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完璧な3年計画

1. 泥舟からの脱出計画

ギルバート皇太子からの突然のプロポーズ(という名の勧誘)に対し、ルミエラがどのような返答をしたのか――それは、アルカディア公爵家の馬車がガタゴトと夜の街を走り出した今となっては、彼女の胸の内にだけ秘められている。

馬車のふかふかなシートに深く腰掛け、ルミエラは窓の外を流れる王都の夜景を眺めていた。

手元には、先ほどハンスから受け取った「録画魔導具」。そこには、エドワードが顔面蒼白でフリーズした、歴史的な傑作の瞬間がばっちりと記録されている。

「ふふ……、あはははは! 本当にいい気味だわ!」

ルミエラは我慢できずに再び笑いを破裂させた。対面に座る老執事ハンスが、ふっと目を細めて温かい紅茶を淹れてくれる。

「本当にお疲れ様でございました、ルミエラお嬢様。これでようやく、あの『3カ年計画』も無事に満了を迎えましたな」

「ええ、本当に長かったわ……。ハンス、私、自分で自分を褒めてあげたい。よくぞあのトウモロコシエドワードの顔を毎日見ながら、3年間も正気を保てたものだわ」

ルミエラは紅茶を一口啜り、安堵の息を吐き出す。

3年だ。丸々3年間、彼女は自分の本当の優秀さを隠し、世間からは「嫉妬深くて傲慢な悪役令嬢」と呼ばれ、陰口を叩かれ続けてきた。すべては今日という最高の解放日を迎えるための、長すぎる仕込みだった。

時計の針を、彼女が12歳だったあの「最悪の日」へと戻そう。

アルカディア公爵家は、建国以来の歴史を持つ名門中の名門だ。そんな家に生まれたルミエラは、容姿端麗、頭脳明晰、魔法の才にも恵まれた、非の打ち所がない天才少女だった。

だが、その優秀さが仇となる。王家から「次期国王であるエドワードの婚約者に」と名指しで要請が来たのだ。

当時、まだ幼かったルミエラは「王家を支える名誉ある大役」として、素直にその決定を受け入れた。生真面目な彼女は、公爵令嬢としてのプライドに懸けて、明日の王国のために役立つ知識を死に物狂いで学んだ。

だが、婚約が決まってからわずか数ヶ月後。エドワードと「初めての共同公務」として、王都の孤児院訪問の予算書を作った時のことだ。

12歳のエドワードは、提出された予算書を見るなり、あくびを噛み殺しながらこう言い放った。

「ふーん。ルミエラ、これさぁ、数字が細かくてよく分かんないんだけど。適当に『いつもの倍』って書いといてよ。俺、これから騎士団の訓練を見に行かなきゃいけないから、あとよろしく」

当時12歳のルミエラは、目の前の金髪の少年が何を言っているのか理解できなかった。

「殿下、予算を適当に倍にすれば、他の地方のインフラ整備の予算が圧迫されます。それに、孤児院の規模に対してこの額は、横領を疑われる原因に――」

「うるさいな! 君は俺の言う通りに『はい』って言っていればいいんだよ! 将来の王である俺の直感を疑うのか!? 女のくせに、いちいち数字の小言を言うな!」

エドワードはルミエラを怒鳴りつけ、そのまま部屋を飛び出していった。

残されたルミエラは、手元の予算書を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

(この男……ただの無能じゃない。自分の無能さを自覚していないタイプの、最もタチの悪い『ウルトラ無能』だわ……!)

その後も悲劇は続いた。

エドワードが「俺が考えた」と国王の前で発表した輝かしい経済政策は、すべてルミエラが徹夜で仕上げたものだった。国王が「おお、エドワード、素晴らしい成長だ!」と褒め称えると、エドワードはドヤ顔で「はい、父上。民のことを考えれば、この程度のアイデアは当然です」と胸を張った。

ルミエラへの感謝の言葉など、ただの一言もなかった。それどころか、裏に戻れば「君の文章、ちょっと硬いんだよね。次はもっと俺の天才的な感性に合わせた書き方をしてよ」とモラハラをかます始末。

(ダメだ。この泥舟は、遠からず確実に沈む)

