルミエラがハッと振り返ると、馬車の影の漆黒の闇から、あの男――グラン・エルバ帝国の皇太子、ギルバート・フォン・エルバが、ゆっくりと姿を現した。
月明かりを浴びた彼の漆黒の髪と、すべてを支配する王者のオーラ。
彼はルミエラを見つめ、その端正な唇の端をニヤリと釣り上げた。
「ギルバート殿下……。まだ、いらっしゃったのですか」
ルミエラは即座に「完璧な令嬢の仮面」を装着し、警戒の目を向けた。エドワードのようなバカとは違い、この男は大陸最強の帝国の次期皇帝だ。一寸の油断も許されない。
「当然だろう。君という、大陸最高峰の『知の怪物』が、泥舟を沈めて自由になる瞬間を、特等席で見届けさせてもらったよ。金貨40万枚の請求明細……くく、最高にロジカルで、最高に冷酷な復讐だ。実に素晴らしい」
ギルバートは拍手をするように、ゆっくりと手を叩いた。その極夜の瞳には、ルミエラに対する深い興味と、狂おしいほどの「独占欲」がギラギラと輝いている。
「お褒めいただき光栄ですわ。ですが、私はもう自由の身。これからは実家で、のんびりと平穏な隠居生活を送るつもりですの。ですから、殿下のお誘いに乗るつもりは――」
「平穏な隠居生活? 君のような女が、そんな退屈に耐えられるはずがないだろう」
ギルバートは一歩、ルミエラに近づいた。彼の圧倒的な体躯とプレッシャーに、ルミエラは思わず息を呑む。
「金貨40万枚の請求。あの無能は確実に破滅するが、同時に王家も黙ってはいない。君の実家であるアルカディア公爵家に対し、裏から様々な圧力をかけてくるはずだ。いかに名門とはいえ、一国の王家を相手に、いつまで防衛戦を続けられるかな?」
ギルバートは、ルミエラの目の前で、再びその大きな右手を差し出した。
「だが、私の婚約者になれば話は別だ。我がグラン・エルバ帝国の庇護下に入れば、ルミナス王国の王家など、君の髪の毛一本に触れることすらできない。君は私の隣で、誰の目も気にせず、その天才的な頭脳を存分に振るうことができる。どうだ? 私の国で、私と共に、世界を相手に次の『ゲーム』を始めないか?」
彼のプロポーズは、甘い誘惑でありながら、同時に完璧な「ロジック」に基づいていた。
確かに、エドワードをハメ殺したとはいえ、王家からの報復の可能性は残る。実家を守り、かつ自分が本当の意味で自由でいるためには、この「帝国」という絶対的な後ろ盾は、これ以上ないほど魅力的だった。
ルミエラは、差し出されたギルバートの手をじっと見つめた。
そして、フッと、彼女自身の本性の、不敵で、挑戦的な笑みを浮かべた。
「……ギルバート殿下。私をあなたの隣に置くということは、いつかあなたご自身が、私の『牙』の標的になるかもしれないということですわよ? その覚悟は、おありですか?」
「くく……、面白い。私をハメ殺せるものなら、やってみせるといい。君になら、喜んで私のすべてを賭けよう」
ギルバートの瞳が、歓喜に歪んだ。
ルミエラは、ゆっくりと自分の右手を伸ばし、彼の大きな手に重ねた。
「よろしいわ。その挑戦、受けて立ちます。――エドワードという前座は終わりました。これからは、あなたと共に、本当のゲームを始めましょう」
二人の天才の、危険で、圧倒的に甘い「真の契約」が、闇夜の中で結ばれた瞬間だった。




