第9話 証拠は語る
第三国の船は、大陸南方の海洋国セラフィアのものだった。
セラフィアは、香辛料の主要産地を擁する大国。ヴェルデンにとって最大の貿易相手国であり、その動向は国家の命運を左右する。港で働く人々にとって、セラフィアの船が来るということは、仕事が来るということだ。
「セラフィアから特使が来ている」
翌朝の朝一番、ニクラスが告げた。いつもより早い出勤だった。
「通商条約の更新交渉だ。五年に一度の大きな案件で、ヴェルデンの経済の根幹に関わる。条件次第では、この国の向こう五年間の繁栄が左右される」
「わたしにできることは?」
「補佐として交渉に同席しろ。セラフィアの特使は手強い。情報は多いほどいい」
セラフィアの特使は、コルネリウスという初老の男だった。穏やかな物腰だが、目は鋭い。握手の力加減が完璧で、強すぎず弱すぎない。交渉のプロだとすぐに分かった。長年の外交経験が、指先にまで染みている。
交渉は三日間の予定で始まった。
初日、コルネリウスはヴェルデンに対して厳しい条件を提示した。関税の引き上げ、倉庫使用料の改定、中継手数料の見直し。いずれもヴェルデンの利益を大きく削る内容だった。
「ヴェルデンの発展は、セラフィアの香辛料あってのもの。対等な条件を求めるなら、それなりの対価を」
ニクラスは冷静に応じたが、交渉は膠着した。セラフィア側の要求は高く、ヴェルデン側が受け入れれば港の活気が削がれる。かといって拒否すれば、セラフィアは別の中継地を探すだろう。
二日目の昼休み、わたしはコルネリウスの提示した条件を精査していて、ある矛盾に気づいた。窓際の机で書類を広げ、過去の記録と照らし合わせる。
「ニクラス、少しいいですか」
「何だ」
「セラフィアが提示した関税率の根拠ですが、彼らは『過去五年の物価上昇』を理由にしています。けれど、わたしが整理した港湾管理局の記録では、香辛料の流通量はこの三年で実は減少しています。具体的には、三年前をピークに入荷量が二割以上落ちている」
「つまり」
「流通量が減っているのに物価が上がるのは、供給側に問題がある可能性がある。需要が一定なら、供給が減れば価格は上がる。けれど、その価格上昇は市場の健全な動きではなく、供給不足の結果です。セラフィアは産地で何らかの問題を抱えていて、流通量を維持できていない。それを隠すために、強気の条件を出して交渉を急いでいるのかもしれません」
ニクラスの目が光った。かすかに、けれど確かに。
「根拠は」
「港湾管理局の入荷記録です。三年分を照合すれば、流通量の推移が分かります。すでに大まかな数値は把握していますが、具体的な裏付けを取ります」
その日の午後、わたしとイルマは港湾管理局に走った。もう何度も来ている建物だが、今日の足取りは特に急いでいた。記録を精査した結果、仮説は正しかった。セラフィア産香辛料の入荷量は、三年前をピークに確実に減少している。
「これは大きい」
イルマが言った。書類を指でなぞりながら、目を輝かせている。
「セラフィアが供給に問題を抱えているなら、ヴェルデンは代替の仕入れ先を開拓する選択肢がある。交渉で、こちらが強く出られる」
「そう。けれど、正面から指摘するのは得策ではない。相手の面子を潰すと、交渉自体が壊れる。コルネリウスは老練な外交官よ。恥をかかされたら、交渉を打ち切る可能性がある」
「じゃあ、どうするの」
「提案の形にする。『セラフィアの負担を軽減するために、ヴェルデンが中継ルートを多様化する用意がある』と。相手の弱みを指摘するのではなく、協力の形で示す。弱みを知っていることは、態度で伝わる。言葉にしないことで、相手に考える余地を残す」
三日目の交渉で、ニクラスはわたしの提案を採用した。
「セラフィアの供給体制を補完するために、ヴェルデンは南方諸島との新たな航路を開拓する計画を持っています。これはセラフィアにとってもメリットがあるはずです。中継地が強化されれば、セラフィアの商品もより広い市場に届く」
コルネリウスの表情が変わった。一瞬だけ、動揺が走る。目が泳いだ。それを隠すように、茶碗を手に取った。
「……新航路の計画とは、初耳ですが」
「まだ構想段階です。けれど、互いに利益のある形で進められれば、今回の条約更新もより良い内容になるのでは?」
交渉の空気が変わった。コルネリウスは、ヴェルデンが自分たちの弱みを知っていると悟ったのだ。けれど、それを攻撃の材料にせず、協力の提案に変えた。面子は保たれた。退路も残した。
最終的に、関税の引き上げは半分に抑えられ、中継手数料は据え置き。代わりに、新航路開拓に関する共同調査を行うという合意が成立した。双方にとって実のある結果だ。
調印式の間、わたしは書記として記録を取っていた。万年筆が紙の上を走る音が、交渉の終わりを告げている。コルネリウスが署名し、ニクラスが署名した。二本の万年筆が同じ紙の上で交差する。それは、二つの国の未来が交わる瞬間だった。
調印式の後、コルネリウスがわたしに近づいてきた。穏やかに微笑んでいる。
「あなたが分析したのですか、あの流通量の推移」
「……はい」
「見事だ。相手の弱みを知りながら、それを武器ではなく梯子にした。外交の要諦は、敵を倒すことではなく、敵を味方に変えることだ。あなたはそれを自然とやってのけた。いつか、セラフィアにも来てください。あなたのような人は、どの国でも重宝される」
わたしは丁寧に頭を下げた。コルネリウスの言葉は、社交辞令ではないと分かった。この人は、嘘をつくには年を重ねすぎている。
交渉の席を片付けながら、イルマが耳打ちしてきた。
「あのコルネリウスって人、セラフィアでは『銀の舌』って呼ばれてるらしいわ。その人に褒められるなんて、大したものよ」
「イルマも、記録の精査を手伝ってくれたおかげ」
「わたしは走っただけ。考えたのはあなた」
その夜、ニクラスとイルマと三人で、港の見える丘に立った。星が多い夜だった。
「大きな案件が片付いた」
ニクラスが珍しく、穏やかな声で言った。
「これで、ヴェルデンの経済基盤は当面安定する。お前の貢献は大きい」
「わたしだけの力ではありません」
「知っている。だが、始まりはお前の観察だった。記録を地道に読み、矛盾を見つけ、仮説を立てた。その積み重ねが結果を生んだ」
イルマが笑った。
「ニクラス宰相が人を褒めるの、年に一回くらいよ。記念日にしなさい」
風が吹いた。潮の匂い。この匂いが、いつの間にか好きになっていた。
ニクラスが黙って、わたしの隣に立った。肩と肩の間は、手のひら一つ分。前に上着をかけてくれたときより、少しだけ近い。
イルマがわざとらしく咳払いをした。
「わたし、先に帰るわ。二人とも、風邪ひかないようにね」
足音が遠ざかる。残されたのは、わたしとニクラスと、頭上の星だけ。
何も言わなかった。何も言わなくてよかった。星が静かに輝いている。波の音が、遠くから規則的に聞こえてくる。
――翌朝、宰相府にグラオスからの急報が届いた。ヨーハンが公爵位を剥奪され、ロレッタとの婚約も白紙に戻されたという。