ルミエラは確信した。

このまま彼と結婚すれば、自分は一生、彼の無能さの尻拭いをさせられ、手柄を奪われ、挙句の果てに国が傾いた時には「王妃の贅沢のせいだ」とすべての責任を押し付けられて処刑台に送られるかもしれない。

「絶対に嫌よ。私は私の人生を、こんな男のためにドブに捨てるつもりは毛頭ないわ!」

ルミエラは即座に、脱出計画を立ち上げた。

ターゲットは、エドワード。ゴールは、エドワード側の100%の有責による「婚約破棄」。

世間がルミエラに同情し、アルカディア公爵家に一切の傷がつかない形での、完璧な合法的決別。

そのためには、エドワードに「ルミエラを心底嫌わせ、別の女に逃げ込ませ、大衆の前で理不尽に婚約破棄を叫ばせる」必要があった。

ここに、ルミエラの『完璧な悪役令嬢(仮)プロデュース』が幕を開けたのである。

2. モラハラ王太子の育て方

「さて、ハンス。男が浮気をするための三大条件って、何だと思う?」

回想から戻ったルミエラは、悪戯っぽい笑みを浮かべて人差し指を立てた。ハンスは待ってましたとばかりに、恭しく頭を下げる。

「お嬢様が提唱された、あの『浮気誘導理論』ですな。一つ、本妻への強いストレス。二つ、家庭(または婚約関係)におけるプライドの喪失。三つ、それらを全肯定してくれる都合のいい女の存在、でございますね」

「その通り! 流石はハンス、よく覚えているわね」

ルミエラは満足げに頷いた。

計画を成功させるため、ルミエラがまず着手したのは、第一の条件である『本妻への強いストレス』と、第二の条件『プライドの喪失』を、エドワードに徹底的に植え付けることだった。

プライドがエベレストより高く、実力が泥の小石以下のエドワードが、最も嫌がる人間のタイプ――それは、「正論で自分を圧倒してくる、完璧すぎる女」である。

ルミエラは徹底的に「完璧な正論サイコパス」を演じ始めた。

エドワードが公務の書類をサボろうとすれば、ルミエラは絶妙なタイミングで現れ、冷徹な声で詰め寄った。

「殿下。この書類の提出期限は昨日までです。なぜまだ終わっていないのですか? 騎士団の訓練を見学する暇はあるのに、王族としての最低限の義務も果たせないのですか?」

「くっ、ルミエラ……! 俺には俺の、大局的な考えが――」

「大局的な考え、とは具体的にどのようなものでしょうか? 1分以内に論理的に説明してください。できないのであれば、ただの怠慢です。さあ、ペンを持ってください。私が隣で監視しますので」

エドワードにとって、ルミエラとの時間は「自分の無能さをこれでもかと突きつけられる地獄の裁判」へと変貌していった。

さらに、ルミエラはあえて、エドワードの友人である側近たちの前でも、彼のミスを完璧に、かつ淡々と指摘してみせた。

「殿下、先ほどの会議での発言ですが、統計データと完全に矛盾していましたよ。側近の皆様も、なぜ殿下の間違いをその場で訂正しなかったのですか? 殿足を盲従するだけなら、そこの壁の飾り物と変わりありませんわ」

側近たちも青ざめ、エドワードのプライドは人前でズタズタに引き裂かれた。

エドワードの脳内には、ルミエラに対する「恐怖」と「激しい嫌悪感」、そして「あいつの鼻をいつか明かしてやりたい」という歪んだ対抗心が、3年かけて着実に、そして深く刷り込まれていったのだ。

(よしよし、いい感じに私へのヘイトが溜まっているわね。早く私の手が届かない『癒しのオアシス』を求めて、どこかへ走り出しなさい、トウモロコシ頭!)

