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10年尽くした夫は愛人を正妻にするようなので、公爵夫人をやめて隣国で第二の人生始めます。  作者: 渚月(なづき)


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第8話 崩れる塔

取引承認書の原本は、三通あった。


すべてに、夫ヨーハンの署名と、フォーゲル男爵の副署がある。日付、金額、取引先、すべてが記されている。インクの色は時期によって微妙に異なり、それが逆に本物である証拠だった。偽造なら、インクを統一してしまうものだ。


わたしはそれを、宰相府の執務室で広げた。隣にはイルマ。向かいにはニクラス。三人の間に、三通の書類が並んでいる。沈黙が重い。


「照合結果と合わせれば、グラオス公爵家の名義で行われた不正取引の全容が証明できます」


声は落ち着いていた。自分でも驚くほどに。ここに至るまでに、どれだけの時間がかかったか。どれだけの感情を押し殺したか。けれど今、感情は要らない。必要なのは事実だけだ。


「フォーゲル男爵の死で、グラオス側は動揺しているはずです。男爵が自ら命を絶ったことで、不正の存在を間接的に認めたようなものです。今が反撃のときです」


ニクラスが頷いた。


「手順を確認しろ」


「まず、ヴェルデンからグラオスへ正式な外交文書を送ります。内容は、不正取引の証拠開示と、公爵家に対する損害賠償の請求。同時に、わたしの身柄引き渡し要求を不当として却下する声明を付けます」


「グラオスの反応は?」


「名誉を最も重んじる国です。不正が公になれば、公爵家だけでなく、グラオスの貴族社会全体の面子に関わります。ヨーハンは、何としても公開を阻止しようとするでしょう」


「つまり、交渉の余地が生まれる」


「ええ。交渉の席につかせることが目的です。こちらの条件を呑ませるために」


イルマが口を開いた。


「条件は何にするの?」


「三つ。一つ目、婚姻の正式な解消。教会裁判所を通した、法的に完全な解消です。二つ目、わたしの持参金の全額返還。三つ目、不正取引に関するグラオス側の責任の公的な認定」


「三つ目は飲まないでしょうね」


「飲まなくていい。交渉では、最初に高い要求を出して、相手に『ここまでなら譲れる』と思わせる手法があります。三つ目を下ろす代わりに、一つ目と二つ目を確実に勝ち取る。相手に『譲歩させた』という満足感を与えながら、こちらの本当の目的を達成する」


ニクラスが、わずかに口角を上げた。


「外交官として悪くない」


「十年間、公爵夫人として社交界の駆け引きを間近で見てきましたから。表の華やかさの裏で、どれだけの交渉が行われているか」


外交文書は、その日のうちに発出された。ニクラスが署名し、イルマが封蝋を押した。わたしはその横で、文書の最終確認を行った。三人の役割が、自然と噛み合っていた。





グラオスからの返答は、五日で届いた。


予想通り、激昂した内容だった。ヨーハンは証拠の公開を「誹謗中傷」と呼び、ヴェルデンの「内政干渉」だと非難した。文面に、焦りが滲んでいる。インクが濃い部分と薄い部分がある。書いては消し、書き直した痕跡だ。


けれど、文書の末尾に一行だけ、こう書かれていた。


「協議の席を設けることは、やぶさかではない」


ニクラスがその一行を指差した。


「来たな」


「ええ。怒りの裏に、恐れがある。公開されたら終わりだと分かっている」


協議は、国境近くの中立地で行われることになった。ヴェルデン側の代表はニクラス。補佐としてわたしとイルマが随行する。


出発の前夜、わたしは宿舎の窓から港を眺めていた。月が出ている。港の水面に光が揺れて、無数の欠片のようだ。


ここに来て、もう二ヶ月が経つ。長いようで短い。けれど、グラオスにいた十年よりも、はるかに濃い。


ノックの音がした。


「アネーゼ、起きている?」


イルマだった。珍しく、表情が柔らかい。


「明日の準備で緊張してるかと思って」


「少しだけ」


「わたしも。でも、あなたがいるから大丈夫だと思ってる。悔しいけど」


わたしは笑った。イルマも、ほんの少し笑った。この人の笑顔は、意外と可愛い。本人に言ったら怒るだろうけれど。


「イルマ。ありがとう」


「だから、礼はいらないって。何度言わせるの」


彼女が去った後、もう一度港を見た。月明かりが水面に揺れている。明日、十年の決着をつける。


翌日、馬車で国境に向かった。車中でニクラスは書類を読み、イルマは地図を確認していた。わたしは窓の外を見ていた。グラオスの方角に、山並みが見える。あの山を越えて来たのだ。


中立地に着くと、グラオス側の代表は既に到着していた。


ヨーハンが、そこにいた。


二ヶ月ぶりに見る夫の顔。以前より頬がこけている。目の下に濃い隈がある。眠れていないのだろう。金髪も、以前のような光沢がない。この二ヶ月で、彼もまた何かを失ったのだ。


「アネーゼ」


「ヨーハン」


感情は抑えた。ここは交渉の場であって、夫婦の再会の場ではない。わたしは外交補佐として、ここにいる。


交渉は二時間に及んだ。


ヨーハンは最初、虚勢を張った。「証拠は偽造だ」「アネーゼが持ち出した書類を加工した」。声は大きいが、中身がない。けれど、ニクラスが原本を一枚ずつ提示するたびに、彼の声は小さくなっていった。


三通目の原本を見せたとき、ヨーハンの顔が蒼白になった。自分の署名だと、認めざるを得なかったのだ。


わたしは一言だけ言った。


「ヨーハン。あなたの署名は、あなた自身のものでしょう?」


彼は答えられなかった。長い沈黙。室内に、遠くの鳥の声だけが聞こえた。


最終的に、婚姻の正式解消と持参金の返還が合意された。三つ目の公的認定は、予定通り譲歩した。代わりに、ルッツ商会を通じた不正取引の即時停止という条件を入れた。当初の計画通りだ。


合意書に署名するとき、ヨーハンの手が震えていた。万年筆を持つ指が白い。


「……すまなかった」


小さく、そう言った。


わたしは何も答えなかった。答える必要がなかった。十年分の言葉は、もうここには置いていかない。


会場を出るとき、ヨーハンの側近が追いかけてきた。


「奥方、どうか公爵様をお許しください」


振り返らなかった。許すとか許さないとか、そういう問題ではないのだ。わたしはただ、自分の人生を取り戻しただけだ。許しを請われても、返す言葉が見つからない。


帰りの馬車で、ニクラスが言った。


「見事だった」


「いいえ、ニクラスとイルマのおかげです」


「お前が積み上げた証拠がなければ、何もできなかった。これはお前の勝利だ」


窓の外で、夕日がヴェルデンの港を照らしていた。橙色の光が、海面を金色に染めている。


勝利。そう呼んでいいのだろう。けれど、胸の中にあるのは達成感というより、ようやく長い夜が終わったという安堵だった。


イルマが隣の座席で、静かに書類を片付けていた。ふと、こちらを見た。


「大丈夫?」


「ええ。大丈夫よ」


「嘘つき。顔が白い」


言われて初めて、自分の手が冷たいことに気づいた。緊張が解けた後の反動だ。イルマが黙って手袋を外し、わたしの手を握った。温かかった。何も言わず、ただ握ってくれていた。そのまましばらく、馬車の揺れに身を任せた。


――馬車がヴェルデンに入ったとき、港に見慣れない大型船が停泊しているのが見えた。船旗は、グラオスでもヴェルデンでもない、第三国のものだった。


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