ルミエラは、エドワードから「おい、お前とはもう口も利きおたくない!」と冷たくあしらわれるたびに、心の中で「ストレス値、目標達成! 計画は順調!」と大はしゃぎしていた。

だが、これだけでは足りない。

エドワードがどれだけルミエラを嫌おうとも、彼が自分から「婚約破棄」を叫ぶには、決定的な『最後のピース』が必要だった。ルミエラの社会的地位(公爵令嬢)と圧倒的な正論に対抗できると思い込ませるだけの、強力な免罪符――。

それこそが、第三の条件である「都合のいい女」の登場だった。

3. 最高の撒き餌、マリア男爵令嬢

ルミエラが15歳になり、貴族学院に進学した年の春。

待望の「最後のピース」が、向こうから勝手に転がり込んできた。

マリア・フォン・ブラウン男爵令嬢。

平民上がりの成金男爵家の娘であり、学園の入学式で、お約束のようにエドワードと「ぶつかって転ぶ」という運命的な(笑)出会いを果たした少女だ。

マリアは、儚げなウェーブがかった栗色の髪に、潤んだ大きな瞳。学園の制服をわざと少し着崩し、庇護欲をそそる弱々しい雰囲気をこれでもかと醸し出していた。そして何より、彼女は重度の「勘違いシンデレラ脳」の持ち主だった。

ルミエラがマリアの身辺調査書を初めて読んだ時、あまりの条件の良さに、自室でハンスと祝杯を挙げたほどだ。

「ハンス、見てこれ! 『頭脳:下位10%、マナー:ほぼ皆無、得意技:嘘泣きとおねだり』だって! 最高だわ! これ以上ない、完璧な『バカだけど都合のいい女』じゃない!」

「おめでとうございます、お嬢様。神は我々を見捨てなかったようですな」

「ええ! エドワードの薄っぺらいプライドを満足させるには、これ以上ない最高の人材よ!」

ルミエラは即座に、二人が急接近するための『裏のプロデュース』を開始した。

まず、エドワードがルミエラからのストレスで限界を迎えるタイミングを見計らい、彼が一人で逃げ込む「お気に入りの図書室の隠れスペース」の情報を、わざとマリアの耳に入るように噂を流した。

案の定、マリアは「エドワード様、いつもお仕事大変なんですねぇ。マリア、お勉強は分かんないですけど、エドワード様の味方ですぅ」と、エドワードが最も欲していた「無条件の肯定」を供給し始めた。

エドワードにとって、マリアはまさに砂漠で見つけたオアシスだった。

ルミエラの前では「無能なバカ」として扱われる彼が、マリアの前では「頼りがいのある完璧な王子様」になれるのだ。エドワードがマリアに狂ったように溺れていくのは、心理学的に見ても必然の流れだった。

(さあ、ここからが私の本領発揮よ。世界で一番キレのある『悪役令嬢』を見せてあげるわ!)

ルミエラは、二人が密会している現場を「偶然」目撃する婚約者を演じ始めた。

学園の廊下、大勢の生徒が見ている前で、ルミエラは扇で口元を隠し、冷酷極まりない表情(の演技)でマリアを見下した。

「マリアさん。あなたのような下位貴族の娘が、我が国の王太子殿下に気安く接触するなど、身の程を弁えなさい。これ以上、殿下の公務の邪魔をするようであれば、アルカディア公爵家の名において、タダでは済ませませんわよ?」

「ひ、ひゃい……っ! ごめんなさい、ルミエラ様ぁ……!」

マリアは涙を浮かべて震え、そこへヒーローぶったエドワードが割って入る。

「やめろ、ルミエラ! マリアをいじめるな! 彼女はただ、俺の心配をしてくれていただけだ! 君のような冷酷な女に、マリアの清らかな心が理解できるか!」

「殿下、私は婚約者として当然の忠告を――」

「黙れ! 君の顔など見たくもない!」

エドワードがマリアを抱き寄せ、ルミエラを睨みつける。

その瞬間、ルミエラの脳内では。

(よし! エドワードのヒーロー願望メーター、一気にMAX! 『俺がマリアを悪魔ルミエラから守ってやるんだ』っていう歪んだ正義感が、完全に固定されたわね! ナイス自爆!)

ルミエラは心の中で拍手喝采を送りながら、外面では「……っ! 殿下、後悔なさいますわよ!」と、悔しそうに顔を歪めて立ち去るという完璧な演技を披露した。

その後も、マリアの「教科書が破かれる」事件が起きれば、ルミエラは裏で(あ、マリアさんが自分で破いてるわ。可愛い工作ね。じゃあ、私が犯人ってことでエドワードの脳内に登録しておこう)と、あえて弁明をせずに放置。

マリアが「階段から突き落とされそうになった」と嘘をつけば、(その時間、私は生徒会室でアリバイがあるけど、エドワードをさらに怒らせるために、あえて『ふん、証拠でもあるのですか?』って煽っておこう)と、火に油を注ぎ続けた。

すべては、エドワードの脳内に「ルミエラはマリアを憎むあまり、犯罪に手を染める狂った悪役令嬢だ」という集大成の妄想を完成させるため。

そして、3年目の今日。

エドワードはルミエラの計算通り、「大衆の前でルミエラを糾弾すれば、自分は正義のヒーローとして称賛され、マリアと結ばれる」という、完璧な罠(ハメ技)に自ら飛び込んできたのだ。

4. 罠にかかったトウモロコシ

馬車がアルカディア公爵家の壮麗な屋敷の敷地へと入っていく。

ルミエラは紅茶を飲み干し、窓の外を見つめながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「でも、あのバカ王子。本当に何も分かっていないわね」

「と言いますと、お嬢様?」

ハンスが空になったカップを片付けながら尋ねる。

「私が演じていたのは『嫌な女』であって、やってみせたのは『完璧な正論の押し付け』だけよ。彼が本当に気づくべきなのは、私が小言を言っていたからこそ、彼の最低限の『王太子としての体面』が保たれていたってことなのに」

ルミエラは、エドワードが明日直面するであろう「地獄」を思い浮かべ、哀れみすら覚える。

エドワードが「自分の実力だ」と思い込んでいた公務の成果。

領主たちとの複雑な減税交渉、隣国との国境線の摩擦に関する報告書の作成、王宮の官僚たちへの根回し。それらはすべて、ルミエラが裏でアルカディア公爵家の情報網と彼女自身の天才的な頭脳を使って、「エドワードでもサインするだけで済む状態」にまで完璧に咀嚼し、お膳立てしていたものだ。

「明日から、あの執務室には、私が処理していた大量の『本物の公務』が、未処理のまま山積みにされるわ。そして、それを代わりに処理しなければならないのは……新ヒーロー気取りの彼自身と、勉強が下位10%のマリアさんよ」

ルミエラはクスクスと笑う。

これこそが、彼女が仕掛けた本当の「ざまぁ」の第一歩。

自分がどれだけ恵まれていたか、自分がどれだけ無能であるかを、最も残酷な形で突きつけられる「社会的・事務的 ruin」の始まりだ。

「さあ、明日の朝の王宮が楽しみだわ。ハンス、明日は少し遅めに起きて、美味しいパンケーキを焼いてもらいましょう。私はもう、王太子の婚約者じゃない。ただの、自由で最高に優秀な公爵令嬢なんだから!」

「御意にございます、ルミエラお嬢様。これからは、お嬢様の本来の輝きを、世界に見せつけてやりましょう」

馬車が止まり、ハンスが扉を開ける。

ルミエラは軽やかな足取りで馬車を降り、夜空を見上げた。

頭に浮かぶのは、別れ際に現れたあの漆黒の髪の男――ギルバート皇太子の姿だ。

『私と、本当の社会的逆転劇を始めようか』

彼のあの、すべてを見透かしたような深い瞳と、危険なまでに甘いプロポーズ。

エドワードという泥舟を沈めたルミエラの前に現れた、グラン・エルバ帝国という名の「超巨大な軍艦」。

「自由を楽しみたいけれど……あのレベルの男に挑まれるなら、それはそれで、私の知略の試し甲斐があるかもしれないわね」

ルミエラは不敵に微笑むと、公爵家の美しい屋敷の中へと消えていった。

彼女の計略通り、完璧にクビになった最初の夜。

ルミエラは、この3年間で最も深く、心地よい眠りについたのだった。

――一方その頃、王宮の執務室では、エドワード王子がまだ見ぬ「絶望の夜明け」に向かって、マリアと祝杯を挙げていることなど、彼女は知る由もなかった。

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